- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560070987
感想・レビュー・書評
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PaulAusterのNY三部作、ラストの第三作目。三部作の順番を知らずにこの本から読み始めてしまった私は、一気に彼の魅力のとりこになってしまった。すばらしい。三部作のラストにふさわしい最高傑作。
追いかける方と追いかけられる方。あなたは、どちらですか?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
4/19/07
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書店での見つけやすさの順だったような気がするが、
三部作を順番どおり読めてよかった。
他人と自分と社会と思考と見失いながら、気がつきながら。
ラストの行動は、ある意味決別?別の選択? -
ニューヨーク三部作の第三作。存在を否定したファンショーを追い求めて、最後にファンショーの鍵のかかった部屋に引き寄せられていく主人公。追い求め過ぎて自分のアイデンティティが崩壊しそうになる。ニューヨーク三部作はそれぞれリンクしているので、順番にそって読むことをお勧めします。
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NY三部作完結編。決着はついたのか、つかなかったのか。最後に一点の救いがある?
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NY三部作のひとつ。
主人公が、不在の人物をめぐる依頼を引き受ける、というパターンである。
ラストシーンは印象的だった。 -
オースターの読み始め。
けっきょく、文庫は読み尽くすはめに。 -
ポール・オースターNY三部作の第3作。
このNY3部作で一番エキサイティングな作品。
自分を失わないように。 -
透明な水の中にとても強い色の色水が一滴ぽとりと落とされる。みるみるうちに水面に波紋は拡がり、透明な水の中を色が生き物のように伸びて行く。波紋はへりにぶつかって反射し、増幅され、打ち消し合う。色水の持つ色素は引き伸ばされ、薄められはするのだが、不思議な模様を作り出し、虹色の様に一色にとどまらない。ひとしきりその変化を楽しんでいると、ふっと水面は既に収まっており、不思議と水の色も再び無色透明に帰っていることに気づかされる。ポール・オースターの小説にはそのような、驚きに満ちた仕掛けがある。手品師が宙から取り出した小さな箱を開くと、そこから予想だにしなかったものが次々と飛び出してくるような印象があるのだ。しかし最後には小箱から飛び出して来たものは、出て来たものの中に消えて戻り、小箱もやがて宙に消える。その展開が見事である。
一人の評論家のもとに、昔の親友の妻と名乗る人物から会って話ができないかという内容の手紙が届く。かつての親友は失踪し、どうやら死んだらしい。その妻は、夫の残した原稿を整理して欲しいと依頼するのだ。原稿の価値を認めた編集者は、同時に未亡人にも惹かれ、原稿の取り扱いについての義務を果たすと彼女に結婚を申し込む。これだけでも十分波乱万丈な物語が描けそうなものだが、これはあくまで物語の始まりに過ぎないのだ。
評論家である「僕」には名前が付けられていない。「僕」の友達はファンショーという。ファンショーは何をやらせても一流という、ちょっと信じられないような男だ。二人は一週間と違わず生まれ、垣根のない隣合った二軒の家の間で家族同様に仲良く育つ。高校を卒業したきり音信不通となるが、この物語の始まりに至って二人の道は不思議な交差に至るのだ。出版された本が好評を博すと、突然ファンショーからの手紙が届き生きていることが知らされる。しかも自分は死んだものと思ってくれという。「僕」は悩んだ末、ファンショーの伝記を書くという口実を手に入れ、彼の行方を追う。
ファンショーを巡る話の筋だけを追ってもこの物語が大仕掛けのエンターテイメントに溢れた物語であるのは明白なのだけれど、この「僕」に名前がないことが実はとても意味を持っていることが徐々に解ってくる。物語の焦点は謎の人物ファンショーを追っている様でいて、実は、僕の内面へ内面へと降りていくことの方が主流らしいと気づくのだ。読者は「僕」という目の前いるモノローグの語り手を常に見つめていながら、その実態が実在のものなかかどうかの判断すらつきかねる錯覚に陥ってしまう。名前がない、ということが実に上手く使われている。ファンショーの家族や、彼の妻、そして「僕」の知らなかったファンショーの知り合いなど、他人に対しては丁寧な人物描写がなされていく中で、「僕」の実態はようとして知れない。そして「僕」は追い詰めていたつもりの人物に逆に精神的に追い詰められてしまう。
カメラのファインダーを覗くと一人の人物が映っている。焦点の合わないその像がファンショーなのだと思って懸命にピントを合わせようとすると、像は二重になったりぼやけたりする。ようやく像の焦点が合ってきたとみるや、そこにある顔はどこかで見た顔だ。余りによく見た顔なのだがどこか細部が異なっている。それは鏡に映った自分の顔が、裏返しになった顔なのだ。さては「僕」というのは実はファンショーであって、これまで語られた「僕」なる人物はファンショーのドッペルゲンガーなのではないか、と一瞬そう見破った気分になる。しかし倍率をあげてみるとそれはやはり「僕」ではない。その事実に気づいた「僕」はようやく追い詰められたものから解放され、今や自分の妻となったソフィーの元に戻ることができる。
そこで終わってもよいのだけれど、いつも気前の良いポール・オースターはもう一つその先のドンデン返しを用意している。本当にサービス精神旺盛な作家であると思う。その付け加わったエピソードによってようやくタイトルの意味するものが直接的に読者に示され、「僕」と共にファンショー捜しに付き合った読者にも、ふっと安堵のため息を吐かせる展開になっている。なってはいるのだけれど、実はタイトルのいう「鍵のかかった部屋」は、ここにも、そこにも、あそこにも存在していたのだ、ということも、また、じんわりと理解されもするのである。それは、子供の頃大事にしていたテレビの箱のことであり、ファンショーとソフィーのアパートにあった原稿の詰まった部屋のことであり、貨物船の客室のことであり、パリ郊外の別荘のことであり、そして「僕」の仕事部屋のことでもあったのだ。そこにファンショーは囚われたように存在し続け、「僕」もまた囚われてしまっていたのだ。
そして最後の「鍵のかかった部屋」だけは、気前の良いポール・オースターも読者に見せようとはしない。そのことは、どこかしらこのエンターテイメントの中にオースター自身の自伝的要素があるのではないかと勘繰らせる疑惑の種にもなっている。この作品は「ガラスの街」「幽霊」と合わせてニューヨーク三部作と呼ばれているらしいが、その二つの本のタイトルも唐突に登場し、「僕」にとって、この本がそれら二つの作品と同じ物語なのだと「僕」が語る場面が登場し、さては「僕」というのはポール・オースターのことだったのか、と思ったりもするわけだ。さらに、「僕」とソフィーの間にできた子供の名前が「ポール」だという。さては、と再び思うのだ。
しかし、ポール・オースターは空蝉の術が得意である。この人物はあの時の彼だったのか、などと思った瞬間にその人物の実態は失せ、後には手裏剣の刺さった木が残るばかりなのだ。