テヘランでロリータを読む

  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (485ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560027547

作品紹介・あらすじ

イスラーム革命後のイラン、大学を追われた著者は、禁じられた小説を読む、女性だけの読書会を開く。監視社会の恐怖のなか、精神の自由を求めた衝撃の回想録。

感想・レビュー・書評

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  • 「サーナーズが、悪いのともっと悪いのとどちらか選ぶとしたら悪いほうを選ぶでしょう、と言うと、マーナーは即座に、もっと親切な刑務所長なんていらない、私は監獄から出たいのよと言いかえした。」

    2017年の読書目標の一つが、ナボコフ「ロリータ」と本書を読む、だった。
    覚悟していた以上に壮絶。
    いや、私の覚悟なんかちっとも覚悟なんて呼べるものじゃなかった。
    人権も人命も枯葉のように散らされる中で、数名の教え子と文学研究会を続けた筆者。
    国とは、宗教とは、人が生きるとはどういうことかを突きつけると共に、非常に興味深い文学批評の書でもある。
    この作品の視点はあくまでも著者の見方であることは前提としておきたいが、日本でも広く読まれて欲しいと思う一冊だった。
    ここで描かれた惨状と日本とが、そう遠くにあるとは思えないから、余計に。

  •  革命時からイライラ戦争までのイランにおける女性たちの暮らしについて著者の視点から描かれた物語。海外の書籍に馴染みがないため、読むのに苦労したが、読んで良かったと思えた一冊。女性の権利や立場について考えさせられた。イランと日本では、女性に対する縛りや規則に違いがあるもののそこに描かれている男尊女卑の観念には通じるものがあると思う。
     著者が学生たちと西洋文学を通じて自国の問題について考えるという内容が面白い。本作で取り上げられた文学作品を読んでみたくなった。

  •  テヘランとロリータ。その結びつかない二つの固有名詞が異彩を放つタイトルに、心惹きつけられないわけがなかった。

     本著は、テヘラン出身のアザール・ナフィーシーが自らの体験をもとに綴ったノンフィクション小説である。抑圧と屈辱があたり一帯を包み込む中、彼女の支えになったのは文学と、ともに文学を愛する学生たちとの親密な交流だった。
     体制の掲げるイデオロギーに奉仕しない文学や芸術には一片の価値も認めない。そんなイスラーム共和国において、著者は「西洋的頽廃」の象徴である英米文学ー具体的にはナボコフの『ロリータ』、フィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』、『ワシントン・スクエア』、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』などーをむさぼり読む。
     皮肉にも、本にしたって読んだ人の中にこれほどまで入り込めるような経験は本望なのではないか。文学の大きなパワーをこれほどまでに感じる作品は他にあるのかしら。

     自由さがかえって足を竦ませるようないまの日本において、また、イスラム教に最もなじみの薄い日本人にとって、彼女たちのおかれている状況を想像するのは難しい。描かれているむちゃくちゃな抑圧に、開いた口が乾いてしまいそうだ。正直、こんな現実は私にとって幻想に近く、遠い国で起きていることでしかなかった。でも、彼女たちも個人的な悩みをもつひとりの少女なんだと、ひとりひとりに顔があるのだと、そう感じることができた。自分の知らない世界を、幻想だなんて目を背けず、刮目したい。

  • 1979イスラム革命から18年間、1997年までイランで暮らした文字的回想録。
    イランで学生たちと読み、教えた作品たちと、それに関連してイランでの抑圧された日々と苦しみが語られる。
    ロリータ・ギャツビー・ジェイムズ・オースティン の四部から成る。
    ーオースティンについて書くとしたら、きみがオースティンを再発見したこの場所についても書かないわけにはいかないよ。ー-きみの知っているオースティンはこの場所、この土地、この木々と分かちがたく結びついている。
    (第4部 オースティンの終わりの方より抜粋)

    学生たちが作品をどう読んだか、作者の解釈、そしてイランでの様々な耐え難いことが、密接に絡み合いながら綴られる。
    イランの何がどういびつなのかがよくわかり、また、そこで作品がどう解釈されるか興味深かった。
    革命直後から8年ほど時間が飛ぶところがあり、学生の感性に変化が起きている。革命のとき子どもだった世代の精神構造は、「それは革命的でない!」などと叫んでいた学生たちとは明らかに違う。……と言うようなところも。
    文学の解釈と共に、共産世界革命、文革、旧日本軍など歴史のモチ―フをいろいろと思い起こしてしまうイランの闇。不思議な感覚を起こす本でした。

    文学少女的すぎる書き方がマイナス1です。

  • [禁じられた開かれた世界で]イラン革命に伴う度重なる抑圧に嫌気がさして大学教授を辞した著者は、自宅で限られた数の生徒だけを招いて秘密の講義を始める。フィッツジェラルドやオースティンといった欧米の文学を語り合う彼女たちは、息苦しい日常の中でどのように想像の羽を羽ばたかせようとしたのか......。全米をはじめとして各国でベストセラーとなったノンフィクション作品です。著者は、テヘラン大学などで英文学を教えた経歴を持つアーザル・ナフィーシー。訳者は、編集の職を経て翻訳業で活躍されている市川恵里。原題は、『Reading Lolita in Tehran: A Memoir in Books』。


    文学と政治の関係といった切り口はもちろんのことですが、女性と社会、さらには信仰と個人といった点に至る議論までを広く網羅し得る作品になっているかと。その中でも、文学が日常に徐々に、しかし同時に力強く穴を穿っていく様子には、それが持つ可能性(それは体制側から見れば「恐怖」とも言えるのでしょうが)を強く印象づけられました。


    ニュースなどからはなかなか伝わってこない、イランの人々、特に開明的(この単語もイランにおいては政治的判断が混じってしまう気もしますが......)知識人層の革命後の生活の一端が覗けるのも本書の魅力の一つ。「イラン」や「イスラーム」という言葉で一括りにされてしまいがちな個々人の日常において、外側からは目に見えない闘いが繰り広げられていることを改めて思い起こしてくれた読書体験でした。

    〜悪が個人的なものになり、日常生活の一部になると、悪への抵抗の仕方もまた個人的なものになる。魂が生きのびる道はあるのか、というのが何よりも重要な問いとなる。その答えは愛と想像力にある。〜

    本書を紹介していただいた友人(今度お返しとして、本書の中でも印象的に著者に提供されるチョコレートをお贈りしますね)に感謝☆5つ

  • 挑発的なタイトルだ。イスラム共和国イランの首都テヘランで、あの『ロリータ』を読むとは。外出時、女性は男性を誘惑しないように、髪をスカーフで隠し、足首も見せてはならない。異性との握手はもちろん、バスでも席を分けられ、人前で笑うことさえ禁じられた女性たちが、頽廃した西洋の悪しき見本のような『ロリータ』を読む。そこにどんな意味があるのだろう。

    著者はイランの名門の出。父は元テヘラン市長。母は国会議員。13歳から欧米で教育を受け、1979年のイラン革命直後に帰国、テヘラン大学で教鞭を執る。その後、急進的なイスラム勢力の力が強まり、1981年、ヴェールの着用を拒否したことから著者は大学を追われることになる。

    この本は、著者がかつての教え子たち数人と、週に一度、自宅でナボコフやオースティンを読む活動を中心に、アメリカ時代、帰国後のイラン・イラク戦争時代を経て、大学に戻った後、再びアメリカに移住するまでのテヘランでの生活を回想した記録である。同時に、すぐれた英文学批評でもあり、イスラム共和国下における女性の生活や心理を記録した貴重な報告でもある。

    9.11以来、イスラムについての議論は喧しいくらいだが、当のイスラム国家で生活する当事者、それも欧米からの帰国子女で、知識人階級に属する女性の視点からの論議というのはあまり目にする機会がなかった。それだけでも貴重だが、彼女のもとに集まってくる女性たちが、様々な問題を抱えていることから、議論は文学論を超え、イスラム国家における女性論にまで及ぶ。といっても、スカーフを外し、焼き菓子やトルコ・コーヒーを囲んでの会話は堅苦しいものではない。むしろ、チャドルの下にこんな生き生きとした表情が隠されていたのかと思うほど「娘たち」の素顔は輝いている。

    彼女たちは、少女陵辱や不倫を描いた『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』が、なぜ自分たちの心をつかんで離さないのか、それは小説自体に問題があるのか、読者である自分たちに問題があるのかと考える。国家が退廃的と目の敵にする小説を読むことの意味を求めているのだが、それに対して指導者である著者は、ナボコフの「すべてのすぐれた小説はお伽噺である」という言葉を使ってその意義を語る。おとぎ話である小説に人生の意義を探ったり、作中人物の心理分析をしたりするのは愚かなことだ、というのがナボコフの意とするところなのだが、それを著者はあえて、こう読みかえてみせる。

    「あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。」

    ナボコフは、小説の中に人生の意味を探ったり、主人公に感情移入して読んだりすることを忌み嫌った作家である。しかし、著者やその「娘たち」にとって、文学を読むということは、自分と自分の置かれた現実の世界の中に、ほんとうの自分や世界を取り戻すために必要な作業だった。小説の中に描かれた人物に自己を投影し、とことん感情移入し、その中で生きなければ、どこに彼女たちの生きられる「生」があっただろうか。

    髪を見せたり、化粧したりするという、女性が女性として当然要求できる当たり前のくらしが、国家の指導者と彼を信奉する集団によって奪われてしまった国では、娘たちは愛することと性を自然に結びつけることすらできないで育つ。それでいて、革命以来、結婚可能年齢は九才にまで引き下げられる。かくして、『ロリータ』は、他者を自己の意識の産物としか見ない男によって、徹底的に自己を奪われた女性が自己を取り戻す物語として読みかえられていく。

    検閲の目を意識して、娘たちの名前はもちろん容貌や家族関係その他、かなり手を加えられているという。しかし、それだけではないはず。娘たちの仕種や口ぶりを書き分ける著者の筆は単なる回想録作者のものではない。著者の指導者として、いつも正しい道を教えてくれる「私の魔術師」ことR氏をはじめ、人物造型の力はなかなかのもので、回想録を読んでいるつもりが、いつの間にかすっかり作中世界に入りこんでしまっていた。これこそ、すぐれた小説家の持つ力でなくてなんだろう。

  • 文学の力強さを感じさせてくれる本。文学は泉。文学は解放。文学は抗い。

  • カテゴリは「外国小説」と置きましたが、たぶん「回顧録」としたほうが正確なのかも。
    80年代から90年代、女性に対する抑圧が高まったイランで、西洋文学を読む読書会を開いた著者。著者以外のすべての生徒や登場人物の名前は仮名になっていることが冒頭で触れられていますが、それぐらいのことをしないと当時のイラン情勢下では身の危険が及ぶ可能性があったのでしょう。

    タイトルにウラジミル・ナボコフの『ロリータ』が挙げられていますが、実は作品としては4部構成。第1部の核である『ロリータ』以外にも、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、『ねじの回転』で有名なジェイムズなど、4つの作品(作家)がメインテーマとして示されてます。
    作品に登場する人物を評する読書会での生徒の発言が、読書会の「外」であるイラン国内の混乱、女性に対する抑圧、イラクとの戦争などと複雑に絡み合って、イランの体制下で知的な自由に触れようともがく女性の姿が生き生きと浮かび上がってきます。

    作中に取り上げられている作品の書評としても読めるし、当時のイラン社会を知る歴史資料としても読める。ちょっとページ数が多いので時間がかかるかもしれませんが、読む価値はとても大きい作品です。

  • イスラム革命後のイランの状況について何も知らなかったが、女性の結婚年齢が9歳に引き下げられたり、法律で女性の価値が男性の価値の半分に引き下げられたり、石打ちの刑が復活したり、たくさんの人が拘束され処刑されたりすることが当たり前の日々だったなんて想像を絶した。
    こんな時代の中で、禁止されていた西洋文学を読むことが勇気になり、また自分たちの置かれている状態を知ることの手掛かりになるのだから、フィクションの役割が際立つ。
    信仰、政治、肉体などさまざまなことがテーマとなって、全ては処理できないが、自由のない暮らしの中で下を向いて生きていただけではなく、闘いながら、楽しみを見つけながら生きていたんだなと思った。

  • 読み応えのある作品でした。フェミニズムの小説?エッセイ?に分類されるのでしょうか。新しい価値観に触れて、視野を広げられました。

    80年代〜のイランについて前知識なく読み始めたので「ロリータ」の章はなんだか読みにくなったのですが、そこ以降はイランと彼女たちを取り巻く環境がどう変化していくのか気になりページをめくる手が止まりませんでした。

    敬虔なイスラム教徒の方にお叱りを受けると思いますが、どんどん自由が制限されていく彼女たちを見ていると、そんなに女性にベールを被せることが大事なら男性も自らかぶれよ!と感じました。乱暴ですが、、、。

    思想も身体も過度に政治的にコントロールされる社会って辛いですね。

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著者プロフィール

1950年頃テヘラン生まれ。テヘラン大学の教員だったが、ヴェールの着用を拒否して追放される。その後、自由イスラーム大学などを経て、ジョンズ・ホプキンズ大学教授。著書に「テヘランでロリータを読む」。

「2014年 『語れなかった物語 ある家族のイラン革命』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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