やればできる学校革命: 夢をはぐくむ教育実践記

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  • 日本評論社
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784535560567

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  • 『We』176号(http://femixwe.cart.fc2.com/ca18/73/p-r18-s/)でインタビューを掲載した武藤類子さん(ハイロアクション)の父上は、かつて福島県三春町の教育長だったという。その武藤義男さんが関わった三春町の教育改革のことが書かれた本(「編集後記」で編集長が書いていた本)を借りてくる。

    「生きる喜びを育てる教育」をめざした教育改革の実践記として、1章と4章を武藤さんが、教育改革にともに携わり三春の中学の校長をつとめた井田さんが2章を、学校づくりに建築の立場で関わった長澤さんが3章を書いている。

    1980年、武藤さんが教育長になったころ、校内暴力、家庭内暴力、いじめ、小中学生の自殺などが頻々と報道されていた。こうした学校の荒れは、三春町も例外ではなかった。1980年代のはじめ、私自身はちょうど小学校から中学校にうつる頃で、私の通った学校も、机や椅子が降ってくることがあったり、先生が廊下でこづかれたりする姿をみることがあった。干刈あがたの『黄色い髪』が、実感としてよくわかるような、そんな頃だった。

    武藤さんは、教育委員会からの広報誌を復刊し、町の人たちに、親たちに、そして教師たちによびかけた。「子どもとともに自分を新たにつくり変えていく人でなければなりません」「人間理解とは、生きる喜びの共感なのですから、教師も生きる喜びを知り、あるいはそれを求める人でなければなりません」と、教育への情熱をそそごうという教師像を語り、学校が「人間の尊厳を護る砦となり、教師集団の心意気の高まる広場となり、父母の信頼を受け、町民すべての心のよりどころ」となるようにと希望を語った。

    町内で議論がはじめられ、三春の教育改革をすすめていくための三つの目標が立てられた。それは
     1)創造的教育観の確立と教育内容、方法の改革
     2)新しい教育を支える施設・設備の改革
     3)地域住民の教育参加
    だった。とくにこの三つめの「地域住民の教育参加」が入っているところが、すばらしいと思う。

    2章(子どもが変わる、教師が変わる)で井田さんが評価について書いている箇所で、突然、自分が中学生の頃に書いた作文のことを思い出す。

    ▼本来、評価とは生徒をランクづけるものではありません。生徒の活動を支援していく場合の計画、実践、反省の各段階に検討修正を加えていくための基礎資料を得る活動であり、生徒の自己評価とあわせ、次の活動に役立たせるためのものです。(p.125)

    学校の中で(たぶん外でも)、評価はランクづけと絡んでいる。「次の活動に役立たせるためのもの」というよりは、エエ子はこれでっせ、こっちの子はもひとつですなという商品ラベル風のもの。評価はそういうものとして私にはうつっていたから、それで作文のなかで「人が人を評価することなんかできるんか」といったことを書いたのだろう。小学校までは本人にとってこれは「できている」かどうか絶対評価だったのが、中学校ではこのランクが何パーセントという相対評価になったこともあったのだと思う。(作文全体の内容は今まったく思い出せない)

    評価といえば、大学で働いていたころにも、自己評価、外部評価、ピアレビュー…そんな言葉が大量に漂っていた。それらは「大学改革」という文脈で出てきていたが、何を目的にどんな大学をめざして評価を行おうとするのかがまるでわからず、しかし評価のために出せと言われる書類ばかりが増加して、へんだった。

    長澤さんの書いた3章(創意あるプランと設計を求めて)では、施設をとおしてお互いに教育観を闘わせながらの学校づくりのもようが記されている。小学校でのオープンスペース方式、図書室中心の学校づくり、中学校では教科センター方式が採用され、それを実現するための空間づくりがすすめられる。

    ▼教室が開かれ、自由な教育空間をもつことによって、ごく自然に教師どうしが協力して授業をしたり、学習環境づくりを進めたりするようすには、想像以上に施設・空間の影響は大きいということを感じさせられました。(p.207)

    教室をオープンにすることは、私もいくつか実例を見聞しているが、教科センター方式のことは全然知らず、なるほどなーと思いながら読んだ。決まった教室で、先生が来るのを待つのではなく、自らの「移動」によって次の時間への意欲をたかめる。待っているのではなくて、自分が行く。そこでは生徒自身の自主性や周囲への配慮が育つことが期待されている。ここを読んでいて、いくつかの実習教科はともかく、基本はホームルーム教室にいて先生が来るのを待つ経験をあまりにも長くしてきて、それが自分にとってはアタリマエの学校やったなあとつくづく思った。

    さいごの4章(教育改革で見えてきたもの)で、武藤さんは、地方教育委員会よ 立ち上がれ!として、こう書いている。
    ▼教育委員会がしっかりした理念をもち、学校を励まし、教育委員会の先頭に立つならば、学校の教師たちはどんなにか勇気づけられ、教育に専念できることでしょう。なんといっても、町や村の教育委員会は学校の校長や教師にとって、いちばん身近な頼りになる行政機関なのですから。(p.247)

    大胆に自己改革をはかり、地域の教育をよみがえらせなければと、武藤さんは提案する。
     1)教育委員会はつねに地域に開かれていなければなりません
     2)教育委員会は、つねに教育改革にともなう教員の質の向上をはかるために、行政的な条件整備を進めなければなりません。
     3)教育委員会は学校図書館の充実をはからなければなりません。

    この提案においても、また三つめがすばらしいと思う。学校図書館法の第一条を引き、「好きなときに好きな本を選択し、人類の知恵の宝庫に自由に遊ぶことができる」、そんな学校図書館が学校の心臓部として機能することこそが学校の姿だと武藤さんは語る。埼玉県大宮の中学校でつとめていた頃には、学校の真ん中にあった職員室の場所を、図書館に変えたという武藤さんの根っこがここにもつながっている。

    そして、教育行政の民主化の一歩として、教育委員の公選制を復活させるべきだと述べている。「公選制によってこそ地域住民は民主主義を学びます。推薦すべき有能な人物を選び育てます」(p.253)と。

    そう主張する武藤さんは、学校が「縦の序列」を整え、校長や教頭の権限が強化され、職員会議が上意下達の場になっていったことが、画一化された教育の一因であろうという。そうではなく、子どもの人権を最優先する自由と民主主義の土壌にこそ、真の教育は育つのだと。

    こないだみた映画「"私"を生きる」も、こないだ読んだ『子どもが見ている背中』も、武藤さんが掲げた「子どもの人権や自由を大切にすること」とは、全く逆の方向へと、教育委員会をはじめ縦の序列による上意下達がなおいっそう進んでいる状況を伝えている。

    いま、三春の教育、学校という場がどのようなものになっているのかは、わからないけれど、こうした志をもった教育長のもと、改革がすすめられた実績があることは、一つの励ましに思える。

    この本には、教育基本法の成立過程での議論や、三春の学校に通い、卒業した生徒たちの文章、三春の学校に関わった教職員の文章などがさまざま引用されていて、本文の内容とともに、それらの文章がまたよかった。

    (2/18了)

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