本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
本 ・本 (306ページ) / ISBN・EAN: 9784560093924
作品紹介・あらすじ
舞台は1960年代のモスクワ郊外。殺人を重ねながら魂や死、彼岸の世界を追求する主人公フョードル・ソンノフ。彼がねぐらとするレベジノエ村の共同住宅には、世界を不条理で満たさなければ気がすまない異常性癖をもつ妹クラーワと、フォミチェフ家の人々――父のコーリャ、日がなごみ溜めを漁る長女リーダ、快楽の産物として子どもが生じることが許せない婿パーシャ、自らの疥癬を食す長男ペーチャ、現実を「見てはいない」次女ミーラ――が住まっている。
彼らに「蒙昧主義」を見いだし、自らの思想とのジンテーゼをはかる「形而上派」の面々がここに合流する。グノーシス的神秘思想の持ち主である「形而上的娼婦」アンナを中心に、彼らは「現実」を超越することを志向しながらそれぞれが独自の(超)独我論を展開していく。さらには敬虔なキリスト者であったものの死の間際に鶏になってしまう老人アンドレイ、セクトには属さず独自の道を歩む去勢者ミヘイらも加わり……。
消費社会に覆われた西側でニューエイジが生じたのと時を同じくして、表向き窒息するような社会主義体制下のソ連ロシアのアンダーグラウンドで息づいたもうひとつの精神世界。
感想・レビュー・書評
-
翻訳者 松下隆志さん参加の読書会に参加しました。皆様ありがとうございました。
翻訳者の松下隆志さんは、私が「この一冊だけ何が何でも読み切りそれっきりこの作者のことは忘れよう」と思ったソローキン『青い脂』(https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309206018#comment)で詳細に解説してくださいった翻訳者さんだ!(なおソローキンはその後短編で1作品読みましたが、なかなか楽しめました)
こちらの小説の題名の「穴持たず」とは、冬になっても冬眠しそびれて腹をすかせて森をうろつき出会った動物や人間に襲いかかる熊のこと。この小説に出てくるのはそんな穴持たずの熊たちのように精神的に飢えて獰猛な人物たち。
マムレーエフはソ連の「言いたいことが言えない」時代で、こちらの本も正式には出版できずに原稿や朗読テープを回しあったりというアングラ作品だそうだ。そしてマムレーエフの個性と、そんなソ連の時代背景が絡み合っている…ということです。
では本編へ。
まずはフョードル・イワーノヴィチ・ソンノフという40代の男が出てきて通りすがりに人を殴ったり殺したりするんですよ。
フョードルは若い頃から当たり前のように人を殺していたんだけど、殺した少年が夢の中にひょっこり現れた時から、殺しに意味を求めるようになったという。自分が殺したと思っていた相手を本当に殺したのだろうか?自分が殺したと思っているのはただの表面で、生命の本質は自分から逃げ去っているのではないか?
フョードルの故郷はモスクワ郊外の小さな村のレジベノエ。かつてフョードルの父親は自分を殺して金を奪おうとする女のイリーナを気に入り妻にした。フョードルはそんな母を殴って育っていた。だって自分がどこから来たのかわからないではないか、母親の腹からだって?そんなことを知りたいんじゃない。
フョードルには妹のクラウディア・イワーノヴナ・ソンノフ(クラーワ)がいる。でっぷり太って、人を殺して回る兄フョードルを愛して、その状況を楽しんでいる。
内面的に荒廃するレジベノエ村に、死とか道徳とかを飛び越えようとする人々が集まってくる。
この後出てくる人物はみんな世間の常識とは違ったところにいるので、人物ごとに書いてみます。
※※※以下ネタバレしています※※※
❐フォミチュラ一家(と、クラスノルコフ夫婦)
レジベノエ村でソンノフと同じ家に住居スペースを分けている家族。
フォミチュラ家の父親はコーリャ爺さん、その長女リーダ(リードチカ)、17歳の長男ペーチャ、14歳の次女少女ミーラ。そしてリードチカの夫のパーヴェル・クラスノルコフ(パーシャ)。このフォミチュラ家の子供たちは軽く白痴気味。
・パーシャとリードチカ
この一家が出てくるまでにも気持ちの悪い描写がたくさんあったのだが、パーシャとリードチカ夫婦の気持ち悪さはまた格別。
パーシャは旺盛で異様な性欲をリードチカにぶつけている。パーシャは自分の快楽が全てなので「快楽」と「子供が生まれる」ということの関係が理解できない。そこでリードチカが妊娠するたびに大暴れ、胎児(赤子)を殺すことで自分の力を実感して喜んでいる。リードチカも毎回胎児(赤子)殺しにはうんざりしているけれど、パーシャの趣向を凝らした性行為には好奇心を持つので拒絶はしていない(ちょっと白痴気味…)
…えっとですね、序盤から気持ち悪い描写の積み重ねでしたけどね、それまでは行為者が大人で、被害者も大人ということが多かったから小説として読めたんだけどね、この二人の場合は被害者が胎児だから気持ち悪さの方向性がですね…orz。
リードチカは無茶な妊娠と堕胎の繰り返しとパーシャからの暴力が重なり、ついには瀕死の状態に。それをフョードルが「死にかけた女と性行為をし、その最中に女が死んだら、その女は完全に自分のものになるだろうか。フョードルが性行為をするのは半分死にかけた女ではなく、清められて体から抜け出そうとする清い魂と結びつくのではないか」と考えて寝室に忍び込む。フョードルとの行為の最中リードチカは死ぬ。警察はパーシャの虐待が死因として彼を逮捕する。だがパーシャにとって子供が存在しない牢獄は大変居心地の良い場所だったのだった。 なにこれ、本人としては幸せな場所を確保しちゃったの(-_-?
・ペーチャ(17歳)
食べるものは、自分の体中のできものや疥癬をかきむしったものだけというキモチワルさ( ̄_ ̄ ;) やがて自分自身を食べるようになり(›꒪⌓︎꒪‹)、死んだ。
・ミーラ(14歳)
言葉を話さず徘徊している少女。見えないとか聞こえないというわけではなくて、「見えているようで何も見ていない」ので喋らない。
❐客人 アンドレイ・ニキーチチ老人と息子のアレクセイ・クリストフォロフ
アンドレイ老人は人生の教師として愛に満ちたサークルの中心人物だった。死が近づき療養のためレジベノエにやってきたが自分の解く真理が死の恐怖に飲み込まれ、自分を死んだ鶏(屍鶏・しけい)だと思うようになる。愛と調和を説いてきた聖人が死んだ鶏になるって、高潔であろうという人間の表面的というか欺瞞な部分をおぞましく暴いているよね。しかし絵面としては「死にそうな老人が死んだ鶏になった」って想像がつくんだよなあ。しゃがんで、首を前に突き出して、正面だけを向いて、表情のない顔と瞬きしない目…って感じで想像ができるんだよ(^_^;)
❐道化たち
森で一種の出し物?として、動物たちの目を付き、生きたまま解体し、喉を噛み切り、生で食い荒らす行為をした。
リーダーはアナトーリー・パドフ(詳しくは以下「形而上派」にて)で、メンバーはずんぐりして人を見ると首を絞めたくなるプイリ、痩せたイオガン、青白く優雅さの下に灰色の死が見えるイーゴリ(イゴリョーク)。
❐形而上派
「この世界の限界を突破し、その外に出て、絶対的真理を認識しようとする。この世は誤って作られ、その基礎にはなにか病的で乱暴なものがある。進行や倫理では満たされない。そこで神が人間に明かさない真理を認識したいという思いがある。彼らは外面的には狂人と見えるが、実際には全く正常で論理的だ。」(解説P289より抜粋)
知的で聡明らしさもあり神経質で生とか死とか倫理とかを論じ詰めることによりいわゆる一般的な常識とはまったく外れた不道徳や不謹慎を突き詰めようとする。
後書きによると、ソ連時代の監視・不自由な社会で、作者マムレーエフの周りに集まった人たちがモデルだそうだ。
・アンナ・バルスカヤ(アーニャ):
「肉体なんて自分の中にある永遠のものが去った後には(要するに死んで魂が抜けた肉体は)ただの抜け殻、ようするにあの世の糞みたいなものなのよ、知らなかったの?」とか言ってみせる。
・アナトーリー・パドフ:
さっきまで道化たちのリーダーやってましたが、彼は考える人であって行為者ではないので彼らとは別れました。
真理を探求しようと、不道徳、下品、不合理な行為を重ねてゆく。本能的行為者であるフョードルやクラーワに興味を持つ。
・ゲンナジー・リョーミン:
地下詩人。「我」を愛するがあまりに「我教」の境地に到る。我を愛するというのは(ナルシストとは違って)神も他人もたどり着けない本当の自分、自分の中の真理と繋がる芯の部分、不滅で永遠の本質であり、絶対的な現実のこと。「我」に対するものは「私」。
・イズヴィッキー:
彼も「我教」を極めて自己愛の境地にたどり着き、我と芯につながって精神的性行為により恍惚として…という場面を書く著者がすごい(^_^;)
私は形而上派の唱える「我」を『攻殻機動隊』でいうところのゴーストのようなもんかと理解することにした(笑)。
❐他の人々
・イパチエヴナ婆さん
婆さんの家はフョードルの寝蔵の一つ。ボケて猫の生き血を飲むことが食事になっている( ´д`ll)。フョードルを歓迎して「お前は人々に大いなる喜びをもたらすんだよ!」とエール(?)を送る。
この「大いなる喜び」って結局何なのさ。(フョードルは人を殺して解放すること、と受け取ったようだ)
・墓堀人
自分が埋める死体はすべて自分自身だと思い込んでいる。
・ミヘイ老
フョードルが通りすがりの初老の男を殺そうとしたら、男はいきなりズボンと下着を下ろしてフョードルに見せつけた。
股ぐらには何もなかった。
「なんとなく、うんざりして、じぶんでちょん切った」んだそうだ(´д`)
そのイカれ具合がすっかり気に入ったフョードルは「彼こそ仲間!友!」と大喜びするが、ミヘイは性器をちょん切った以外はまともだったので、フョードルは彼から去る。
なお、この物語結末において、現世の人間としてのまともな生活を手に入れたのは彼だった(^_^;)
こんな人たちが、非常識でキモチワルいことを繰り返してゆくんだけど、小説としては作者が順を追って丁寧に説明してくれてるし、なぜ彼らがこんな行動をするのかという心情も書いてくれてるんですよ。読者としては理解や受け入れることはできなくても、「何を、なぜ、やったのか」は案外わかりやすいという不思議(笑)
そして形而上派に関してはは著者が「外面的には狂人だが、実際は清浄で論理的」というとおり、考えは独特だが行動は案外常識的っていうか、フョードルたちのように人や動物を殺してはいない。あくまでも考えで極地に辿り着こうとしている。
※※※以下結末ネタバレ※※※
人を殺し回っていたフョードルは、人を殺すたびに自分から逃げ出してしまう幻想をしっかり捕まえたいと思ってきた。殺した人たちがあの世で自分を迎えてくれるだろう。それだけのことを自分は彼らにしてやったのだから、という自分勝手な自信もある。
天然で人を殺していたフョードルは、知性で死をつかもうとする形而上派と出会って、彼らを殺してみたい、あいつらに現実の死を突きつけて嘲笑ってやりたいと思う。
この小説の結末は、そんなフョードルの本能的行動が、形而上派の理論に基づいた自己陶酔に飲み込まれたことになる。
…私としては、結局インテリが天然者に勝ったという感じでなんか面白くない(ーー;)んだが、作者は「怪物」を書きたいのではない、そして形而上派のモデルは、自由のないソ連で作者と論じあった仲間だもんねえ。
なお私が気に入った登場人物はフョードルの妹のクラーワなんですよ。フョードルや形而上派たちが理屈で辿り着こうとしている場所に、クラーワは自然にそこにいる。彼女も形而上派と出会って殺されかけたときに一瞬ぐらついたように見えたのですが、それも乗り越えた。その後は現実を天然の不条理・不合理の中に閉じ込めて「世界を飲み込むように巨大化」して、形而上派からも一目置かれるようになる。考えるよりも本能が強い。
…しかしそんな彼女も途中で出番終わっちゃったので読者としてはつまんないー。
また、個人的にちょっと気になってロシアの死刑制度を検索してみた。(ドストエフスキーでは「死刑宣告がなくてシベリア流刑」だったこと、最近のロシアニュースで「ロシアは死刑はない」と思っていたので)
ロシアは「1996年に欧州評議会への加盟にともない、死刑執行を停止した」ということ。この小説は196☓年ということなのでばっちり死刑実施されてた時期だったのですね。
小説の感想として。
一見不道徳で身体的心理的に汚い描写が多いが、作者は「なぜそれをして、その結果どうなったか」を書いているし、形而上派たちは頭脳で自分自身を突き詰めることで自分の地点に到達を目指す(悟りの境地っていうか)ので人も動物も殺さず、偽善者は暴かれ、発狂者は自滅し、殺人者は社会的罰を受けるという、倫理的な結末に至る常識的な作者の書いた文学だったのかもしれない。
❐読書会
・認知に先立って実存があるのか。認知の外側にも世界があることへの足掻き。登場人物はなぜこれほどまでにそれをおののくのか?
・言語的に考える形而上派、実践するフョードルたち。実践者は向き合っている?人間を殺さないと解けない謎と捉えて、自分も生きようとしている。
・アンドレイ老は本当に神を信じていなかったから屍鶏になっちゃったんだろう。
・ユーモラスなところがかなりあるよね。
・漫画みたい。
・スラブ語券文化で死んだご先祖が鶏になった描写があった。スラブ圏では死後と鶏関係ある?
⇒鶏はどっちかというと悪口。まぬけ、トサカ頭みたいな。キリスト教を信仰したニキーチチが鶏という馬鹿げたものになるという皮肉描写。
⇒『青い脂』にも「ニワトリが」という変な文章あったなあ。
⇒ロシア語で鶏は「クラ」だって。
作者のこと・翻訳者さんより
・監視体制の政権下で好きなことも書けず、ある意味職業作家ではない。
・『穴持たず』は誰に届くかわからない同人誌のようなもの(?) タイプライターでこっそり写したり、朗読のテープを回したり、アングラ作品。
・内容はぶっ飛んでいるようだが、当時の雰囲気は出ている。ロシアは官僚社会。でもヴォッカ渡しておけばなんとかなったり、表面取り繕っとけばなんとかなる。
・短編だともっとオカルティックな不条理性、哲学者でもある。
・マムレーエフはけっこう常識的。サークル活動好き。形而上派のようなことをやっていたんだろう。部屋に集まってヴォッカあおりながら論議とか。しまいにはトランス状態になるという実地でオカルトやってる(笑)
⇒私が「常識的な作者なのかな?」と感じたのは、その通りでした。
・マムレーエフは不条理ギャグ作家のような感じ。
・思想家、哲学家でもあり、「我教」を論じたような哲学書もある。
・ソ連は個性が許されなかったので、マムレーエフの「個」への拘りが怪物的なものとして顕れている。
⇒納得!!
・マムレーエフは、愛国的作家からも、アングラ作家からも尊敬された。ロシアのプーチンからもメッセージ送られた!?マムレーエフのサークルメンバーがプーチンの官僚やってたり。
・一時期亡命してアメリカやフランスにいたが、ロシアに戻った。戻ってからは愛国作家になってる。しかし愛国といっても、戦争推奨ではなく、精神の話をする。※マムレーエフは2015年死去。
・日本ではマムレーエフ、ソローキンはそれなりに需要がある?(多いわけではない)
・ソローキンは職業作家、マムレーエフはアマチュアっぽいところもある(出版できなかったから)
⇒納得!!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「ここへ、私のところへ来て・・・・・ここにはロシア的な、昔ながらの、民衆的で昏い蒙昧主義があって、それが私たちの「知識人的」神秘主義と混ざり合うことを発見したの・・・・・それは偉大なジンテーゼとなるでしょう・・・・・もう長らく待たれていたものよ・・・・ここへ、闇の中へ来て、見かけという厚かましい煙から離れて」
じぶんが普段まるで考えもしないようなところへと誘われ、口説かれたようなここち。その哲学に、恍惚となりながらもすべてを笑えてしまうじぶんもいる。それはわたしがこの世界に飼い馴らされてしまっているからなのだと、読み終わったあとに気がついた。毎分毎秒、じぶんじしんを愛するどころか、殺している。わたしのなかでの平穏をえるために。
人間の魂をとらえたいフョードル。人間を識る、すなわち、自分自身との邂逅のため、あるいは魂の解放の天使。ただひたすらに、「平安」をねがう、無垢なもの、聖痴愚(ユロージヴイ)。形而上的自由の限界をめぐり、彼岸遊泳をはじめる。
いっぽう「形而上派」は探究する。現代の神の代替、悪魔主義、世界の秩序を壊してやりたいというような欲求。魂の不死にしがみつくものたち。わたしたちを支配する、わたしたちの裡にある、認識不可能なもの。極端な独我論。その外的現象にすぎないかもしれないわたしたち。不条理の壁をこえ、宗教的な大変革を夢みている。万物のすべてを正しく識ろうとこころみる。ブラフマンを。でも、なんのために?
"世界の秩序に自己を対峙させる"。
わたしたちはみな、この世をさびしく彷徨う、「穴持たずども」。物質主義に傾倒し、それに気がつかないでいられるのなら、それはとても幸せであるのかもしれない。
「けれども死と、死を取り巻くすべては、相変わらず彼の魂に君臨していた。もっと正確に言えば、死こそが彼の魂だったのだ。」
「この殺人の目的は、人間および全人類を己の意識から完全に排除し、他者存在の観念自体をも空虚にすることだった・・・・・」
「興味があるのは屍じゃなくて、屍の生。そういうわけさ」
「私たちは、より正確には私たちの中にある永遠なるものは、異界へと旅立ち、屍は屑としてここに残るの・・・・・死っていうのは糞の排泄で、私たちの体は糞になるの・・・・・おわかり・・・・」
「いい子でおとなしくしていたら、不幸がよけて通ってくれて、みんなが頭を撫でてくれて、そして全世界が愛すべき従順なものになるとでも思ってるんだわ。ボクちゃんがこんなにいい子だから、犬もみんな吠えなくなる。そして、死その物がえんえん泣きだすって」
「アンナが属している世界では、生と形而上学はおなじことを意味していた。生きるとは、目に見える生活に己の彼岸性を浸透させることを意味した。」
「この奇妙な人々に証明してやりたかった。死や、不条理な機械、あるいはネジの外れた脳味噌などが木の葉のように舞い落ちるこの形而上的混沌の真っ只中にあって、神への堅い信仰は依然として人間の唯一の砦であるということを。」
「神の概念自体はもはや所与で、あらゆる人間的なものから疎外された極限的な探求を、超越的なものにおける探求を妨げる・・・・・おまけに私は、世界を、独立した怪物的で彼岸的な力の戯れだと感じてるの・・・・・私の世界認識にとって神はとても質素だわ・・・・・私たちには、超神秘が、自由が、さらには形而上的たわ言さえもが必要なの」
「実際、人生でいちばん憎むべきものは幸福じゃありませんか?・・・・人々は反幸福キャンペーンを宣言すべきですよ・・・・・そうすれば、彼らは新たな世界を目にすることになる・・・・・・」
「彼女の世界は不合理だ、不条理だ。でも、それと同時に、まさに己の不条理によって守られ、自足し、堅固なのであって、彼女は現実を不条理の中に閉じ込めたんだ。どんな異質な風もそこに吹き込むことはない。わが世界はわが砦なりだ」
「だが、それでもわれわれは、われわれの我を、その不死を、世界に対する勝利を信じている」
「超越的で限界を超えた存在としての至高我は人間的存在の圏外にある」
◎マムレーエフのインタヴューより
「ですが、いかなる方法によってこの社会で安定を得ることができるでしょうか?第一それは、精神生活全般への絶対的な無関心と、俗物的な生活への完全な没入のもとで得られるでしょう。それは無神論ですらなく、精神生活、さらには死や不死に対する単なる無関心なのです。それは大衆的性格を持つことがありますが、無論、ある種の安定を保証してはくれます」
-
なんとか文字を追い通した。日本語の意味として素直に入ってきたのは「訳者あとがき」だけなので、読んだと言っていいものかどうか。形容詞、名詞、接続詞の組み合わせがわたしの文章予測を常に外してくるので、文字を追うのにエネルギーが必要だったし、ずらずら並ぶ抽象概念がつまりどういうことなのかわからず苦労した。2割くらいしかわからなかった気がする。
なんというか、登場人物たちは「これが生きるってことなの? ほんとうに?」と自分の頬をつねるべきところで、人間をやめたり人を殺したりしているようだった。それくらい「生きる」がしっくりこないなんていうことがあるんですかね? あるのかもしれないな、と感じはしたので、ほんのぽっちりでも本書の成分を受け取ったということにしたい。 -
-
2024/08/22
-
淳水堂さん
こんにちは。
訳者の話きかれたんですね。よいなー。
後日、名古屋で編集者さんにはなしを聞かれた方と偶然話ができました。音楽と翻...淳水堂さん
こんにちは。
訳者の話きかれたんですね。よいなー。
後日、名古屋で編集者さんにはなしを聞かれた方と偶然話ができました。音楽と翻訳のイベントがあったそうです。2024/08/30
-
-
読売新聞の書評で読んだからか、なぜだか理由は不明ですが図書館に予約してあったらしく、到着したので読みました。
いやー、苦労しました。出てくるのは狂人というか常軌を逸した人ばかり。それどころか小説で起こる出来事も不条理なことばかり。登場人物が狂人なのか、著書マムレーエフがおかしいのか、それともそのおかしな本を読み続ける自分がおかしいのか、読んでいて意識が紙面から離れてしまうのを何とか踏みとどまり、1週間ほどで読み終えました。読んだからと言って十分理解できたとは決して思えません。この作品は著書著者マムレーエフの実体験をもとに書かれたようなのですが、社会主義革命が成ってロシア宗教と断絶され、同時に東西の哲学や思想が流入してきた当時のロシアの知識人の奮闘と狼狽がないまぜになり、さりとて生活は貧しく、かといって生活を改善する見込みがないインテリゲンチャたちの阿鼻叫喚のような小説でした。
小説中に見られる形而上学的なレトリックが秀逸でした。 -
【本学OPACへのリンク☟】
https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/713398 -
書くこと、読むことで何らかを意識させたいならあるいは成功しているのかもしれない。
ただ、自分が求める小説の面白さとはかけ離れていたので、そういう世界もあるのかなぁ程度の感想に終わってしまった。
松下隆志の作品





