歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560090398

作品紹介・あらすじ

1979年、台北。物売りが立つ歩道橋には、子供たちに不思議なマジックを披露する「魔術師」がいた――。今はなき「中華商場」と人々のささやかなエピソードを紡ぐ、ノスタルジックな連作短篇集。

感想・レビュー・書評

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  • 1980年代初頭、台北。物売りが立つ歩道橋には、子供たちに不思議なマジックを披露する「魔術師」がいた─。

    小説家の“ぼく”は「歩道橋の魔術師」のことを子供の頃の遊び仲間に覚えているか訊き、連作の物語にする。
    ここでひとつ大切になることは、大人となった彼らの視点から、小学生だった頃の思い出が語られることだと思う。
    それによって、確かなものは不確かに、明瞭なものは曖昧に、時の流れが事実を混濁させていく。時間は、魔術師を彼らの「記憶」の底へと沈めていく。

    魔術師は子供の頃の“ぼく”に言う。
    「……小僧、いいか。世界にはずっと誰にも知られないままのことだってあるんだ。人の目が見たものが絶対とは限らない」
    どうしてと尋ねるぼくに魔術師は答える。
    「ときに、死ぬまで覚えていることは、目で見たことじゃないからだよ」

    子供たちにとって、魔術師はいつもの見慣れた風景の一部分だったと思うのだ。
    それが偶然か必然か、子供たちにとって重大な局面で、魔術師の「魔法」の時間と交わることになる。その瞬間、魔術師は子供たちの前に存在するものとなる。

    〈記憶はただ、どう残すかだけを考えればいい。記憶は、わざわざ語られる必要はないのだから。
    記憶は失われた部分がつながれて、物語になったあと、初めて語られる価値を持つのだ。〉

    今また“ぼく”の前に、魔術師が記憶から存在へと巻き戻っていく。わたしにはそんなふうに見えるのだ。

  • かつて台北にあった巨大な商業施設「中華商場」。8棟3階建のビルが2キロの敷地に連なり、台北市民の生活の中心地だった。1961年の落成以降、鍵屋、電気屋、服屋、食事処と1000を超える雑多な店舗が林立し、店を営む人々の居住空間もあったという。ネット上には当時の賑わいをうかがわせる写真が多く上がっている。しかし、時代の流れとともに廃れていき、1992年に解体されることとなる。

    本書は80年代の中華商場を舞台に、当時は子どもだった登場人物たちが過去を振り返る連作短編集である。「歩道橋の魔術師」とは不思議なタイトルだが、商場の8棟の建物それぞれが歩道橋でつながっていたことに由来する。下に降りることなく、商場の棟々を伝い歩くことができた。歩道橋にも多くの露天商人がおり、その中の一人が魔術師だった。彼は道ゆく人にマジックを披露するパフォーマーなのだが、各短編の子どもたちと浅からぬ関わりをする。そこで彼は奇術ではなく、魔法としか思えないことをして見せるのだ。

    作者の呉明益さんは1971年生まれ。ご自身、21歳までこの商場で暮らしていたという。だからだろうか、細やかな描写を読み進めるうちに、商場の空気感や人々の息づかいが少しずつしみ込んでくるような錯覚を覚えた。おそらく、訳者の天野健太郎さんの力も大きいのだろう(あまりに早いご逝去が惜しまれる)。

    呉さんと同世代以上の読者には、特に響く本だと思う。私は呉さんよりやや下の世代だが、昭和の1980年代も同じような空気感だったように思う。今のようなショッピングモール等はなく、買い物は近所の商店街。八百屋さん、魚屋さん、酒屋さん、本屋さんとそれぞれが元気だった。小銭を持って駄菓子屋へ通ったし、土曜の8時はドリフにお腹を抱えて笑った。小学校の前に時折怪しげな露天商のおじさんがやってきて、魔術師と同じく、踊る紙人形を披露したりもしていた。

    本書は台湾でドラマ化され、それをきっかけに中華商場の写真や映像記録を残す動きも起きているらしい。それだけの力がある小説である。呉さんの他の作品も読みたくなった。

  • 『魔術師は少し考えてから、しゃがれた声で答えた。「ときに、死ぬまで覚えていることは、目で見えたことじゃないからだよ」』ー『歩道橋の魔術師』

    記憶は事実とは異なっている。だからこそ美しいのだとも言える。事実と異なるからと言って嘘ではない。記憶の断片が勝手に結び付き合い再構築されてしまうだけのこと。それも、決して自分に都合のいいように再構築される訳ではない。その意味で記憶は必要以上に中立であると思う。

    台湾を訪れたことはないが、台湾に昭和の面影を求める人々がいるとは聞いたことがある。英語で質問したら、統治下時代に教育を受けた人々から日本語で答えられて不思議な感覚を味わったと出張から戻った先輩に聞いたこともある。しかしそれも既に二十年以上前のこと。戦後は最早手の届かない程に遠退いた。今更、昭和を持ち出す必要はないのでは、と少し斜めの目線の自分は思ったりもする。とは言え、確かに自分も文字を追って行くうちに、文章の中に埋め込まれたタイムカプセルを開けるような感覚を覚えるのだ。この小説で描かれる記憶の中の少年たちが過ごす時間からは約十年先行する時代、然程田舎でもなく都会でもない新興住宅街が拡がりつつあった町の子であった筈の自分の記憶は、台湾の中華商場の風景と奇妙に共鳴するのである。自分の過ごした町に中華商場のような場所が在った訳ではない。それなのに、駅前通りから裏に延びる入り組んだ路地の喧騒や、映画館、物欲しそうな子供で溢れていた模型屋、甘栗を煎る匂いなどが一気に蘇るのを止められなくなる。

    もちろん記憶の対象は異なるけれど、舗装もされていない道で膝を強かに打ち付けて覚えた自転車で細い道を走り回り、名前も知らない子供たちと同じ時間と場所を共有していたこと、それが、呉明益の描く中華商場の雰囲気の中にかげろうのように浮かんでくる。八坂神社の縁日は、さして明るくはない白熱電灯の連なりの下、信じられない程がらくたが輝いて見えた。もちろん、家に持ち帰ることはほとんど出来なかったし、そんな幸運があったとしてもその輝きは家のぽつんと灯る白熱電灯の下では失われてしまうのが常だったけれど。だがそんな魔法の力は確かに自分にも作用したのだ。学校の正門の直ぐ側で、何の変鉄もない鉄板に張り付けられた発泡スチロールの円柱が、時代劇の主人公のように活躍するのを確かに自分の目で見たのだ。

    何かを失うことが、回り廻って大人になることなのだと気付いてからどのくらい経つのだろう。失ったものと得たもののバランスは決して合ってはいないのに、今になってしがみつくように思い出すのは何故なんだろう。呉明益の小説が語るのは、そんな失われてしまったと思っている記憶の中身は必ず身体の何処かに潜んでいて、匂いや湿度や気温の変化のような意味もない出来事でよみがえるということ。それを紙片の上に定着させようとすればするほど、記憶の輪郭はぼやけ連なりはほどける。それを無理矢理並べれば事実と異なる物語となる。そんな記憶の変質をかろうじて回避した文書を呉明益はものにしたように思えた。

    しかし、そんな文章に触発されて甦った記憶を愛で過ぎてはいけない。記憶はしばしば時間の差を無視して呼応し、多重露出の絵となって蘇る。自分自身の子供の頃の記憶に十年前の越南の市場の喧騒が混ざっていないとは言い切れない。郷愁はただ単に憧憬に過ぎないのかも知れない。魔術師は、学校の正門脇にも、夜の盛り場にも、そして歩道橋の上にも、居たとも言えるし居なかったとも言える。そんな由無し事が頭の中をぐるぐると廻っている。

  • 私も日本の市場で育った。両親が市場で商売をしていた。当時の市場のごちゃごちゃっとした中に渦巻く独特の活気は、今の人には想像できないのではないか?
    ショッピングモールとはもちろん違う。狭い通路を挟んで個々の店舗が小さくて男1人か夫婦で経営している店が密集しているのが市場だ。それにアメ横や京都の錦小路とも違う。市場には食料品店や食べ物屋だけでなくて、多くの職種が集まっていた。私が育った市場には、漬物屋や金物屋の隣に燃料屋があった(燃料屋って今の人にわかるかな?練炭や灯油を売る店のこと)。つまり大げさではなくて、そこに行けばほとんどの生活用品が調達できるという、雑多でありながらコンパクトという、私から言わせれば百均やコンビニ以上に手近に日常生活必需品が手に入る空間が市場だった。

    でも私が育った市場と中華商場とでは決定的な違いがある。それは、中華商場は居住スペースも一体化しているところ。つまり商売だけでなく生活空間がそこにある。私の場合、幼時は両親が市場で共働きだったので、家に親といっしょに帰るまでは、市場じゅうが遊び場(兼)店がヒマなおっちゃんからいろんなことを教わる教室(兼)屋上の入り組んだ階段で探検できる場…など市場は子どもでも時間をつぶすのには事欠かなかったが、あくまで日常生活空間とまでは言い切れないものだった。

    ところが中華商場では、店から中二階に上がれば、食べて寝てアレしてetc.のすべてのことが行われる空間というのが違う。そこでは単なる住居ではない、仕事の場だけでもない、人間の日常がすべてそこに収まっている。鈴井貴之監督が映画「銀のエンゼル」でローソン本社と喧嘩までして、1階がコンビニで2階を住居として暮らす家族という設定にこだわったのは、そういう日常すべてがコンパクト化された空間でこそ、ありふれた家族の物語であっても見る人は必ず何らかの共感を心に奏でられると確信したからだろう(実際にはローソンは住居一体型の店舗形態は認めていないらしい)。だから鈴井監督の映画のようにフィクションではなく中華商場という実在したものの小説化ということで、(私の幼時の思い入れもあって)大いに期待したのだが…

    期待外れだった。ページをめくり次々と短編を読むうちに、早く終わってほしいとばかり思うようになった。つまり私の期待とは全然違ったのだ。私が期待したのは、台湾版「高円寺純情商店街」であり、台湾版「たけしくん、ハイ」だった。商店街や市場で過ごした少年の誰もが感じるであろう、記憶の奥で癇癪玉が破裂するような爽快感をもう一度味わいたかったのだ。
    だがこの小説は台湾版(出来の悪い)村上春樹だった。そもそも村上春樹が読みたければ本家を読むだけの話なのだが…

    また、魔術師が何を意味しているのか結局最後まではっきりしなかったのも、私が評価を下げる要因だ。マジックリアリズムか何か知らないが、商場のリアルな記憶をたどってリアルな感触の作品にする文章力が低いから、商場の実態とは直接関係がない春樹やG・ガルシア=マルケスを切り貼りして、それっぽくしつらえただけでは?と穿ってしまう。

    だって中上健次であれば、私が行ったことがない路地の細くて急な石段を見上げるような光景が文章からリアルに伝わってくるのに。そして私が会ったことのない作中人物が姿を変えてまるで過去に会ったことがあるかのようなデジャヴをもたらしてくれるのに。この作品ではそのような「読者の体験を裏書きするようなリアルさ」がない。

    作者はリアルさに窮するとセックスを持ち出して安直なリアルさに走るか、少年少女の夢心地でふわふわっとした記憶を魔術という便利なキーワードで目くらましをするかの両極端のように感じた。
    台湾では新感覚なのかもしれないが、私には「もどき」小説を読まされた後の徒労感がずしりと残り、先人へのあこがれが先走りしてその分自己が薄くなるという、典型的な田舎者の小説のように思えた。

  • 陽炎の向こう側に見える物語みたいだった。

    立ち上ってくるのはおぼろ気でありながら強烈な記憶。大人になり思い出すことで、子どもの頃の、その時の感情を理解する。甘く懐かしく、また刺すように痛い。

    悲しみは思いがけないところに留まっていて、光は見えないけれど側にある。

    切ないけれど美しい連作短編でした。



  • 1961年から1992年にかけて、台北に実在した大型商業施設「中華商場」を舞台に、そこで暮らす子供達の日常を描き出す連作短編集。

    当時の台湾は経済成長期の最中で、鉄筋コンクリート造りの三階建ての建物が八棟も並ぶ中華商場は、上の階が住居になっているところが多く、職住一致の子供達の家庭の様子は日本の昭和の高度成長期を彷彿とさせる。

    中華商場には、各棟や他の商業施設、劇場などにも行き来できるように繋がった歩道橋があり、それは人々の猥雑で濃密な地域社会を形成する連絡網の様なものでもあった。露天商も多かった歩道橋を渡って、子供達は互いの家を行き来し、それぞれに家業の手伝いをしたり、遊んだり、時には親に叱られたり殴られたりしながら、悩んだり、恋をしたり、身近な人の死に直面したりする。その思い出話は、まるでそこに自分も居合わせたことがあるのではないかと錯覚するほどリアリティがあるのだが、それぞれの忘れられない出来事は、全てではないが、当時子供達が夢中になっていた歩道橋の魔術師の記憶と繋がっている。

    黒い紙で作られた踊る小人、神隠しに遭って3ヶ月行方不明になった友人、夢に現れた石獅子と親戚の火事、紙の絵から取り出された透明な白い金魚、双子の兄が魔術師に一瞬消されてノートの中にいた事、消えた仕立て屋の猫、夜空に輝くネオン管から立ち昇る色のついた光…。あり得ないことが目の前で起こった時、それはただの記憶では無く、一生忘れられない物語として深く心に刻まれるのだろうか。

    喧騒と、匂いまでがリアルに感じられる9つの物語は、「ときに、死ぬまで覚えていることは、目で見たことじゃないからだよ」と言う魔術師の言葉をそのまま証明しているかの様に、平凡な繰り返しの日常のすぐそばに、非日常的な事がぽっかり口を開けている不安を残して終わる。

    物語は、語り手の一人でもある小説家の「僕」が、かつての幼馴染に再会した時、自分たちが子供だった1980年代の中華商場の思い出を語ってもらう形で進むが、作家も語り手たちもすでに2010年代の今を生きる中年になっており、切り取られた思い出は鮮明だが、乾いた寂寥感を漂わせている。

    台湾独特の食べ物や風習に、これは異国の物語であると確かに感じる。それなのに、感情を抑えた透明で静かな文章の描き出す中華商場の情景は、不思議と自分の過ごした昭和の幼少期の記憶に触れてくる。リアリティとノスタルジーと魔術に魅入られる様な短編集。

    著者の呉明益氏は、台湾で今最も高評価を受けている小説家・エッセイスト。1971年台北生まれ。

  • ノスタルジック
    目前の解けない魔術
    目に見えない幻想

  • こういうのも純文学に入るんだろうか?どこか寂しくて、文章は美しい。訳は大変だっただろうな、と思う。台湾という土地が少し近づいた気がした。
    セックスシーンはちょっと嫌だったんだけどな。
    歩道橋にいた魔術師に関する短編連作です。中華商場という、ショッピングモールとも言えないような、どこかうらさびれた空気の中に、子供たちが駆け回っているお話。
    連作の中の端々に「子供いらない家庭いらない」という思いがふわっと出てきて、なんか共感したりもした。
    後にも書くけど最後の章で児童買春をさらーっと肯定的に書いている(ように見えた)のがものすごく引っかかってしまってな。もうちょい、なんかなかったかあそこ。
    「歩道橋の魔術師」これが一番魔術師を詳しく描いていた。作者自身なのかな、という子供が主人公。
    「九十九階」マークが何故死んだのか、わかるような気もするし全然わからない気もする。
    「石獅子は覚えている」
    一番心に残ったのはこれだった。火事で家族を失って、十年余計に生きてこっそり死んでいったペイペイの悲しさ。
    「ギラギラと~」ゾウの着ぐるみを着てる時だけ出会える過去。私も着ぐるみ着たことあるけどこうは考えつかなかった。
    「ギター弾きの恋」ラン姉さんひどいなとも思うけどどうしようもない気もする。
    「金魚」この商場にいた人はみんな切なかったのかな?テレサの泣き顔を見たいからといじめる男子の勝手さが少し嫌だった。
    「鳥を飼う」残酷だけれど、猫を責められない、というこの商場のどうしようもなさ。
    「唐さんの仕立屋」猫はどこへ行ったんだろう。私も犬がいなくなったら抜け殻になると思う。
    「光は流れる川のように」現実の世界とうまくやれない、という言葉に胸を突かれた。
    「レインツリーの魔術師」児童買春を肯定的に書かないで欲しかったのだけれども。

  • 台湾の友だちに教えてもらった、すごくよかったのでこの人の他の本も読みたい〜!
    『複眼人』が読みたい〜と思ってしらべたら、2019年に刊行予定だったけど、翻訳者の天野さんが2018年に亡くなられたんですね。呉明益さんが追悼として寄せた文章が、ほんとうに心によくわかりました。その後に翻訳を出すのがなんとなく、出しにくいと思うけど、お願いですからはやく出してください…!

    これまで台湾の作家とか小説を全然知らなくて、なんだかとても失礼だったなと感じた。こんなにいい作家もいるのに、まるで小国を無視して生きるのは自分にとって惜しいことだし、悔しいことだ。これからの私はもっともっと小さなことを追いかけて、こだわり続ける気がする。村上春樹がいっていた「人生において大切なことは、何を得たかではなく、どのように求めたかだと思う」ということを、いつも心のすみっこのポケットにいれて、持ち歩くようにしている。 

  • 1979年台北、まだ聳え立つような高層ビルも珍しかった頃。今はなき「中華商場」の各棟を繋いだ歩道橋の上で、焼餅、金魚に作業靴、色とりどりの商品を並べた物売り達の中で一際異彩を放っていたのが、そう、魔術師の彼だった。商場を駆け抜ける我々の足も彼の前ではピタリと止まり、次々と繰り出される奇術に魅了されー。魔術師に惹かれた少年時代を懐古する登場人物達。まるで生きているかのようだった黒い小人、3ヶ月もの間忽然を姿を消した少年、不幸を予測した石獅子、着ている間だけ懐かしい人々が会いに来てくれた着ぐるみ、透明な金魚、蘇りかけた文鳥…。

    短編を読み進む程、現実と幻想の境界が曖昧だった頃の自分を思い出せずにはいられない。そういえば、自分も「不思議な力がある」と言って転校生の白鳥さんから渡された、青いビー玉を後生大事に持っていたなぁ。そんな自分が堪らなく懐かしく、そして愛しくなる一冊だった。文体は淡白なのに強烈な感情を想起させられる点で非常に力強さを感じさせる作者、他の作品も是非読んでみたい。

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著者プロフィール

1971年台北生まれ、小説家、エッセイスト。輔仁大学マスメディア学部卒業、国立中央大学中国文学部で博士号取得後、現在、国立東華大学華語文学部教授。90年代初頭から創作を行い、短篇小説集『本日公休』(97年)で作家デビュー。2007年、初の長篇小説『睡眠的航線』(本書)を発表し、『亜州週刊』年間十大小説に選出された。以降、80年代の台北の中華商場を舞台とした短篇小説集『歩道橋の魔術師』(白水社)やSF長篇小説『複眼人』(KADOKAWA)、激動の台湾百年史を一台の自転車をめぐる記憶に凝縮した長篇小説『自転車泥棒』(文藝春秋)など、歴史とファンタジーを融合させたユニークな作品を次々と発表している。国内では全国学生文学賞、聯合報文学小説新人賞、梁実秋文学賞、中央日報文学賞、台北文学賞、台湾文学長篇小説賞、台北国際ブックフェア大賞などを相次いで受賞、海外では『複眼人』がフランスの島嶼文学賞を獲得、『自転車泥棒』が国際ブッカー賞の候補にノミネートされるなど、その作品は世界的に評価され、日本語、英語、フランス語、チェコ語、トルコ語など、数ヶ国語に翻訳されている。

「2021年 『眠りの航路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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