- Amazon.co.jp ・本 (175ページ)
- / ISBN・EAN: 9784534035615
感想・レビュー・書評
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筆者が若者の問題に関して最初「社会の責任云々を問うのではなく、あくまで若者世代自身に非があることを強調したい」とするスタンスを取る宣言をした意味について、少し考えてみる必要があると思った。何故なら、最後の章で『ポストモダニズムの限界』を引用したりと、結局のところ必要なのは社会構造の改革=社会にも責任はあるという論調が見られるからだ。
本書は「文化や価値観を革新するのは常に若者である。」という風に論文を締める。しかしその締めに行く前に「昔の若者(ルネサンス・明治維新)は運動によって価値観を変えてきたが、今の若者は・・・・」という具合の前置きがある。それに関して前に読んだ外山恒一の本の中に「80年代の闘争とは、つとめて何もしない反抗であった。」という記述があった。筆者(波頭氏)からすればそんなめちゃくちゃな話もないだろうが、僕としてはそういう解釈の仕方に頷けるものがあるのだ。社会への反抗を行動で示した前世代は、それがまるで夢であったかのように社会の忠実な成員と化し、今や会社に搾り取られるがごとく働かされている・・・・。そんな状況を見ながら若者たちは無意識のうちに取るべき行動を選び取る。つまり「皆で何かしたところで何も変わらない、何かして何も変わらないなら、何もしないで変えてやろう。」という反抗理念は言葉の上では筋を通す。そしてその反抗理念は筆者が指摘するように、確かに日本を変えていったのだ。その変化は若者たちが「自由選択」という理念を勝ち取ったという面で吉であり、筆者の指摘通り社会成員としての自覚を失ったという面で凶であり、二つの側面を持つ。
筆者が『良し』とする運動、ルネサンスや明治維新を考えてみる。ルネサンスは宗教にとらわれないヒューマニズムに基づく思想を手に入れた出来事であったが、それは同時に「神の喪失」という事件に繋がっていき、ニヒリズムだとかエゴイズムだとかを生み出すことになる。明治維新は確かに日本の文化を発達させはしたかもしれないが、現代騒がれる「日本的な物」が失われゆくステップの第一歩でもあった。このように何かを得れば、必ず何かを失ってしまうのが「革新」なのである。そして筆者はこれらの良いとこだけを挙げて、事後評価をしたのだ。
以上のことから「革新」に関する考察は少し表面的。
それに筆者の言う若者たちは社会成員としての役割を果たしているともいえる。親の金で消費し、自由を求めて低賃金で働いてくれるのだから、こんなに体の良い労働力もないだろう。まことに皮肉な話であるが、どうあがいても社会システムから逃れることはできないのだ。現にこのような労働力を用いて利益をあげる企業は多い。日本が世界に誇るあの企業すらもだ。そしてそれは確実に日本の経済を腐らせている。筆者の言う「企業にゲセルシャフトとしての自覚がなさすぎる。」というのには大いに共感だ。『ハマータウンの野郎ども』と併せて考えると面白い。
つまりだ、考えていくうち、やはり根柢のところで社会システム自体の責任が見えてくるのである。価値観の変動の後、緊張しなければいけないのは国を動かす側である。ルネサンスも明治維新もそれが出来たからうまくいった。ここで、最初の段落に書いたことについてもう一度考えてみる。筆者の宣言は、我々若者に向けられた挑発である、起爆剤の提供である、と読んだらいいのではないだろうか。そうでなくては話がややこしくなる。そうすることで、あらたなベクトルの価値観を作り出そうとしたのではないか。
この本が書かれたのは2003年であり、当時はイチロー新庄では、新庄に若者人気が集中したらしいが、今は確実にイチローである。価値観の変動は始まっているのかもしれない。
ただ理解できないのは経済学者であるにもかかわらず、ワーキングプアに関する記述が一切ないことである。
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03073
「ラク」を選び「イマ」しか考えない現代の若者たち。彼らの思考、ライフスタイルを容認する社会風潮は日本の衰退につながると、著者はc断固としてNOをつきつける。打開策として著者は能力主義、メリトクラシーの復活を提唱するがそれは結局、競争社会を復活させてしまうことにならないだろうか。
かつての若者たちが企業に従属することを拒否し、自由な生き方を選んだのはそうした社会への意義申し立てでもあった。彼らの末裔が現在の若者たちであるともいえるが、質的には異なると思う。