「創造的である」ということ〈下〉地域の作法から (人間選書)

著者 :
  • 農山漁村文化協会
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  • Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784540053092

感想・レビュー・書評

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  • ここで重要なのは、「読み直す」という作業です。「読み直す」とは、ただ読むことではなくて、現在の問題意識で「読み直す」ということです。つまり、現在の問題意識で読み直すから、そこにその時点でなければ発見できない新しい文脈や新しい意味が発見される。私たちがヒントにできるのは、そういうものだという気がします。(p.22)

    歴史の叙述は、つねに現在の問題意識から書かれた物語であり、しかも星の数ほどある小さな歴史物語を地方史、郷土史へと追いやることによって、国民を大きな歴史の物語のなかに統合していく形で書かれたのが「歴史」にほかなりません。
    とすると、客観的事実としての歴史叙述ができるかのごとく幻想にとらわれるより、それぞれの、あるいは自分たちの、歴史物語を語り継ぐことのほうがずっと重要なはずです。(p.57-58)

    確かに言葉は、それ自身の意味と、そこにふくまれている意味とのふたつを保持しています。たとえば「大黒柱」という言葉は、家屋を支えている中心にある太い柱のことであり、そこから派生して「わが家の大黒柱」というような使われ方をするものです。ところが、「僕の実家には黒くなった大黒柱があってね」という話を聞いたとき、その聞き手に伝わっているものは、黒くて太い柱がある、ということだけではないでしょう。村の暮らし、囲炉裏のある暮らし、旧家、農の営みとともに暮らす人々、きっといろいろな漬け物がつくられていたり、いろんな技を持つ人がいたりするのだろう……、といった実にさまざまなことを「黒い大黒柱」という言葉が伝えているのです。とすると、言葉が交わされていくことによって、いろいろな記憶が伝えられていくことも、可能性がないことはない、という感じもしてきます。(p.110)

    人間は意識的なものであれ、無意識的なものであれ、記憶の世界に現実を照らして判断し、生きている。だから記憶されていないものに直面すると対応できない、判断できないという不安がでてくる。それを率直に認めればよいのですが、知性がそれを邪魔する。科学的に考えれば、などといういい方になじんでいるから、不安を表面化させることができずに、奥のほうに無意識の不安だけが蓄積されていく。その不安を押し込めている扉が何かのはずみで開くと、不安は暴走するしかなくなってしまう。(p.120)

    身体とは何か。人間が記号化されていく社会とは何か。人間は他者との間に双方向的な緩衝帯をもち、この緩衝帯に包まれていてこそ正常だったのではなかったか。そんな考察が次々にあらわれ、裸にされた個人というものはみずから自由を失っていくという現実を、直視するようになってきました。(p.212)

    学校教育は、もしかすると何かを壊しつづけているのかもしれない。学校の教員のなかに、「自分たちはもしかすると地域を壊し、自然を壊し、『非文字の学問』を壊しつづけているのかもしれない」というような気持ちが生じたときに、学校教育もはじめて何かをなしうるのではないでしょうか。(p.237)

  • ●資本主義というシステム・近代国家という仕組みが成立する中で、村といった地域・共同体は個人に分解されていった。
    地域での役割が薄れ、風土に根付いた個性がなくなり、関係性がうすれている。
    理性によらないで身体でつかむ感覚が欠如しているので、人は力を失っている。

    ●近代国家以前の日本は、幕府という統一権力はあっても、内部はいくつもの藩に分けられ、藩の内部も村の連合体という様相だった。
    近代国家という以上、国民としての精神統合が必要だった。その役割が文化、文明だった。
    それを日本の風土というように一元化し、国民国家とだぶらせたのが近代国家。
    風土というものは基本的にローカルなもの。中心に濃い風土があり、周辺に薄い風土がある。
    つまり、近代国家というものは不確かなものである。

    ●市場経済か非市場経済かといった二者択一的な選択は必要ではないが、今の経済システムの下で暮らすことにうんざりしている人が増え、新しい流動化が始まっている。

  • う~ん、こちらもなかなか読み応えがありました。  読了して第一の感想としては、「ああ、この人のものの考え方と KiKi のものの考え方はかなり似ているところがあるな。」ということです。  多分問題意識の持ち方とか、「人間って何?」とか「人間の理想的(?)な生き方ってどうよ?」みたいなある意味一文の得にもならないことをああじゃこうじゃと考えるところも、その命題に対する自分なりの立ち位置の導き方も学者さんである内山さんのほうが理路整然とはしているけれど、かなり似ているような気がします。  ついでに「ごちゃごちゃ考えたりあれこれ言ってるより、とりあえず実践してみよっか」みたいな思い切りの良さも含めて・・・・・(笑)

    (全文はブログにて)

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著者プロフィール

1950年、東京生まれ。東京都立新宿高等学校卒業。哲学者。1970年代から東京と群馬県上野村を往復しながら暮らす。むら人の暮らしの考察をとおして、自然と人間との関係、仕事と労働、時間や共同体などをめぐって、独自の思想を構築する。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授(2010年4月~2015年3月)などを歴任。NPO法人・森づくりフォーラム代表理事。『かがり火』編集人。主な著書は『内山節著作集』(全15巻、農文協)に収録されている。最近の著書として『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)、『いのちの場所』(岩波書店)、『修験道という生き方』(共著、新潮選書)などがある。

「2019年 『内山節と読む 世界と日本の古典50冊』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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