ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560092224

感想・レビュー・書評

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  •  ふたりの冴えない男たちが珍妙なやりとりを繰り広げながらゴドーを待っているが、ゴドーはいっこうにやってこない…。

     〈待つ〉ことは〈誰かを/何かを待つ〉ことだが、相手がやってこない状況においてはむしろ〈誰かに/何かに待たされる〉ことだ。それはきわめて受動的な行為で、しかもその誰か、すなわちGodot(God-ot→”God, oh”?)が永遠にやってこない他者ならば、ふたりの〈待つ〉はなんと無意味でむくわれない受動だろう。まるで”I was born”の悲しみそのものかのごとく。

     とはいえ訳もわからずただ待つほかないからこそかえって会話ははずむのかもしれない。不意に、気の利いた台詞が口を突いてひょこっと飛びだしてくる。「運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。どうだね?」本人を置き去りにしたまま、言葉は喋りつづける。
     してみるとこの物語(といえるのか?)において、自由にふるまう主体、という意味での「人物」などはたして見いだせるのだろうか。
     わからない。わからないから沈黙する。沈黙したはずなのに、それでも言葉はまた喋りだす。ゴドーを待ちながら。

  • この戯曲の舞台は田舎道。一本の木。二人の老いた男がゴドーを待っている。
    何も起こらない1日が終わり、とうとうゴドーはやって来ない。
    次の日も同じことを繰り返すが、やはりゴドーが来ないまま劇は終わる。
    この劇は何も起こらない。いや何も起こらないことが繰り返される。

    人の一生が、待てど暮らせどやって来ない“救い”を待ち続けることだとすれば、
    主観的には悲劇かも知れないし、客観的には喜劇かも知れない―。

    悲喜劇は、人生に意義を求め、上手く行ったり、行かない時に生まれる。
    逆に意義を求めなければ喜びも悲しみもなく、ただ生きている存在になる。
    言わば動物的で、余計な競争がない分 平和な生活だ。

    しかしそこに進歩はない。理屈とは限られた時間を効率的に過す道具である。
    科学の進歩は、理屈を突き詰めた先にある。
    そして進歩すれば牧歌的、動物的生活からは遠ざかる。

    この戯曲を読みながら思い浮かぶのは、元祖天才バカボンのパパだった。
    パパとバカボンとバカ田大学の後輩が繰り広げる支離滅裂な激論。
    それとトカゲのおっさん等の松本人志のコント。

    この戯曲には、物事を理屈で捉えるヴラジミールと、直感で捉えるエストラゴン、
    感情を持たない男ラッキーと彼を家畜のように扱うポッツォが登場する。
    赤塚不二夫や松本人志の世界と何か共通項を感じるのだ…。

    この戯曲は、1953年にパリで初演されたシュールコント、不条理ギャグだ。
    話に筋もなければ、脈絡もない、ときに言語の嚙み合いすら霧消する。
    テンポ良い会話とオーバーアクションで惹き込む第三世代の芝居や、
    サラリーマンNEOの芝居を思い出し重ねると面白味が湧くだろう。

    最後に。意味が無いことをナンセンスと呼ぶのだとしたら、
    ナンセンスの意味を探ろうとすること自体ナンセンスである。
    作者ベケットが本作について“言葉遊びとテンポ遊び”と言った様に、
    この戯曲の意味を探ることは、それ自体ナンセンスなのかも知れない…。

    傑作といわれる書を読んだことに満足。

  • 田舎道に浮浪者2人。2人は救済者「ゴドー」をひたすらに待ち続ける。基本設定はこれだけ。漠然とした内容から、見るものはそれぞれのゴドーを想像し、自分の人生と重ねる。ゴドーは神なのか、それとも死の暗喩なのか(生は死までの暇潰し)、はたまた…。
    私にとってのゴドーとは何か?待ち続けることしかできないのか?終わりの見えない自問自答、読み終わっても物語は終わらない。

  •  二幕からなる戯曲。
     一本の木の傍で、二人の浮浪者ヴラジーミルとエストラゴンはゴドーを待っている。ゴドーはなかなかやってこない。そこにポッツィオという男と、その男の従者、ラッキーがやってくる。ラッキーは首に縄をつけられていて、罵倒されながらポッツォに仕えている。
     ポッツォとラッキーが去った後、少年が現れて、今日はゴドーはこない、明日は来るはずだ、との伝言を伝える。

     で、結局最後までゴドーは来ない。おわり

    あんだそれ!ということで話題作・問題作として、1953年パリの初演以来世界中で演じられている。
    あとがきに「『ゴドー』に接して、人は無償におしゃべりになりたがっている自分を見出す。」とあるけれど、その通り、私なりの解釈がむくむく浮かんで人に話したくなった。ということで、以下個人的解釈。

     ここに出てくる登場人物は全て馬鹿である。考えている途中で何を考えていたか忘れるし、昨日会った人の顔も名前も覚えられない。なぜここに自分がいるのかも忘れてしまう中、そうだ、ゴドーを待っていたんだったとの言葉に我に返り、ただ待つ。
     それなのに、箇所箇所に高尚な哲学や史実が彼らの口からちょいちょい語られる。それを聞いた観客の中の知識人は、虚栄心をくすぐられて笑うだろうなと思った。ってそれは落語の手法じゃないか。そう思うと、全てが落語に見えてきた。

     阿呆な登場人物たちが阿呆なセリフのかけあいをする、それこそ落語で(ドリフの馬鹿兄弟もそうだなぁ)それを笑いにするのは絶妙な間。この戯曲でも要所要所に(沈黙)という間を指示する場面があって、それがなかなか絶妙。

     これ、日本人に向いてますね。スルメを味わうように、思いだしては楽しめると思います。

  • 「小説という毒を浴びる」で紹介されていた本。
    なんで紹介されていたんだろう、もう一度読み直してみよう。
    ファンタジー的な物語がない劇。こんなのどう演じるのか見てみたい気もするけど、実際観たらすごく退屈なんではないかと思う。
    会話が飛び飛び?になっていて、あるところで読むのを中断して再開すると連続性がなくて、あれっこんな流れだっけ??ってなる。
    おんなじ日を繰り返している?みたいなファンタジーと受け取った。

  • 「世界の涙の総量は不変だ。」

    会話が煩くて、戯曲はあまり好まないのだけれど、この場所は、まるで宇宙の片隅のようにさびしくて、舞い散る砂塵のようにときどき煌めくから、なんだから優しい気持ちになれた。ときどき滑稽に聴こえる嘆きの詩に笑いながら(あぁ、、!!)。
    ゴドー のことなんて、はじめから知らなかったなら。あるいは待つことが、ひとつの希望でもあるのなら。いちにちは永く、そして人生はみじかい。
    縛られていない時間を浮遊し、すぐにでも立ち去ってしまいたい 舞台 に板付きで、でもあしたはまたちょっとちがった朝がやってくる、かもしれない。
    どこかの屋上で宙を眺めながら、どうでもいい話を、だれかとしたい。そんなきもち。

  • 読みながら「プリズナーNo6」を思い出していた。エヴァに影響を与えたとされるカルトドラマだ。奇妙な「村」に連行された主人公が脱出を図り失敗する、というのが各話の基本プロット。キャラは少なく、舞台もほぼ固定で、ごくシンプル化と思いきや、隠喩に満ちた不可解な回が多く、何を言わんとしているのか理解できない。思わせぶりな描写に何かしらをつかめたと思った途端、煙に巻くようなシーンが続いて答えを見失う。正解探しを諦めたら、自分の見たいものが見えてきて楽しくなってきた。ゴドーもそんな鏡のような作品なのかもしれない。

  • 主題があるのみ、という感じがする。
    来るか分からない(おそらく来ない)ものを待つ、というのは本来的に矛盾したありえない行動である。本当ならば、来ないものは待てない。このことがディテールにも敷衍していて、「そろそろ行こう。」→(動かない)→幕。のような不可解なことになる。
    でも「絶対来ないだろうな」というものを待つ、という心境は確かにあったりする。考えてみるとなんなんだろう。現在は全ての未来を内包するということ?

  • 文学
    古典

  • 理由も何もうまく説明できないけど、いい!

    いろんな作品に引用されたりしてて気になってたのですが、やっと読むことができました。
    不条理劇といえばコレ!という感じですあまりにも有名ですが、予想を大きく超える良さでした。

    設定の不条理さ、登場人物の不条理さ、…
    なにも確かじゃない世界で、比較的「普通」の感覚に近いのがウラジーミルだと思うのですが、この世界で正気を保っていることが、もう既におかしいのかも。

    とにかくすごくよかったです。
    エストラゴンも、ウラジーミルも、ポッツォも、ラッキーも、男の子も、みんな歪んでる。
    ゴドーも。

    でも、とっても魅力的な歪み。

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著者プロフィール

1906年アイルランド生まれ。小説家・劇作家。『モロイ』『マロウン死す』『名づけられないもの』の小説三部作や、戯曲『ゴドーを待ちながら』を発表。1969年ノーベル文学賞受賞。1989年没。

「2022年 『どんなふう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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