ある夢想者の肖像

  • 白水社
3.26
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  • Amazon.co.jp ・本 (440ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560084670

作品紹介・あらすじ

ミルハウザー初期傑作長篇、待望の邦訳!
 舞台は一九五〇年代のアメリカ、コネチカットの町、主人公の少年アーサーは、周囲の世界に潜んでいる驚異に魅惑されながらも、凡庸な日常に退屈して暮らしている。ポーの心酔者フィリップ、鉱石集めやボードゲームに熱中するウィリアム、不登校で人形や玩具を集めた部屋で過ごす少女エリナーという三人の「同好の士」がいる。
 ある日、アーサーがいつものようにエリナーの部屋を訪れると、窓が開け放たれ、陽光が差し込み、腕まくり姿のエリナーを目にする……。
 微熱を病む少年が微睡みがちのなかで見る「白昼夢」のような作品。中篇や短篇を特徴づける職人芸的な緻密さに貫かれた文章とは違い、「死」の影が全編を覆う。微に入り細を穿った、重厚で反復の多い文体は、思春期の生の瞬間を濃密に伝える。
 作家ミルハウザーは『マーティン・ドレスラーの夢』でピュリツァー賞を受賞した、現代アメリカ文学を代表する重鎮。日本では柴田元幸氏の翻訳により『イン・ザ・ペニー・アーケード』『バーナム博物館』『三つの小さな王国』『ナイフ投げ師』が刊行され、熱狂的な読者を数多く獲得している。本書は、ミルハウザーの全作品のなかでも、作家の神髄が見事に示された傑作長篇。

感想・レビュー・書評

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  • ミルハウザーの愛読者にとっては長年の渇を癒す、待望の長篇第二作(1977年)の翻訳。しかも翻訳は柴田元幸氏である。何をおいても手にとらないわけにはいかない。そう勢い込んで読んでみたのだが、ちょっと様子がちがう。夏の月夜の徘徊、自動人形、雪景色といった偏愛のモチーフを多用し、他の作家にはない独特の世界を構築するミルハウザーらしさは横溢しているのだが、執拗に同じフレーズをくり返す、粘着気質っぽい話者の語りが異様なほど強調されていて、訳者あとがきで柴田氏も書いているように、「ミルハウザーらしいと思える面と、およそミルハウザーらしくない、と思える面」がある。訳者の言うとおり、「すべての読者をまんべんなく喜ばせることはなくても、一定数の読者を強烈に魅了する本」なのかもしれない。

    原題は<Portrait of a Romantic>。ヘンリー・ジェイムスの『ある貴婦人の肖像』やジョイスの『若い芸術家の肖像』を意識したのだろうか。アーサー・グラムという名の弱冠二十九歳の話者が幼い頃から高校時代までの自分と家族、親しい友達との交友を語る、半自叙伝的小説である。英語の「ロマンティック」は、日本語の語感とは少しちがって「空想的な」という意味で、人を指していうときは「夢想家」。「夢想者」という訳語は耳慣れないが、ちょっとルソーの『孤独な散歩者の夢想』を連想させる。

    舞台はコネチカットの田舎町。コンクリートの堤防に囲まれた小川だとか、車体工場だとか、全然ロマンティックでない風景のなかに、工場の簿記係の父と小学校教師の母の間に生まれた一人っ子。仕事より趣味が生きがいの父親とバリバリと家事をこなす母親に育まれたアーサーは、毎日が退屈で退屈でしかたがない少年に育つ。外遊びが嫌いで、家で本を読んでいる方が好きという、典型的な内面活発、外面不活発の少年である。当然遊び相手にも恵まれず、両親相手にトランプ遊びをしたり、年中行事のピクニックや海水浴も家族親戚同伴という生活が高校時代まで続く、というのだから確かに退屈にちがいない。

    ミルハウザーらしいのは、このどこといって代わり映えしない田舎町でアーサーが過ごす日常を目に見える物、聞こえる音を壁紙の模様から遠くを走るトラックの音まで端折ることなくとことん精緻に克明に描写していること。この描写魔めいた記述はある種の読者にとっては麻薬めいた魅力を持つといえるだろう。一方で、アーサーのとる行動は終始一貫したパターンから抜け出ることはない。バーベキューで焼くのはフランクフルト。飲み物は母が作ったピンクレモネード、といった具合に。年齢を重ねるに連れ行動半径は広がるが、家を出て、どの場所を抜けて、どこに向かうかは、ほぼ不変といっていい。だから、その行動を追う話者の語る言葉もまた同じ文句の繰り返しになるわけである。

    従姉妹のマージョリーを別にすると、アーサーには親しい同年輩の友だちがいない。その代わりに現れるのが「自分の分身」である。七歳の時に登場するのがウィリアム・メインウェアリング。もちろん、ポオの『ウィリアム・ウィルソン』を踏まえている。ウィリアムとはモノポリーや卓球、探検ごっこを毎日やって飽きない。第八学年になると、「第二の分身」、フィリップ・スクールクラフトが現れる。ポオに夢中なこの少年は、級友や教師を蔑視し、本の中に隠した拳銃でロシアン・ルーレットをやるようアーサーを唆す誘惑者である。高校に入ったアーサーを待っていたのが「亡霊(ザ・ファントム)エリナー」ことエリナー・シューマンという女の子。病気で欠席がちな少女の、人形で埋め尽くされた部屋にアルトゥール(アーサー)は入り浸る。

    ウィリアムとは家族ぐるみの交際が続くが、後の二人とは当人の部屋を訪れているときだけの付き合いである。その分、濃密で蠱惑的な関係が深まってゆく。二人に共通するのはデカダンスであり、死に対する篇愛である。実は毎日が死にたいくらい退屈な「僕」には小さい頃から自殺願望が付き纏っている。フィリップとのロシアン・ルーレット、エリナーとの薬物による心中ごっこ、と死への傾斜は度を増してゆく。そして、ハックルベリー・フィンとトム・ソーヤーのような関係に見えていたウィリアムもまた…。

    退屈な毎日がくり返すだけの田舎の夏休みを少しずつずれを含んだ繰り返しで描いてみせる部分と、エキセントリックな友人と共有する異様で不安に満ちた非日常の世界。この二つが微妙な均衡を保ちながら、少しずつ後者の比重が重くなってゆく。過去のノスタルジックな回想の中に漂う郷愁に満ちた感傷が薄れ、成長した「僕」は次第に倦怠感溢れる日常に押しつぶされそうになってゆく。

    個人的な感想だが、幼少期から思春期に賭けての昼間の野外での活動を描いた部分からは自分の少年時代の映像が何度も喚起され、非常に魅力を覚えるのだが、月夜の徘徊やエリナーの部屋での狂態、つまりミルハウザー的なモチーフに溢れた、よりファンタスティックな部分にはいまひとつ満足感が得られなかった。おそらく、後の短篇の完成度が高過ぎて同様のモチーフとして不満足に感じられたのだろう。また、分身三人は文字通りの「分身」であって、現実には存在しなかった、と思える。小さい頃のウィリアムが生き生きとした存在に描かれているのは、子どもの頃は誰もが「夢想者」なのであって、その分ウィリアムにも現実感が賦与されているわけで、歳をとればとるだけ、空想は現実味を失い幻想的なものと化す。フィリップやエリナーが漂わせる不在感は、空想の持つリアリティが減衰してゆくのを表しているのだろう。

    訳者によれば「アメリカ小説の一番斬新な流れがリアリズムから、非リアリズムに移行しつつある」のが、現在という。ミルハウザーはその先駆であると訳者はいう。『ある夢想者の肖像』は、その「アメリカ小説の斬新な流れ」を一作の中で体現してみせる小説であるといえよう。本作に見ることのできる、ミルハウザーのリアリズムというものが、非リアリズム的な部分と比べても充分に魅力的であると再確認した上でいうのだが、ミルハウザーによるリアリズム小説というのも読んでみたいと痛切に思うようになった。

  • ひとりの夢想者(つまりボンクラ)の不毛なる思春期を、不毛の極致ともいえる精緻な文体で描いた小説。思春期とはいえ、セックスもねえ、オナニーもねえ。吉幾三のごとき小説である。コネチカットあたりの糞田舎で退屈しているからそうなる。おまえはニューヨークに行け。そして牛を飼え。ほんとうに、斯様なお節介をわたしに言わせないでほしい。

    大槻ケンヂあたりが読んだら、「こんな思春期があるか!」と激怒しそうだが、半端なサブカル気取りが「夢想者の君、そしてわたし、うふふ……」とか言いながら読んだところで、投げ出すのに三頁とかかるまい。

    ちなみにわたしは七頁ほど読んで投げ出したくなった。レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』は、黒人がテントのようなものをつくっているあたりで投げ出したので、まあ同じくらいかったるいといえる。

    そこまでしなくてもいいのにというほど緻密に描きこまれた細部に、わたしはなにもあなたの通っている高校の靴箱の様子まで知りたくないんだが……とならないあなたは、もう立派なハウザー教信者、よだれを垂らして読めばいい、というのは言い過ぎにしても、とにかくおそろしく人を選ぶ小説である。

    物語には、主人公兼語り手のアーサー・グラム(29歳たぶん無職)が、自身の幼少期から思春期までを回顧する、という一応の枠のようなものがあり、厳密に制約するなら、そこにはアーサーの目に映じた世界以外のものは描かれていないはずなのだが、とはいえ夢想者たるアーサーは夢想する。

    それはたとえば、夜中に家を抜け出して友だちの家にこっそり忍びこんでいる僕アーサーはいまもなお家の寝床で横になっているところの僕アーサーを夢想する、といった感じ。それをどうでもいいような細部を執拗に拡大した文体でちまちまと描写されるので、現実と夢想の境目が次第に曖昧になっていく。

    要するにミルハウザーは、「どこまでが夢でどこまでが現実かわからなーい」という感覚を読者に味わってほしいわけだ。わたしはまじめな読者なので、「そうですか、じゃあ味わいますよ」という思いで最後まで読んだのだけれど、それで得た感想が、「どこまでが夢でどこまでが現実かわからなーい、だから考えるのやめちゃお」だった。

    先述した物語の枠がうまく機能しているようには思えない。翻訳者の柴田元幸は、ミルハウザーを指して<語りの魔術師>などと言っているが、あえて言えば<文体の魔術師>ではあっても、<語り>としてはたいしたものではない。これはミルハウザーの真価が最も発露される短篇においても同様であるとわたしは思う。

    計算された不協和音もまた欠くべからざるひとつの和音であり、その意味で本書の文体はまさしく芸術の域に達している。文体にみるべきものはある。それはまちがいないが、決しておもしろい小説ではなかった。

  • 書きたいから書いた感ありありの、好きな人しか好きじゃない変わり種本。あのすべてを書き込む執拗な文体で、ひ弱系男の子の思考がダダ漏れしていく。本当に全部書いてある。どうして全部書くんだよ、って問い詰めたいくらい。でももう一回くらい読みたい。二回目は映像の再現にかける労力が減って、もっと楽しいんじゃないかという気がする。

    内容はひ弱系トム・ソーヤーの冒険。ひ弱系なので家出も洞窟もなく、ひたすら「だるい…」とじりじりするだけなのだけれど、まあ自分もそうだったなあ、などと『トム・ソーヤーの冒険』を読んだ思い出も含めて懐かしい気持ちになった。世界をじっと見つめる時間があって、友だちとの時間に完全に没入できる一方で、今自分が感じていることがすべてである時代、この先自分が変わっていく可能性を想像できない時代。こどもとはなんて贅沢で不自由な時代であることか。

  • エドウィン・マルハウスのほうが好きかなあ。敢えての冗長な文体の効果は分かるのだけど、じっさい読みづらい。
    物語としては、ミルハウザーらしさが第二長編にしてすでに満開で、気持ち悪くて素晴らしい。今回は主人公が突き抜けきらないパターンで、凡庸な成人になってから書いた自伝の体裁をとっている。それぞれ振り切ってる友達3人と次々に仲良くなるのだが、のめり込むわりにピッタリと嵌れない関係を繰り返す。世界に浸り切りたいのに自意識が邪魔をする感じは、よく書けている。

  • アメリカの郊外に住んでるだろう、男子の子供の頃から高校生までの話。よくあるテーマ。そしてごく普通に愛情溢れる両親と暮らす一人っ子。なんら難しくない読書である。しかしとてもしんどく感じる。敢えて作者は主人公に足あせをし、世界を拡げないようにさせているように感じる。壮大なサデズム。体が大きくなるにつれ、避けて通れない性や、親戚や、ご近所の記述がゼロ。もうこれは現代を装った仮死世界であり、ただ主人公は瑞々しい感性を腐敗させ、それを悲観させ、暴力にも向かわせない。自分には極めて恐ろしい、ホラーの世界と感じた。

  • 1/26 読了。
    退屈を持て余したアーサー・グラムの青春時代には、三人の<分身>がいた。ゲームのルールに厳格なまでに忠実で、カメラを愛好し、夜中に街を徘徊するウィリアム。学校教育を見下し、ポーに耽溺していて、スティーヴンソンの『自殺クラブ』を二人で実行しようと持ちかけるフィリップ。病弱なため長期で学校を休み、人形だらけの部屋に体を横たえて、ロミオとジュリエットのように毒を飲んで一緒に死のうと誘うエリナー。退屈の延長上にある死に幾度と接近しながら、時間を浪費していたアーサーの微睡みの日々。

    ミルハウザーの第二作目にあたる長編で、完全に処女作『エドウィン・マルハウス』と対になる物語。ジェフリーがエドウィンを自分の作品と見なして伝記のためにエドウィンを殺したのに対して、アーサーはウィリアム、フィリップ、エリナーと対存在を乗り換えるにつれ、「完璧な自分の分身(半身)なんていない」ということに気づく。しかし、気づくと同時にウィリアム(ポー信者のフィリップによって「ウィリアム・ウィルソン」と揶揄された)が、恐らく自分が何度も死から逃げたアーサーとは違う人間なんだと証明したいと願って、アーサーの目の前で銃口をこめかみにあてる。あるいは、ウィリアムこそ本当にアーサーと自殺クラブをやりきるつもりだったのか?
    ともかくアーサーは二九まで生き延びてこの自伝を書いている。『エドウィン〜』は元々二五歳くらいの男の人生を書くつもりだったのを、書いているうち幼少期の話に絞ることになったのだというから、ここからもこの二作が二つで一つの関係であるのがわかるだろう(とはいえ、今作もミドルスクールからハイスクールまでのエピソードしか書かれていない)。銃を所持するアウトローとしてのフィリップとアーノルド、クラスから弾き出された女の子としてのエリナーとローズがそれぞれ対応しているとすれば、カメラが趣味のウィリアムはジェフリーだろう(コントロールフリークの気があるのも似ている)。とすれば、本書は"ただの人"となったエドウィン=アーサーの<自伝>なのかもしれない。
    アーサーの文体は他のミルハウザー作品から見ても独特で、とにかく繰り返しが多い。センテンスどころかパラグラフ丸ごと繰り返される箇所もちょいちょい。リフレインの多用によって退屈は増幅し、循環する。退屈しながら何もできない、どこにも行けない、という怠惰で重苦しい感覚を醸し出すのに効果を上げている。フィリップとエリナーのベッタベタに"中二病"な設定を、皮肉にならずに静かなトーンで描写するのもミルハウザーの妙技であろう。
    フィリップとウィリアムとアーサーの微妙な三角関係の緊張感がとても好き。ウィリアムと一緒に「トムとハック」になり切ったと思ったら、フィリップの血が混ざったワインを飲んで義兄弟の誓いを交わしちゃうアーサー…。特に死んだフィリップを夢で見るシーンがえろい。「そこに、高い雑草に埋もれるようにして、ぐっすり眠った、ひどく青白い、こめかみに小さな赤い穴が開いたフィリップ・スクールクラフトが横たわっていた。白い小球がいくつも浮かんでいるように見えるその湿った赤い穴を吟味しようと僕はかがみ込んだが、穴に指を差し入れたとたん、ずきずき脈打つ頭痛とともに目が覚めた」アーサーのテンションはぐんぐん上がり、それは遂に薄暗い部屋でフィリップが本をくり抜いた箱の中に隠した銃を取り出した瞬間に頂点に達し、フィリップの死がすぐそこに迫ったことを思って深い愛情が迸るんだけど、その銃を渡されて「君が先」と言われた途端、急速にしぼんでいく。フィリップとアーサーは基本的な信頼関係を築けていないので、互いに相手が先に引き金を引くべきだと思っているし、アーサーを裏切り者呼ばわりしたウィリアムは、アーサーを信じていないからこそ自分でさっさと終わらせたのだろう。可哀想なアーサー。わざわざ冒頭に思わせぶりな二九なんて歳を書いたということは、もしかしてアーサーは三十で死ぬのかなぁ。っていうか二九までどんなふうに生きてきたのかなぁ。
    エリナーがポーの代わりに薦める「エドワード・オーウェン・ホワイトロー」はググっても出てこないけど、余程マニアックな作家かそれそも創作か。ここだけ詳細なあらすじ説明があるのできっと創作の架空作家なのだろうけど、だとすればエリナーにポーに憧れていた時期があって、その頃偽名で書いた小説だとかいう仮説が成り立つかもしれず、ちょっと面白い。

  • 書籍についてこういった公開の場に書くと、身近なところからクレームが入るので、読後記はこちらに書きました。

    http://www.rockfield.net/wordpress/?p=6860

  • 新刊といっても、1977年の作品であった。

    疲れるほど退屈な思春期を過ごす少年少女たち。
    多少の刺激的な出来事も起こるが、日々は淡々と流れ、季節は移り変わる。彼らの憤怒、絶望、焦り、気まぐれ、妄想、死への憧れ、嫉妬などがダークに描かれ、鬱屈した思春期をあぶり出す。
    繰り返しの文書が多用され、それらが少しずつ狂気をはらみ、落ち着かない気分にさせられる。

    のちの作品のモチーフもところどころに描かれていて、興味深い。夜の徘徊が幻想的で好きなテーマ。
    洗練度はのちの作品の方が上だが、この作品も悪くない。てゆうか、やっぱりミルハウザー好きだと思った。

  • 久しぶりのミルハウザー新刊、と喜んだが「バーナム博物館」等より前の初期作だった。柴田さん、忙しいのだろうがせめて最近の著作を訳して欲しかった。
    主人公はひたすら退屈しているナードなモラトリアム少年。思春期の友情、恋などがダークに描かれるが、鬱屈を表現するための文章は執拗なまでに細かい描写と表現の繰り返しで表される。自分の子供の頃の孤独感、閉塞感、死や破壊の願望までを虫眼鏡で拡大し、フィルターをかけて見せられているようだった。饒舌なテンションフル回転のなか、ロシアンルーレット、服毒や血の誓いなど、退屈すぎる日常から一線を越えてしまった危うい非日常が鬱々と浮かび上がる。その極致がロシアンルーレット。
    しかし、「みっしり」とした重量級の文章は正直いって読みづらいし飽きた。

  • 思春期のどうしようもない鬱屈感をあたかも拡大鏡を使って覗いた様な作品。
    繰り返しの多用や情景描写の偏執さにより、決して読みやすくはない。しかし、この手法でなければ表現できないもの書いているとの作家の意思を強烈に感じる。
    短編とは趣きが違うが、この作品は間違いなくミルハウザーの最高傑作。

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著者プロフィール

1943年、ニューヨーク生まれ。アメリカの作家。1972年『エドウィン・マルハウス』でデビュー。『マーティン・ドレスラーの夢』で1996年ピュリツァー賞を受賞。『私たち異者は』で2012年、優れた短篇集に与えられるThe Story Prizeを受賞。邦訳に『イン・ザ・ペニー・アーケード』『バーナム博物館』『三つの小さな王国』『ナイフ投げ師』(1998年、表題作でO・ヘンリー賞を受賞)(以上、白水Uブックス)、『ある夢想者の肖像』『魔法の夜』『木に登る王』『十三の物語』『私たち異者は』『ホーム・ラン』(以上、白水社)、『エドウィン・マルハウス』(河出文庫)がある。ほかにFrom the Realm of Morpheusがある。

「2021年 『夜の声』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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