「創造的である」ということ〈上〉農の営みから (人間選書)

著者 :
  • 農山漁村文化協会
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レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784540053085

感想・レビュー・書評

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  • KiKi がLothlórien_山小舎での暮らしを指向し始めた頃、KiKi はいくつかの疑問を自分の中に抱えていました。  その一番核にある問題意識。  それは

    「自分はいったい何をやっているんだろう???」

    というものでした。  仕事はそこそこ充実していました。  そこそこのポジションを得、どちらかというと経済的にもゆとりがある方だったと思うし、人間関係に大きなストレスを抱えているというわけでもなく、プライベートの生活にも小さな不満はあっても深刻な不満・不安があるわけでもない。  かといって充足感に満たされているわけでもなく、どこか違和感のようなもの・・・・・を抱えている。  それが何なのかはわからない。  「生きがい」だの「やりがい」だのという言葉にはどこか懐疑的で「自分探し」な~んていう言葉にも嘘臭さを感じ、消費一辺倒のライフスタイルにも疑問を持ち、でもどうすればいいのかわからない・・・・・。  でも決して鬱症状ということでもないみたい・・・・。  いったいぜんたい何なんだ!!  どうすりゃいいのさ!!!  そんな閉塞感にも似た想いでした。  正直、「こんなことを考えるのは贅沢な悩みというものなのかもしれない」と自分を納得させようとしていたようなところもありました。

    そんなときに再読したのがミヒャエル・エンデの「モモ」でした。  久々に読んだあの本の衝撃たるや凄まじいものがありました。  もっともあの時にはまだまだ整理できていなかった読後感・・・・ではあったんですけどね(笑)。  で、その漠然とした読後感を行動レベルで突き詰めていった行く手にLothlórien_山小舎がありました。  でもね、KiKi は内山さんのように1つのことを突き詰めて考える「哲学者的」な根気には欠けるために、その読後感を整理して自分の思想に昇華するところまではまったく手がついていない人間なんです。  今回、この本を読んでみて、

    「ああ、あの過程で KiKi が漠然と考えていたことの大半がここに言葉になって書かれている。」

    KiKi はそう思いました。  まあ、哲学者の書いている本なので、今の時代に受ける「ああすれば、こうなる」的なマニュアル本的なものではなく、どちらかというと人が行動する際の考え方の根っこにあるものをつきつめると・・・・・・っていうことが書かれている本で、そういう意味では少なからず

    「言いたいことも何となくわかるし、ご高説は拝聴させていただきましたが、要するに我々はどうすりゃいいのさ?」

    みたいなスタンスで読むと「ふ~ん・・・・・」で終わっちゃう本だとは思うんですよ。  でもね、KiKi は自分が知らず知らずのうちに陥っていた「思考停止状態」に渇を入れたいと思っていて、そのためにどんな筋道を辿って物事を考えていけばいいのか、多面的に物事をとらえたいとは思っているけれど、どんな視点からものを見るようにしていけばいいのか、もっと言えば、自分が苦手としている目線がどの方向からのものなのか・・・・・を明確にはわかっていなかったので、今回の読書はその助けにはなったなぁ・・・・と思います。

    (全文はブログにて)

  •  農業の前提にあるものはまず農地であり、農民の技であり、農村集落のあり方です。つまり地域社会と結びついたところで農地も農民の技もあり、それらのものに支えられて作物の生産がおこなわれるというところに、農業は成立するからです。逆に述べれば、農村も農地も農民の技もないところでは、いくら貨幣が投じられても、少なくとも長期に持続する農業を営むことはできないでしょう。
     さて、このようなことを述べてきたのは、農業を捉える精神の習慣は、いま転換点を迎えているのではないか、ということを考えてみようと思ったからです。農業をも市場経済のなかでとらえる精神は限界にきており、農業がもっている多面的な価値から農業を創造しなおそうという方向に、私たちの精神も変わってきているのです。
     もしそうだとするなら、この転換を、農民と連帯する市民の手で実現させていきたい。そして、そのためには、農業をとらえる新しい精神の習慣を、農民と市民が協同でつくりだしていかなければならないと考えるのです。とすれば、、そのためにこそ、私たちはもう一度、農業とは何かを考えてみなければならないでしょう。(p.24)

    農業の後継者のなかに非農家出身者、非地域出身者がふえていくという、これからの時代を考えるときにも重要になってくる現象があります。おそらくこれからは、農民の相当の部分を非農家出身者がしめていくことになるでしょう。とすれば「家」の技術というものに期待してばかりはいられないわけで、むしろ、かつては「家」の技術であったものをも、地域の技術として受け継ぎ、継承させながら、そのなかに新しい農民をも受け入れていく努力が、必ず必要になるように思われます。その点では、「家」の継承なき農業と農民の時代をも、私たちは考え出さなければなりません。(p.30-31)

     かつては農の営みは、しえ活・労働・接客が一体化するなかに成立していました。この三つの行為は、互いに支えあう関係にあり、分離することができなかったのです。そして総合的な関係のなかに労働があったのです。
     私はこのような労働を「広義の労働」と呼んでいます。広義の労働とは、その行為をとおして何かがつくりだされ、その基礎では何かをつくりだすための関係が創造・再生産されていくような労働のことですが、この視点に立つなら、人間が生きていく過程は、連続的な労働の過程だということができます。なぜなら人間たちは、ときに労働をとおして生産物をつくりだし、ときに労働をとおして地域の人々との関係を創造し、ときに労働のなかで家族との関係を生みだしたりしながら、たえず何かをつくりつづけているからです。
     ところが今日では、経済価値をつくりだす労働だけを、労働だと考えるようになってきました。このような労働を、私は「狭義の労働」と呼びます。この広義の労働と競技の労働は対立概念ではなく、広義の労働の一部に協議の労働がある、と考えたほうがよいでしょう。
     つまり狭義の労働だけが労働としてとらえられるようになった結果、生活・労働・接客の一体性も失われたし、非労働的世界が生まれ、それが、生活とか、接客とか、別の概念で呼ばれるようになっていったのです。(p.70-71)

    消費者は作物を買っているけれど、そのことをとおして農業をつくる側にまわる、農業や農民を支える側にまわる。農民は作物を売っているけれど、消費者の生活を支える側にまわる。そのことによって、共同で農業や農民、農村と、消費者の生活や文化的な暮らしを創造する。そういう共同の「場所」をつくりながら、この「場所」のなかで諒解できる交換ルール、交換習慣をつくる。その結果儀礼的な手段として貨幣もやりとりされる。こんな考えが、小さな産直をいっぱいつくりだしていくうえでは必要なのでしょう。(p.202)

    客観的で普遍的な真理を生みだす思想は、思想自体が権力になり、真理を見つけだしたと思っている思想とそう思われていない思想の間に支配ー従属関係をつくりだし、さらにはその思想の体現者をとおして、社会のなかに支配ー従属関係をつくりだしてしまう。
     思想を人間の存在の世界とともに展開しているものとして、みつけ直したい。その思想を深めていきたい。そんな気持ちをもっています。(p.222-3)

     利害ではないとするなら、思想は何のためにあるのか。ひと昔前なら、より良い歴史をつくっているために、と言ったかもしれません。もちろんより良い歴史がつくられていくことに批判などあろうはずはありませんが、さきほど述べたように、私は歴史とは積み重ねられていくだけであって、歴史の発展というような発想をもちたくはないのです。
     そんなふうに考えていくと、結局、思想とは文化だという言葉につきあたります。すぐれた関係をつくるとは、深い文化とともにある関係をつくること、あるいは大事な文化だといえるような関係をつくることだとするなら、思想は文化を奥底で支えるものだ、としかいいようがなくなってしまうのです。(p.228)

  • 創造性とは、必ずしも芸術と結びついた言葉ではない。地に足をつけた農業や地域、自然との関わりから考える創造性、というアプローチに頷きながら読んだ。

  • ローカルな循環系社会を実現することを訴える。
    ●インディアンは自然の恵みを最小限いただきながら、自分達の生活を質素に営み、精神的には高い文化を築いていた。
    ●仕事と稼ぎは異なる。貨幣を得る事が稼ぎ。村を維持するための共同作業、寄り合いなどが仕事。
    ●中世社会は農村を軸に展開し、全体として自給自足的・循環系のなかで人々は生きていた。
    ●循環系の社会から離脱しながら、個人になっていく過程と単純な交換手段であった貨幣が次第に富をあらわすものになっていく過程は重なる。

  • 備忘録的に書いたらまとまりのない文になってしまった。。

    都市と山村を往復して暮らす哲学者が書く本。
    本書は著者が講師となっている農家の勉強会をまとめたもの。
    農民やかつての共同体がもっていた思想について書かれている。

    農民はかつては地域の自然体系を上手に利用する「多職の民」であったという。
    地域の山を利用した山の民としての性格、農作物や自然の生産物を利用する家内職人としての性格、水田を泳ぐ魚を獲る漁民としての性格、等々。
    様々な職業を顔を持ち合わせることによって農民は生活してきた。
    戦後の農政は農民を専業農家にすることを理想としたが、それは多職の民としての機能を失わせることとなり、専業では生活できなくなった農民が兼業農家となっていった。

    景観の維持にとても熱心なヨーロッパ。対して日本では景観維持はあまり熱心ではなく、それが無秩序な開発を招いている。
    なぜか。筆者は日本では景観の秩序維持という思想はもともと持っておらず、風土を守ろう思想があったからだという。
    山、川、農村、農民の生活や労働、共同体としての関係まで一体となったもの。
    地域の風土が崩壊し、継承すべき風土をもたない社会になった結果、景観も崩れていった。

    風土とはローカルなそれぞれの地域に生まれるもの。
    近代では農業を含めてグローバル化、ユニバーサル化が正しいとされ、進められてきた。
    しかし世界は多様であり、貧弱な自然しかないところもあれば、人間の手に負えないような自然の地域もある。人間と自然との関係も多様である。
    これでグローバル化などできるのだろうか。

    市場主義経済が世界を席巻しているが、これも近代ヨーロッパの都市民が考えたローカルなもの。
    全世界のあらゆるものに適用できるものではない。
    特に地域地域の自然と人間の関係のもとで成立している農業においては。


    一回読んだだけではすべてを飲み込みきれなかった。
    農村に入りこむという経験を十分していないので、まだまだ理解できないところもある。。
    でも分かるところは分かる。現在の地域が、農業が抱えている原点がこのあたりにあるのだろうな。

  • 農村共同体と家父長制の関係。これからの農と女性。→この本を読んでいて出てきた関心テーマ。
    ・半商品
    ・ローカルな「場所」を単位に循環系の社会を築く。
    ・貨幣を単純な交換財に後退させ、共同的文化的価値の再考を。
    ・時間の消費者から時間の創造者へ
    ・思想とは、風土が生み出した共同的価値

  • 人の営みの根幹をなす「農」。
    人と「農」、さらには「自然」とのかかわりとは、どのようなものであったのだろうか?

    今、深く読んでる最中ですが、オススメです。

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著者プロフィール

1950年、東京生まれ。東京都立新宿高等学校卒業。哲学者。1970年代から東京と群馬県上野村を往復しながら暮らす。むら人の暮らしの考察をとおして、自然と人間との関係、仕事と労働、時間や共同体などをめぐって、独自の思想を構築する。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授(2010年4月~2015年3月)などを歴任。NPO法人・森づくりフォーラム代表理事。『かがり火』編集人。主な著書は『内山節著作集』(全15巻、農文協)に収録されている。最近の著書として『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)、『いのちの場所』(岩波書店)、『修験道という生き方』(共著、新潮選書)などがある。

「2019年 『内山節と読む 世界と日本の古典50冊』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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