- Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560046159
作品紹介・あらすじ
1938年夏、リスボン。ファシスト政権下、ひとりの新聞記者が、ある決意をかためた。鬼才タブッキが、困難な状況下において人間の生きる意味を根底から問いかけた完璧な小説。イタリア最高の文学賞ヴィアレッジョ賞受賞。
感想・レビュー・書評
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4/64
内容(「BOOK」データベースより)
『1938年夏、リスボン。ファシスト政権下、ひとりの新聞記者が、ある決意をかためた。鬼才タブッキが、困難な状況下において人間の生きる意味を根底から問いかけた完璧な小説。イタリア最高の文学賞ヴィアレッジョ賞受賞。』
『ファシズムの影が忍びよるポルトガル。リスボンの小新聞社の中年文芸主任が、ひと組の若い男女との出会いによって、思いもかけぬ運命の変転に見舞われる。タブッキの最高傑作といわれる小説。』(「白水社」サイトより▽)
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b205580.html
冒頭
『供述によると、ペレイラがはじめて彼に会ったのは、ある夏の日だったという。陽ざしは強いが風のあるすばらしい日で、リスボンはきらきらしていた。ペレイラは編集室にいて、さしあたり仕事はなかった、という。編集部長は休暇中で、彼は文芸面の構成をどうしようかと考えていた。『リシュボア』紙にもいよいよ文芸面ができることになって、彼がその担当になった。そのとき、彼、ペレイラは、死について考えていたという。』
原書名:『Sostiene Pereira』(英語版:『Pereira Maintains』)
著者:アントニオ・タブッキ (Antonio Tabucchi)
訳者:須賀 敦子
出版社 : 白水社
単行本 : 193ページ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ファシズム前夜、事の起こりはいつだったのかと考えた時にはもう遅いのだろう。
政治には関わらない立場を選んでも、政治は市民の生活に当たり前に関わっているもので、平和な時には気づかないが、本来そこに中立は存在しないのだと感じる。
ペレイラがしきりに思いをめぐらせる悔恨と郷愁。変化してゆくものと過去に留めようとするものとの間での無意識の葛藤に、おぼろ気ながらもペレイラの人生と、人々の歴史を思う。
ペレイラの最終的な行動は感動的に思えた。できるならそうありたいと思う自分の願望でもあったからかもしれない。 -
『ビジネスに効く最強の「読書」 本当の教養が身につく108冊』で 出口治明 さんが薦めていた本。マイブームのリスボンが舞台、そして須賀敦子さんの訳!
あとがきで須賀敦子さんが言われているように、「幻想的なバロックふうの魅惑にみちた作風」。カラヴァッジョの絵を思い出すようなスポットライトのあてかた。
ドキドキしながら、あっという間に読み終わってしまいました。
そんな中でちょっと立ち止まってゆっくり考えた部分はこれです。
「リボ博士とジャネ博士によると、人格は多数のたましいの連合だというのです。私たちは自分のなかに多くのたましいをもっていますからね、それで、たましいの連合は、主導権をもったエゴの統制のもとに、みずからをおくのです。規範と呼ばれるもの、すなわち、私たちの存在、あるいは常態は、前提ではなくて、たんに結果であって、たましいの連合においてみずからに課した主導的なエゴに統括されています。もうひとつの、より強い、より力のあるエゴが出てくれば、そのエゴがそれまでの主導的エゴの権力をうばい、代ってその座におさまり、こんどは、そいつがたましいの軍団、いや連合を指揮するのですが、その優位は、やがてつぎの主導的エゴによって座を追われるまでつづきます。」 -
2015.8.22市立図書館
須賀敦子がタブッキを訳していることはもちろん知っていたけれど、学生時代にぱっと手にとれたギンズブルグと違って、こちらはずっとなんとなく敬遠していた。最近になって須賀敦子全集別巻(対談・鼎談)でアントニオ・タブッキとの対談を読んで、興味をもった。
第二次世界大戦が近づきつつあるポルトガル、1938年7月末から8月末に、とあるマイナーな日刊紙の文芸欄を担当する記者ペレイラの身に起こったことが、彼の供述という形で語られ、記録として綴られている。もっととっつきにくいかと思ったら拍子抜けするほど読みやすい内容で、ノンポリで、いちおうカトリック教徒ではあるがそれほど熱心なわけでもなく、ただ自分の来し方と文学を愛する冴えないおじさんペレイラに親しみを感じ彼の選択や疑問にも共感を感じさせつつ、思いもよらぬのっぴきならない事態にいつのまにか、そしてはじめは退屈なくらいゆっくりと最後は加速度的に、巻き込まれ追い込まれていく展開がおそろしい。
「供述」はいつどこでおこなわれ、けっきょくペレイラはどうなったのか、それは読者の想像に委ねられているが、明日はわが身という怖さもひしひしと感じた。
ペレイラは情勢への関心が薄いノンポリだったのがいけなかったのだろうか、いや、はっきりした政治的立場があればあったでやはり葛藤はあり窮地に追い込まれもしただろう。でも体制にとりいるなり距離を取るなり国に見切りをつけるなりもっとかしこくしたたかに動けた可能性はあったかもしれない。けっきょくそういうものなのだろうか。自分の信念をたいせつに、自分なりにそのときそのときに最善の判断をしているつもりがいつのまにかのきひきならない泥沼に足を取られてしまうことになるのだろうか。
この本は、イタリアが急に右傾化した1993年の夏に書かれたという。2015年の夏の終わりの日本がざわざわしている今、須賀敦子とタブッキの対談に接し、出会うべきときにこの作品に出会えた不思議。 -
どうしてだかはわからない。
なぜか巻き込まれていく。
孤独と戦うこと、自分の内面を見つめること、それも止められるものではない。
後半部分は息もつかせぬ筆力で、運命を切り開いていくさまが描かれている。
ものすごい、の一言。 -
新聞記者ペレイラが政治運動に巻き込まれていく状況をペレイラの供述という形で書き進めている。1994イタリア。
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心優しい、等身大の、愛すべき登場人物。
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レビュー欄に全文を貼りつけたくなりました。