- Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784562057207
作品紹介・あらすじ
いかにして古代からの言葉が消えていくのか。パプアニューギニアの村ガプンの人々と寝食を共にし、ネイティブ原語を30年間にわたって調査してきた言語人類学者によるルポルタージュ。西欧文明が村から奪っていったものは。
感想・レビュー・書評
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前半は声を出して笑うぐらい、軽妙なエピソードがたくさんあって楽しかった。
後半は、様相が若干変わって…
この本はぜひ最後まで(最期まで?)読んでほしい。
最期の総括は重い。
消えゆく言葉は、言葉では表現できない力を持っていると感じた。
この著者の次のフィールドワークの地は「日本」なのだとか。
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言語の消滅は強制されるものではなく、自ら言語を捨てることから始まることもあると知ってショックを受けた。
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以前、故・千野栄一先生の言語学の講演を聴いたとき、世界にわかっていない言語はほとんどなくなってきた、残っているのはニューギニアだ、とおっしゃっていた。この本で調査対象となっているタヤップはまさにそうした言語だ。
しかし言語に関する記述はさほど多くなく、主に言語調査をする過程での筆者と村の人々との「あれこれ」が描かれている。(言語に関する研究は、別に博士論文として完成されている)
これが実におもしろかった。ところどころに、村の人々との別れがたい感情のつながり(いわゆる涙腺崩壊的な)が垣間見えるものの、おおむね非常に冷静で客観的な研究者の目でできごとを(自分自身も含めて)詳細に描いている。読んでいるうちに、だんだん村の様子を自分で見てきたような気持ちにさえなった。
言語が消えるのは残念だ。しかし残念だというのは、当事者である村の人に対する傲慢ではないのか。言語が消えれば、泣いても悔やんでも取り返せないが、当事者は泣いてもいないし悔やんでもいない。
パプアニューギニアの文化が考えるように、これは「自分たちの外にある何か大きな力によって動かされた」結果なのだ。 -
「言葉がどのように消えるのか」を調べるために、人類学者である著者が選んだのはパプアニューギニアにあるガプンという小さな村だった。著者は1985年から2014年まで7回、延べ3年間をこの村で過ごし、村の言葉であるタヤップ語が消えゆく様を目の当たりにした。
パプアニューギニアの公用語であるトク・ピシンがガプン村に入ってきたのは20世紀に入ってからのことだ。現在ではタヤップ語は廃れ、村人の多くはトク・ピシンを話す。
著者は時系列で3つの要因を示している。①20世紀の初頭、プランテーションから戻った出稼ぎ労働者が村人にトク・ピシンの基本を教えた。基本を学んだ村人がプランテーション労働に従事しながらトク・ピシンに磨きをかけ、帰村後に若者へトク・ピシンを広めた。②第二次大戦中、日本軍が村人を暴力的に熱帯雨林へ追い立て、トク・ピシンを話せない高齢者が大勢死んだ。その結果、トク・ピシンを流暢に話す人々の割合が一気に増えた。③戦後、キリスト教の宣教師たちが村や周辺地域へやって来て、キリストの教えをトク・ピシンで伝えた。村人はキリスト教に改宗した。
流暢なトク・ピシン話者はお互いの意思疎通のためだけでなく、子供に語り掛けるのにもトク・ピシンを使った。著者が初めてガプン村を訪れた1980年代半ばには、タヤップ語を母語としない最初の世代が育ちつつあった。タヤップ語は「1980年代に突然、そして決定的に終わりを迎えた」。
とはいえ、そうした非ネイティブの若者もタヤップ語の会話を聞いて完全に理解することができる。話す能力には個人差があるものの、きわめて流暢に操れる若者もいる。著者が驚いたのは、タヤップ語の運用能力がどれほど高くても人前ではタヤップ語を使わないという事実だった。
こうした「消極的能動的バイリンガル」がタヤップ語を話さない理由は2つある。①タヤップ語が乳幼児のわがままな頑固さ、女の短期さ、先祖の古臭くて野蛮な生き方といったネガティブなイメージと結びついている。②若者がタヤップ語を少しでも間違えると年長者が必ず批判するため、若者はタヤップ語を話して「恥をかきたくない」と考えている。理由がどうあれ、人前で話されず、親が教えることもないタヤップ語はいずれ消えてしまう。
隣接する村がそれぞれ自分たちの言葉を持つというパプアニューギニアの状況を目の当たりにして、言語学者はこう結論づけた。彼らは「近隣の人々と異なる存在でありたい」と願い、異なる言語を使うことで自己を他者と区別したのだ、と。それが正しいならば、タヤップ語を失ったガプンの村人は「ガプン人」としての標識を1つ失うことになる。
このことはガプン人、あるいはガプンに固有の文化や伝統の消え始めを示す不吉な兆しのようにも見える。実際、言語の喪失は文化の喪失につながる、と一般的には考えられがちだ。例えば植民地政策として現地人に宗主国の言葉を話すよう強いるのはそのためである。しかしガプン村では、タヤップ語の消滅によってガプンの文化が大きく変容していったのではなく、順番は逆なのだと著者は言う。
(プランテーション、日本軍、キリスト教など)外的要因が何であれ、タヤップ語の消滅はガプンの人々が「話さない」ことを選んだ結果である。言語消滅は社会現象なのであり、絶滅危惧言語は絶滅危惧種とは違うという著者の指摘には目を啓かされる。
本書は学術書ではなく、言語消滅についてのルポルタージュである。いや、「言語消滅についての」というのは正しくない。タヤップ語の文法についての説明や、「言葉がどのように消えるのか」という問いに対する著者の考え(答え)が色んな所に登場するものの、多くは現地での生活やガプンの人びととのやり取りがつづられている。ガプン村と西洋の食文化の違いを披歴したエピソードには腹を抱えたし、若者たちのラブレターは世界中どこでも似たようなものなのだなと親しみを覚えた。
著者は、ガプン人たちとの違いを知ることが自分を高めてくれるという考え方を傲慢だと指摘しながらも、ガプン人たちから学んだことを本書で披露してくれている。そして我々が本書から学べることは多い。 -
言語は、どのように消えるのか。
その過程を“代弁”するため、パプアニューギニアにあるガプンで、30年以上にわたって村人と“関わり合った”文化・言語人類学者によるノンフィクション。
グローバリズムが、熱帯雨林の奥深くにある小さな村に、どのように届き、彼ら独自の文化を“席巻”していくのかが、文化的ギャップからくるコミカルな話題もはさみつつ、体感できる。
それにしても、これほど書評が両極端な本も、珍しい気がする。
それは、白人vsガプン人、英語やトク・ピシンvsタヤップ語、キリスト教vs土着信仰、“死人”vs生者など、前者に所属していながら後者に“無害”であろうとした、著者の立ち位置によるものだ、と私は思う。
だから、私はこの本が好きだ。 -
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