変身―カフカ・コレクション (白水uブックス)

制作 : Franz Kafka  池内 紀 
  • 白水社
3.62
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本棚登録 : 299
レビュー : 38
  • Amazon.co.jp ・本 (147ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560071526

感想・レビュー・書評

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  • 交換していただいた本。読みやすかった。

    学校の授業で習った時は「朝起きたら虫」ということばかりに注目してしまい、クラス中で“ありえねー”、“気持ち悪い…”、“自分が同じようになったらどうしよう…”と盛り上がっていたけど、大人になってから、こうして最初から通して読むと先が気になり、本を置いてもつい手に取ってしまうのでした。

    虫になっても家族の様子や暮らしを気にする健気なグレーゴル。それに対して家族は初めは動揺するものの、徐々にグレーゴルを存在しないものとして扱ってゆく…、その変化してゆく日常の様子がこわかった。グレーゴルが前向きに振る舞うから悲惨さはいまいち伝わって来づらいけど。最後はじわっときてしまいました。

    2017年積本消化26冊目。

  • 不条理。しかしそれが日常

  • あまりに奇妙な物語で評価できない!
    この作品が世界的に読まれている、評価されている、ということがスゴイ。

    雰囲気から、なんとなくバリー・ユアグローを思い出した。
    確認してみたら、ユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』の解説にカフカの名前がありました。
    シュールな世界観、不条理な物語、といったところは似ているのかも。

  • 最近、なぜかハマってしまったカフカ。

    大昔に読んだカフカ「変身」を池内訳で読んでみる。

    と、これりゃまた、不条理でもなんでもないや。これは現代社会、家族の縮図ではないか!

    いやー、いたい話だ。

  • ある朝起きたら誰もが悲鳴を上げるほどの毒虫に変身していた青年と、その妹と父母の話。
    家族の為に勤労に勤しんできた青年が、虫になったことで家族から邪魔者扱いされ気味悪がられる。
    最後まで家族を愛でる気持ちは伝わらず、一人(1匹)で息絶え、家族は安心する。
    突然虫になる導入部分、虫としての本能に徐々にのまれていき、食べ物や行動の好みが人ではなくなっていく様子、またその中でも心はその様子を否している様子が興味深かった。
    家族が青年を見離すのがあまりに乱暴、突然だったことがリアリティに欠ける気もしたので、星3つ。

  • グレーゴル可哀想過ぎ!
    虫に変身しちゃったけどとりあえず仕事の心配しかしていないところや、
    投げつけられたリンゴが背中にめり込んでそのまま、の所は面白かった。
    例えば自分が寝たきりになった場合、ザムザのような境遇に陥ったら悲しい。

  • 今更、初読了。
    毒虫の姿を想像するとかなり気持ち悪いのに…なぜか可愛い。
    毒虫になった事自体の家族の対応は悩ましいくて、責められるものではないけれど…憤りは感じる。あぁでも精一杯だよな…
    毒虫を哀れには思うが、家族も哀れに思う。
    早く読んでおけばよかったな。

  • 解説がついているのがよかった。
    主人公が虫になり、しかしそれには驚かず、仕事のことで驚くとは…なんとも奇妙。虫になった途端に家族から厄介者、害虫として扱われ、主人公がいなくなった後も家族はなんとも思わず、寧ろ晴々としている。現代社会でもそのような場面があるのではないだろうか。重なる部分があるからこのカフカの変身は長い間読み継がれているのかもしれない。

  • オーストリア=ハンガリー帝国領プラハ出身の、20世紀文学を代表するユダヤ系作家フランツ・カフカ(1883-1924)の作品、1912年執筆。当時彼は、ボヘミア王国労働者傷害保険協会の勤勉な小役人で、近代官僚機構の最末端に身を置いていた。

    近代ブルジョア社会は、個人を何者でもない何者かという suspending な存在でいることを許さない。個人は、「社会」の内に於いて当該「社会」の言語によって名指し可能な何者かとして在ることを強要される。断片化という原初的暴力だ。何者かである何かが、俺を同じ名前で呼ぼうとする。匿名多数の他者は、俺でない何かを持ち出して、それが俺だということにする。そもそも俺に名前など無いのに。実存――あらゆる即物的規定を超越する不定態として、人間存在は如何なる規定を拒否する機制。実存の死屍累々としての社会。

    自我は、自己否定による自己破滅をも辞さないほどに否定性・超越性という自己関係的機制を純粋に徹底せんとする実存は、断片化の暴力に抗しようと、必然的に敗北を喫する以外にない闘争――日常性との血みどろの闘争――にその悲劇的な結末を承知しながらその上でなおも赴き、成就すべからざる成就としての全体性の回復を待つ。

    「待つ」と云う美的態度。いつからか、待つことでしか、生きていくことができなくなっている。日常と云う時間は、そうした生の在りようの、戯画化された反復だ。その中で、俺は何処に腰を据えるのだろう。どの椅子も、それぞれに、居心地が悪い。家に、部屋に、タオルケットに、俺は退き下がり閉じ籠りたいのだけれど、そこはそこで、窒息の苦しみだ。

    「社会」の内に在って、全体性の回復を希求する者は、毒虫の如き異形を晒すしかない。「社会」にとっては、不穏な存在――内在化された超越――なのだ。

    現代は、communication ばかりが肥大化し、独在という構えに存在余地は無い。我々は communication へと疎外され、強迫的に関係を求める。予め設えられた商品としての communication へ参画することそれ自体が自己目的化している。そこでは「(当該「社会」で位置を与えられている限りでの)充実した私生活」を演出し見せ合わなければならないという無言の抑圧に支配されている。日々の止むに止まれぬ鬱屈は、選別され粉飾された多幸感に溢れる communication vacancy の中には、居場所が与えられない。皮膚にまとわる「日常」にもがき苦しむ者の赴く場所ではない。「communication tool の発達」と騒いでいるが、要は愛想笑いの場所が増えただけだ。効用と定型句に埋め尽くされた「社会」に、即物という暴力的な存在様態が遍在する「社会」に、人間の居場所は無い。そこは、縁の無い無限遠の穴のようだ。喧噪だけの空虚。

    communication から人間を捉えるのは、倒錯している。communication tool を通して他者と一つに繋がった気でいられる者は、自己欺瞞に陥っている、独りであることを知らないのだ。そこで空疎な愛想笑いの交換をして何の摩擦抵抗を感じないでいられる者のほうが、却ってよほど毒虫じみて見えないか。自分が毒虫じみているなどと想像してみることさえ無い傍観者の非意識自体が、ザムザの毒虫以上に醜悪な姿を晒していないか。

    独り言でしか口にできないことを誰かに伝達しようとする矛盾。そこにこそきっと、人間どうしの関係と云うものの存在理由があるのではないか。

    communication tool に瀰漫する太平楽と冷笑と演劇的な深刻を、孤独な絶望へ転化せよ。

    死に到る絶望が、致命的に足りない。

  • 久々にこの文章に触れた。もう何年ぶりだろう。世の中の荒みは加速度的に進んでしまうので、カフカすら読む時間が取れないでいるのだ。ここにでてくるサラリーマンのグレーゴル・ザムザのように。

    以前読んだときは主人公が既にいきなり虫になって横たわっている事に、驚くとともに、その最後(おそらく死んでしまうだろう。大きいそれも昆虫が、長生きする事は、自然の摂理からも天敵である人間の存在からも無理であろう)はどうなるのかを知りたくて一気に読んだ記憶がある。あのときは若かったので、そういったミステリアスな事の方に引力をひかれたし、多分時代が良かったのだろう。そして再読の今、この話を読んで恐ろしかったのは、、この作品の社会状況が、現代の日本のそれと妙に似ている事だ。恐ろしさを抑えていってしまえば、そっくりだ。そして事は、例えば自分が朝目覚めたときに、どういう姿になっていようとも、ただただ日常を考え、そして、そういう大いなる日常の中で、一種の傷がもとで死んで行くのだろうか。さらに怖いのは、家族である。ここにでてくる家族は、それでも家族の体系をなし、息子を、兄を信じようとし、そして落胆している。今の日本の家族にこの姿があるだろうか。
    文学界の遺産であるこの作品を是非一度は読んでもらいたい。

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著者プロフィール

1883〜1924。チェコのプラハ生まれ。プラハ大学で法学を専攻。ジョイス、プルーストとならぶ現代世界文学の最も重要な作家。著書に「失踪者」「城」「審判」など。

「2013年 『ミレナへの手紙』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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