- Amazon.co.jp ・本 (164ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560090237
作品紹介・あらすじ
「おれの精神は正常ではない、と書かれた文章にわたしは黄色いマーカーで線を引き、手帳に書き写しさえした」。主人公の男は、ある国家の軍隊による、先住民大虐殺の「報告書」を作成するため、千枚を越える原稿の校閲の仕事を請け負った。冒頭から異様な緊張感を孕んで、先住民に対する惨い虐殺や拷問の様子、生き残った者の悲痛な証言が、男の独白によって、延々とつづけられる。何かに取りつかれた男の正気と妄想が、次第に境界を失う。ときおりセックスを楽しむこともあるが、心はいっこうに晴れない。やむをえず郊外に逃げ出しても、心身に棲みついてしまった恐怖、不信、猜疑心に苛まれ、先住民の血を吐くような証言が反復される。やがて、男の目には「虐殺者の影」が見え隠れし、身の危険を感じるようになる…。
感想・レビュー・書評
-
グアテマラの先住民大量虐殺の記録を下敷きにしているため、内容的にはむごいものがちょくちょく差しはさまれるのだが、主人公の妄想が悲喜劇的な役割を担い、さらにほとんど改行のない文章に息つく間もなく引きずられ続けた。太字で書かれた先住民の証言がまた効果的。そしていいかげん彼の強迫観念から解放されたいなあと思っていたところへ――うわ、まじか(汗)となった。扱っている題材を考えるとずいぶん話は短いが、中身は十分に濃い。というより、この描き方で長編だとむしろ読み手が疲弊しそうなので、これくらいでちょうどよいのではなかろうか。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
精神が崩壊してゆく生々しい過程に戦慄がはしる。
作者は最後に、
男が単なるピエロではないことを、
読者に突きつける。
ああ怖い。 -
◆先住民大虐殺の報告書の校正を依頼された男。生き残った先住民族たちの証言は想像を絶する悲痛な内容であった。◆彼らの語る民族音楽にも似た独特の韻律・文彩・構造をもった言葉に「詩」を見出し、魅了されていく男。偏執症・強迫症的資質の強かった男は、閉鎖環境の中で報告書と現実が混濁し、形而下のあれこれがさらに彼を混乱させ、忍び寄る危険におびえるようになる。読者は独特の韻律を持つ区切りのない文体の中、彼の見る幻視と現実のコラージュに溺れてしまう。◆結末は恐ろしく、しかも始まりである。無分別とは何か。無分別なのは誰か。
◆題材の「報告書」とそこに記載されている出来事は実話に基づく。グアテマラの先住マヤ民族の虐殺から逃れたものの証言・「歴史的記憶の回復プロジェクト」(通称レミー)。和書抄訳に『グアテマラ虐殺の記憶』(岩波書店)がある。結末に起こる事件も実話。
◆「形而下のあれこれ」は、読んでるこちらも「しょうもないな~」と思ったり、男の神経過敏ぶりがユーモラスで笑わされたり。たわいもない私は、完全にモヤに足をすくわれちゃいました。そして恐怖…。ドキドキしてなかなか眠りにつけず…これから読まれる方には白昼の読了をおすすめします(笑)
【2013/10/02】 -
グアテマラで実際にあった原住民大虐殺の告発書を題材にとった小説。
主人公は他国からの亡命ジャーナリストで、その国で過去に軍部が行った原住民大量殺戮に関する証言・報告書の校閲を教会から依頼される。
しかしあまりに生々しい証言の数々に触れるうち、主人公は精神に支障をきたし始める・・・。
「強迫観念」と「妄想」。
心を病んだ主人公は、軍部の過去を暴く仕事を手伝っていることで自分が軍部に付け狙われているという強迫観念に襲われる。自分の身の回りで起こるどんな些細なことも、すべて自分を狙う陰謀に結び付けてしまう。
また、数々の証言が心に深く食い込み、ふとした瞬間に自分が原住民や軍人の立場になって、証言されている場にしばしばトリップしてしまう。
このように主人公の独白は、妄想と強迫観念とを行き来し、かなり錯綜してくる。
それらの強迫観念は大体においては主人公の思い過ごしのようだし、彼を苦しめる妄想の数々も、周囲の人にはまるで理解されないし、証言から受けた感銘も誰とも分かち合うことはできない。
そんな『ドン・キホーテ』にも似た、主人公だけが空回りする流れの中、最終章もまた主人公の思い過ごしの独白かと思いきや・・・彼の強迫観念が現実となる。
外部の人間から見たら「強迫観念」や「妄想」と一笑に付したくなるような驚異的な現実が、まさに中南米のこの国では起こっているという象徴かもしれない。
もう一つ象徴的だと思ったのは、主人公が周囲から受ける「無関心」。
彼がいかに一生懸命、陰謀説を説いたり、あるいは証言の数々の凄まじさを共有しようとしても、登場人物の誰一人として彼の話に関心を示さない。
最終章に至っては、まさに主人公が仕事をしていた国で事件が起こっているそのさなか、ヨーロッパにいる主人公の周囲ではお祭り騒ぎが行われている。
かの国で軍部の凶行が吹きすさんでいることを、他国は見て見ぬふりをして、誰も火中の栗を拾おうとはしない風潮を象徴しているように思えた。
タイトルの『無分別』とは、一体だれが「無分別」だと著者は言っているのだろうか。
平気で凶行を繰り返す軍部か?勝算もなしに証言をぶちまけた教会か?妄想にとらわれた主人公か?無関心を装う他人・他国か・・・?
内容とは離れたところでいうと、そんな重苦しいテーマにも関わらず、ぐいぐいと読ませてしまう本書のリズムの良さも本書の特色のように思える。
効果的に挿入される原住民の証言の鮮烈な一文が、独特の韻のような効果を生み、リズムを生んでいるように思う。
150ページ程度の短い小説だが、グッと色々な要素が凝縮されているように感じた。 -
ゲラゲラ笑いながら読んで虚しくなりぞっとした。モヤは初めて読むが、訳者が下手なのかこういう文体なのか、マルケスのようなダラダラした文章だがリズムがない。グアテマラのジェノサイドの被害者は20万とも30万とも。レミーは読んでおいた方がいいか・・・
-
BRUTUS20211合本掲載 評者:豊崎由美(書評家)
-
「無分別」オラシオ・カステジャーノス・モヤ
モヤを少々
昨夜少しだけモヤの「無分別」を読みました。30ページくらいですが、この作品自体が150ページほどなので、本来なら年内に読み切れるはずなのですが…本来なら…
で、いきなり、主題かつタイトルに結び付くこんな言葉から始まります。
おれの精神は正常ではない
(p7ほか)
この小説、グァテマラのインディオ大量虐殺をテーマにしていて、語り手は他国でその大量虐殺の生き残り逹が残した証言を推敲して印刷原稿にする、という仕事をすることになった、という筋。まあ、語り手はその原稿にくらくらしながらも街の女に目が行ってしまうというヤツなのですが…先の冒頭の文はその原稿(太字になってます)。証言者も語り手もまさに「無分別」…
では、正常である、分別があるというのはどういうことなのか、次の文を見てみよう、か。
それらの思考とわたしは無関係で、一体化することもなく、他人の心に映っている映画をある種の無関心をもって見ているかのようで、精神の平穏のためには好都合な心の状態だった。
(p37)
それらの思考とは自分自身の思考のこと。自分で自分の思考をモニターできることが正常であるならば、それが崩れていく過程がこの小説の流れであるだろう。そいえば、モヤの翻訳のあるもう一つの作品も「崩壊」というタイトルでしたね。関連があるのかも。
(2013 12/30)
境界がなくなっていく恐ろしさ
130ページまで読んで、あとはお楽しみにしておいて、とりあえずここで小まとめ。
先の日記で挙げたように、太字になっているインディオの証言の部分と、語り手の日常が「一体化」してしまう、そこから彼の「無分別」が始動する。それは自分が思うに、彼が気に入った文章を服の内ポケットの手帳に書き留めているから起こる。禁じられているその行為はその意識とともに人格の境界線を通り抜け、彼の思考を少しずつ染み込んで脅かしていく。証言の中で行われている拷問を、彼を批難した三流作家に対しての妄想内でのうさばらしに使う場面などがその典型例。一方、6章にある死亡者登記簿の引き渡しを拒否した民事登記士を巡る空想小説のネタは「ぜひ、次はこれでお願いします、モヤさん」と頼みたいくらいに面白そう。そのところに「魔術的リアリズムは、わたしにとってまったく無縁なものではないのだ」(p69)とあるけど、これは「現代ラテンアメリカ文学並走」で出てきた「ラテンアメリカ文学=魔術的リアリズム」という公式というかレッテルに反抗した次の世代であろうモヤにとってどんな思いまたは策略なのだろうか。
一方は話すこと語ることが「無分別」になると、
話し始めるための刺激を一度受けると、すべてのことをこと細かに物語りたくなり、必然的に一種の言語的痙攣状態になって、洗いざらいぶちまけたくなるという精神の病にわたしが罹っていることを。
(p122)
って、これ作家の営みそのものではあるまいか?
すべてが淀みもなく美しく読み手の心に届く文学など、文学ではない、とモヤは考えているのかな。読み解くのはこの淀み、痙攣状態から。しかし、全てが痙攣していると読み手にも解読不可能になってしまう。この辺りの匙加減をどうするかが作家の個性ともなるのでは?
でも、この10章の最後で「止めることはできなかった」と語っているのは誰なのかな? 語り手はそんな言葉など聞く余裕もなく逃げてしまっているわけだし・・・無分別を半分くらいは装っているのかな? 何の為?
(2013 12/31)
「無分別」読了報告
昨夜の駆け込み寺で、なんとか2013年内に読み終えることができた。
そしてそのとき心は、かつてわたしのものであったとしても、もはやわたしのものではなく、報道記者のように、山刀を手に持った兵隊たちが手足を縛られ跪かされた住民たちを切り刻んでいる村の空き地を勝手に歩き回り始めた。
(p137)
こうなるともう自己同一性の保持は無理。一番最初の方に挙げた、自分の心をモニターできる能力を失っている。もちろん「歩き回っている」映像を語り手に送り込んでいるのも彼自身の精神なのだが、それは彼自身の自我をではない見知らぬ自己なのだ。
この辺りわかるとわからないとではこの小説の理解がまるっきり異なる。「怖さ」はここを見落とすと半減する。
でも、もちょっとボリュームあってもよかったのかな、この題材にしてテーマだと・・・と、ちょっとは思ってしまう。
(2014 01/01)
-
グァテマラで実際に起きた先住マヤ民族に対して行われた大虐殺からかろうじて生き残ったものたちの証言を収録した報告書を整理編集する校閲者の物語
「軍隊は住民の半分に残りの半分の住民を殺害する事を強制したが、それは、先住民が先住民を殺し、生き残った者たちは仲間を殺した前科者の烙印を押されるのだ(149P)」
とはいえ、非人道的な政治犯罪を声高に糾弾するような社会正義を訴える小説ではなく、証言者たちの声には報告書を通して間接的に触れているだけの校閲者の精神が、その声に影響されて徐々に偏執狂的な妄想に取り付かれ蝕まれていくというあくまでとある個人の物語。
暴力に寄る組織的な大量虐殺という圧倒的な悲劇と、なんとか口説き落とした美人から性病を移されるというあまりに個人的で陳腐な悲劇が本人の中で同一化するという笑っていいのかなんなのかよくわからない不安にこっちまでやられそうになる。
後半、だんだんと校閲者自身が虐殺者に追われていると思い込むんだけど、それも本当に追われているのか、強迫観念がうんだ妄想に過ぎないのかもよくわからない。
テーマだけ見ると重いし、独特な文体でもあるんだけど、読み出すと意外なほどさくさく進むし、時々は笑えさえもするという、実は超絶技巧小説なんじゃないでしょうか。
他人の強烈な体験が、傍観者であるはずの平凡な個人の生活に強引に介入してくる様が、悲しいとか可哀想とかそんなレベルじゃなく、精神をぐるり一回転させるくらいの転換を及ぼす瞬間を目の当たりにするような不安。すごい。