ユング心理学入門

著者 :
  • 培風館
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  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784563055110

感想・レビュー・書評

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  • この本のおかげで考え方がだいぶ楽になった。

    なんでかわからないけど、心に葛藤があるとき。
    その、なんで?の部分が自分なりに考えられるようになった。

    それによって実践的な解決策を見つけたし、自分の考え方で救われることもあった。
    人の気持ちも少し汲み取れるようになったし、理不尽なことに腹を立てなくなった。

    心理学にはド素人の無知な私がさらりと読めたのだから、幅広い人が読めるはずと思ってます!

  • この本は、凄い。実例も豊富でどこも示唆的。ユング心理学体系。

    ・まず、タイプを分けることは、ある個人の人格に接近するための方向づけを与える座標軸の設定であり、個人を分類するための分類箱を設定するものではないことを強調したい。類型論を初めて読んだようなひとがおかしやすい誤りは、後者のような考えにとらわれてしまって、すぐに人間をA型とかB型とかにきめつけてしまうことである。こうなると個々の人間は分類箱にピンでとめられた昆虫の標本のように動きを失ってしまって、少なくともわれわれ心理療法家にとっては役立たないものとなってしまう。

    ・あるひとの関心や興味が外界の事物はひとに向けられ、それらとの関係や依存によって特徴づけられているとき、それを外向的と呼び、この逆に、そのひとの関心が内界の主観的要因に重きをおいているときは、内向的といい、両者を区別した。ユングの言葉を借りると、次のとおりである。
    世の中には、ある場合に反応する際に、口には出さないけれど『否』といっているかのように、まず少し身を引いて、そのあとでようやく反応するような一群のひとびとがあり、また、同じ場面において、自分の行動は明らかに正しいと確信しきって見え、ただちに進み出て反応してゆくような群に属するひとびとがある。

    ・二つの一般的態度とは別に、各個人はおのおの最も得意とする心理機能をもっているとユングは考えた。
    …たとえば、一つの灰皿を見ても、これが瀬戸物という部類に属こと、そして、その属性の割れやすさなどについて考える思考機能(thinking)、その灰皿が感じがいいとか悪いとかを決める感情機能(feeling)、その灰皿の形や色などを的確に把握する感覚機能(sensation)、あるいは灰皿を見たとたん、幾何の円に関する問題の解答を思いつくような、そのものの属性を超えた可能性をもたらす直感機能(intuition)である。
    …これら四つの機能のうち、思考と感情、感覚と直感は対立関係にある。つまり、思考機能の発達しているひとは感情機能が未発達であり、逆に感情機能が発達しているひとは思考機能が発達していないという関係にある。ここで、劣等機能(比較して未発達な側)とは未分化なものを指すのであって、’弱い’ものをいうのではないことに注意すべきである。むしろ劣等機能は未分化ではあるが強いとさえいいうる。

    ・感覚と直感は、まず何かを自分の内に取り入れる機能であるのに対し、思考と感情は、それらを基にして何らかの判断をくださう機能であるとも考えられる。
    …思考型や感情型のひとは、自分の思考体系や、感情の体系を強く持ちすぎているために、現実をそのまま認識できなかったり、困難を感じたりする。このひとたちの発する典型的な質問は、「どうして、そんなことをうまく思いついたのか」とおか「そんな馬鹿げたことがどうして起こりうるか」といかである。そして、直感型のひとや感覚型のひとの答えは簡単である。「ともかく思いついたのだから」、「ともかく起こったのだから」しかたないのである。

    ・外向的感情型のひとは、自分の気持ちに従ってそのまま生きているが、それは環境の要求するところと非常によく一致しているので、スムーズに行動してゆくことができる。…しかしあまりにも外向的になると、客体のもつ意義が強くなりすぎ、主体性を失い、感情の最大の魅力である個性がなくなってしまう。…客体の意義が強くなりすぎると、それを引き下ろすために、今まで抑圧されていた未分化な思考機能が頭を持ち上げてくる。「宗教は阿片にすぎない」とか「妻とは性生活を伴う女中にすぎない」とかの言葉によって、今までの価値を踏みにじるのである。

    ・直感型のひとが、その結論を推論や事物の観察によって得られたように思いこんでいる場合も多い。しかし、その説明をよく訊くと、先行した正しい結論に未分化な思考や観察があとでかぶせられているにすぎないことがわかる。筆者は、かつて典型的な直感型のひとがあるひとの話しを聞き、「あなたのいうことはよく理解できないが、ともかく全面的に賛成です」というのに出合ったことがある。…感覚が事実性を追求しようとするのに対し、直感は可能性に注目するものである。

    ・考えてみると、自分にとって親しい場所(家族や仲間の集まり)は、自分の劣等機能発展のための練習をする適切な場所となっていることがわかる。この場面で、たんなる無意識からの反応として劣等機能を暴走させるばかりでなく、それらを正面から取り上げて生きてゆくことに心がけると、少しづつではあるが発展の道を歩むことができるだろう。たんなる反応のくり返しは、発展につながらないのである。

    ・コンプレックスとの対決といっても、治療者にとってまず大切なことは、この子供が治療場面で自由に行動できる状況を作ってやることである。遊戯療法の根本は、治療者がクライエントに対して、クライエントのいかなる表現をも受け入れてゆく態度で接することである。

    ・これらの行動を今まで抑えられていたものを発散するとのみ考えるのは間違っている。たしかに、抑えている感情をたんに発散するだけでも硬派はあるが、この場合、このような表出が治療者という一人の人間を愛下としてなされること、治療者がその表出の意義について知り、それを受容することは非常に大きい意味をもっている。ここに治療者の存在によって、クライエントは自分のコンプレックスをたんに発散させるだけにとどまらず、それを経験し、自我のなかに取り入れることができるのである。

    ・コンプレックスというと、あくまで自分の心の内部の問題と思ってしまい、それがいかに外的なものと対応し、外的に生きることが内的な発展といかに呼応するかということが忘れられがちであるので、それを強調したのである。

    ・そして、結局は父親が精神病であるので、それが級友に知れるのが嫌さに学校へ行かないのだと打ち明ける。さて、この場合、父親が精神病であることが、この少年が学校へ行かなくなった’本当の’原因であるというべきであろうか。確かに、父親の精神病はつい事実である。しかし、そのために学校へ行かないというのは、少し反応が強すぎると感じられないだろうか。このような場合、ユングは「すべての心的な反応は、それを呼び起こした原因と不釣り合いの場合には、それが、それと同時に何らかの原型によっても決定づけられていないかを探求すべきである」と述べている。

    ・ユングは、そのとき空高く昇っていた太陽を指さして、「太陽がここにいるときは神様じゃないというが、東の方にいるときは、君らは神様だという」と、さらに追求すると、皆はまったく困ってしまう。やがて、老酋長が、「あの上にいる太陽が神様でないことは本当だ。しかし、太陽が昇るとき、それが神様だ」と説明する。つまり、彼らにとっては、朝になって太陽が昇る現象と、それによって彼らの心の内部にひき起こされる感動とは不可分のものであり、彼らには、その感動と昇る太陽とは区別されることなく、神として体験される。

    ・黒と白の二人のイブの例はあまりに劇的なものであるが、このような事実が、文学作品として描かれている素晴らしい例としては、スチブンソンの『ジキルとハイド』や、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』などをあげることができる。…これらの一見、非現実的に見える物語が、多くのひとの心を打つのも、結局は、これらがわれわれ人間の心の内的現実を見事に拡大して、明確にとらえてみせてくれたからにほかならない。

    ・一国のひとすべてが鬼に等しいなどという単純な現象は起こりようもないが、この単純な考えを、一国のほとんどのひとが信じるという現象が、しばしば起こるという事実を認識することは大切なことである。内部にあるはずの悪を他にあるように信じることは、何と便利なことか。

    ・もし筆者が夢の分析に頼ることなく、「あなたは思考が優れているが、感情の面がおろそかにされているので、その点を伸ばすようにするほうが良い」と忠告なり、指摘なりをすると、どうであろうか。…心理療法家が目指すところは、そのような欠点を知的に理解することではなく、心にとどくものとして体験し、把握してゆくことである。実際、このひとにとっては、感情や思考などという言葉を弄するよりも、夢の中で、「持ち札にハートが一枚もなかった」ということ、その心象から直接に得られるもののほうが、はるかに豊かであり、また心にまで響くのである。

    ・7歳11ヶ月の男児であるが、発達年齢は1歳9ヶ月で非常に低い。もちろん他の子供と遊んだりはできないので、自宅にこもりきりのような生活を続けていた。さて、この子供に遊戯療法を続けているうち、第七回のときに治療者にとって心を打たれる事柄が起こったのである。それは、この子が遊戯療法の場面で、熊のぬいぐるみを綱でくくり、それを連れて歩いた後に、誇らしげにその綱を解くという遊びを繰り返したのである。
    治療者はそのとき、その意味については明確にわからなかったが、その行為になんとなく胸を打たれ、印象に残る。そこで、治療後にそのことをその子の母親と話し合いを続けているカウンセラーに告げると、次のようなことが分かった。
    最近、その家にどこからともなく犬が迷い込んで、その子供が喜んで飼っていたそうである。ところが母親が外出して帰ってくると、犬がいなくなっている。犬がいないので探さねばというと、留守番をしていた精神薄弱のその子が、探さなくてもいいという。不思議に思ったが、あとでわかってきたのは、その犬は近所の犬が迷い込んできたもので、その飼主のひとがとうとう探しあてて、返して欲しいといってこられた。そのとき留守番をしていたこの子供はその話を理解し、非常に可愛がっていた犬を自ら連れてゆき、首の鎖を泣きながら解いて返してきたという。
    …さて、それほどの大きい仕事をした子供は、治療場面でそれを再現し、治療者にも伝えようとしたと考えられるが、はたしてこの遊びはそれだけの意味しか持たないものだろうか。筆者としては、そのような意味のみならず、そこに非常に重要な主題である「緊縛を解く」ということが、生き生きとあらわされていると考えるのである。そこでちょうどその頃にこの子の「緊縛が解かれる」ようなことが起こったのではなかったかと尋ねると、この治療者のいわれるのには、実はこのような知能の遅れた子供なので、お母さんもなるたけ外に出さないように、家に閉じ込めておくような感じで育てておられた。ところが治療に通って来られるうちに、だんだんと考えも変わり、また子供自身の成長とも相まって、以前よりもこの子供が家の外に行ったりするのを制限されなくなって、子供が喜んで外のひとと接触を持ち始めたのがちょうどこの頃であったとのことであった。
    …この遊びをこの子供の心の内部に生じた心象の表現としてみるとき、それは何よりも閉じられた家より自由に解放された、緊縛を解かれたとの意味が非常に強いと思われる。そして、心象の多義性という点からいっても、このことのみでなく、可愛がっていた犬を返した悲しみや、近所のひとと対等に応対し、悲しい気持ちを抑えて犬を返した満足感、それらすべてのものがこの遊びに集約的に表現されていたものとみるべきである。
    だからこそ、この治療者のひとが他の遊びと違って、何か胸を打たれるものを感じ、強い印象を受けたものと思われる。

    ・この女性は従妹がお産をしたのでそこに手伝いに行ってきた経験を話す。自分の悩みのほうはあまり話さずに、従妹がもう子供はできないとあきらめかかっていたのに、赤ちゃんができて大変喜んでいること。自分も手伝いに行って、赤ちゃんの世話をして可愛く思ったことなどを話すのである。そして、この従妹の性格についていろいろと話をし、自分は今まで節約するのが美徳だというように思っていたが、この従妹は案外平気でお金を使う。しかし、好きなものを好きな時に思い切って買って喜んでいるのを見ると、ときに浪費するのもいいものだなと感じたことなどを熱心に話す。これもただたんに、表面的にのみ聞いていると、このひとは従妹のことばかり話して、自分の問題を何も話していないように思えるかもしれない。自分の悩みについて直接語るのをさけて、他のことばかり話しているとさえ思えるのである。しかし、ここで、この話を心象の表現として考えてみると、この従妹がこの女性の影であることに気づくのである(もちろん、ここにこのように簡単に述べただけではわかりにくいかもしれぬが、この女性の話すところを詳細に聞くとよけいこの点がはっきりする)。
    …たとえば、今の場合、従妹のところに子供が生まれたという事実によって、このクライエントの影の部分に新しい可能性が生じてきたことが示されている、あるいは、従妹に赤ちゃんができたので、このひとに新しい可能性が生じてきたなどというのは、まったく馬鹿げたことである。そのような推論ができるというのではなく、このクライエントの外的事象を語っていることのなかに、内的な世界をも呼応して述べられているという見方も成立するということである。
    このように考えると、治療者は、このような場合には非常に診療に言葉を選んで話をせねばならぬことが分かる。「新しいもの、赤ちゃんが生まれ出てくるはずがないと思っていたところに、新しいものが生まれてきた」といっていいかもしれない。「浪費ぐせのあるひとでも、新しいものを生み出す可能性があることが分かった」というかもしれない。ともかく大切なことは、外的事実を聞いていて治療者の心に浮かんだことを、生のままの形で表現するのではなく、内的世界の表現とも、外的事象の描写ともとれる両者の間の中間的な表現を見出してゆく。そして、クライエントがそれに対して応答する限りにおいて、治療者もその表現を深めてゆくことが大切である。

    ・≪夢≫大きい家、それはホテルのようであった。多くのひとがその中に住んでいた。一人の男が殺され、その殺害者がまただれかに殺され、これが数度続いた。私は自分の部屋から窓の外をみると、道のところまで川が溢れ家のまわりを流れていた。私は誰が最後の殺害者であるかを知っており、それを私の部屋にいた見知らぬ男に告げた。これを告げながら、卒然として悲しくなり、私は泣き叫びだす。そしてその男に、「私たちは何も知らなかったことにしよう。」と申し入れる。すると、その男は、私が殺害者を責める気がないのなら、どうして殺害者が誰であるかを喋ってしまったのか、もういまさら知らないことにしようといっても始まらない、という。私は殺害者が恐いのだといい、話し合いを続けているうちに、最後の殺害者は自分の刀で自殺してしまう。

    読者の方は、まず何よりもこの夢の劇的な凄まじさを感じられたことと思う。この夢をみた女性は典型的な思考タイプで、何かのときに筆者が、「それでどんなふうに感じられましたか」と尋ねたら、「わかりません、私は考えられるけれど、感じられないのです」と答えたことがあるほどのひとである。

    ・たとえば、電話について連想をきくと、「電話代が高くついて困る」と答えられたとき、「何か高くついて困るということで、思い浮かぶことはありませんか」といったふうに、連想の鎖を追うのではなく、電話代が高くつくとのことに対して、「電話について、もっとほかにも思いつくことはありませんか」とくり返し尋ねてゆくのである。連想が思い浮かばないときは、「電話とはどんなものか、電話を知らないひとに説明するとしたら、どんなようにいわれますか」と尋ねたりする。
    ここに自由連想を排して、一つのことを中心として連想を尋ねることは次のような理由によっている。すなわち、自由連想をさせて、鎖をたどってゆくと、これは何らかのコンプレックスに到達する。実際、この連想の方法がコンプレックスの解明に役立つことは、ユングも連想実験によってよく知っている。しかし、このような方法でコンプレックスを解明するのならば、何も夢を材料にする必要はなく、新聞の記事からでも何からでもできることである。すなわち、このような方法をとると、コンプレックスの分析にはなるが、’夢の分析’にはならないのである。

    ・ある母親がその6歳の男の子のことについて相談に来られた。その男の子が最近になって、死の事について質問をするので困るというのが、その相談の内容だった。家庭は幸福で病人もいないし、最近、知人で死んだひともなかった。しかし、その坊やは、自分が大きくなったときのことを考えているうちに、もし自分が80歳くらいになると、お父さんとお母さんはどうなるかと考え始めたらしい。このことは必然的に、死の問題につながり、人間は死ぬとどうなるのかということにもなった。このむずかしい質問に対して、母親は、地獄や極楽の話しをする気にもなれず、さりとて、キリストの復活について語ることもできなかった。このような場合、母親自身が’信じている’宗教があると、それによって答えることが、いちばん良い解決策であろう。しかし、今の場合、それがないとすると、残された方法としてはただ一つである。私は、この母親に、その坊やが話をしたい限り、その話しを一生懸命にきいてやり、慎重に観察を続けるようにすること、こちらからよけいなことを教えず、子供の体験を分かち合うようにすることが大切であるといった。
    …解決はほどなく、この男の子の内部からやって来た。あるとき、この坊やは生き生きと目を輝かして、「お母さん、とうとうよいことを思いついた」とやってきた。「僕が死んでも、もう一度お母さんのお腹のなかに入って、また生まれてくるとよい」と、この子は話し、これで、すっかり死の話しをしなくなったという。
    …自分が老人になったとは両親はどうなるかと考え、死の問題を考えたほどの論理的な思考のできる子供が、解決として得たものが、合理的な観点からはまったく馬鹿げたものである点に注意していただきたい。「死んでから母親のお腹に入る」ということは、まさに心象として重要な意義をもつものであって、死に対する合理的な回答ではない。

    ・あるひとはその影に気づいて、それを統合しようとしたことを述べ、あるいは、男性的なペルソナをもったひとがアニマに直面することを述べたが、これらはすべて、自己実現の過程の一部ということができる。そして、その際における危険性について、読者の方は悟っていただけると思う。実際、自己実現のためには、今まで自分が絶対によしとしていたこともすて去らねばならぬときさえあり、ユングが、「すべて良いものは高くつくが、人格の発展ということは、最も高価なものである」と述べているのも、うなずけることである。

    ・「意味のある偶然の一致」を、ユングは重要視して、これを因果律によらぬ一種の規律と考え、火因果的な原則として、同時性の原理なるものを考えた。つまり、自然現象には因果律によって把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがあり、後者を把握するものとして、同時性(シンクロニシティー)ということを考えたのである。
    …しかし、このような同時性の現象を因果律によって説明しようとすると、それはただちに偽科学(魔術)に陥る。死ぬ夢を見た’から’死んだとか、祈ってもらった’から’よくなった、などと説明する考え方である。
    …同時性の原理に従って事象をみるときは、何が何の原因であるか、という点にではなく、何と何が共に起こり、それはどのような意味によって結合しているかという点が重視されてくる。後者のようなものの見方は、実のところ、中国人の非常に得意とするところで、易経などは、そのような知識に満ちた本であるということができる。事象を因果の鎖によって時間系列のなかに並べるのではなく、事象全体をとらえて、その全般的な「相」を見出そうとするのである。
    中国に古くから文明が栄えながら、自然科学が発達しなかった理由として、中国人(東洋人)の考え方が非論理的であると述べるひともあるがそのようなことはなく、中国人(東洋人)も十分に論理的であると筆者は思う。論理的であるが、このように事象に対する態度が根本的に異なっており、ことなめ西洋に自然科学が発達したが、中国では発達しなかったとみることができる。そして、相を相として非因果律的に把握することは難しいので、このようにして知った相の知識を因果的に説明し始めるや否や、それは、いわゆる迷信となり果てて、自然科学の発達をますます妨害することともなったと考えられる。西洋においては、自然科学が発達するが、これは一面豊かな「相」の知恵を抑圧すること、ひいては、自我が心の深部に存在する自己(セルフ)との接触を失うほどの危険をもたらすことになって、現代の西洋において、「人間疎外」の問題が大きく取り上げられねばならなくなったともいうことができる。

  • カウンセリングを受けているような気持ちになる素晴らしい本

    河合がスイスのユング研究所から戻り、京大で行った授業をもとに出版したもの。

    さすがに抽象的な専門用語がでてくるところは難しいが、クライエントの事例、夢分析などの具体的な話になると俄然分かりやすく、自分に置き換えて身につまされたりする。まるで心理療法家のカウンセリングを受けているような気持ちになる。

    心理の専門家に聞くと皆「素晴らしい本で、何度も読み返す」という。

  • あくまで、河合隼雄という人物の色眼鏡を通して記述された入門書。しかし、Jungのエッセンスを見事に同化させ昇華させた本書は、その独自性にこそ価値がある。入門書としては、やや不適切ではあるが、日本という文化を加味しつつ記述された和製Jungである。

  • まだ途中。
    これは一気に読めない。
    確かに物凄く良い本であるのには間違いないが、正直ついこの間までパニック障害やら鬱やら嘔吐恐怖症で病んでいた自分にはきつい。
    心の問題について根本から考えることは、やっと断ち切れた心の問題とまた対峙するような感じがして辛くなってくる。
    別にそれらしいことは書いてないのだけど、どうも駄目だ。
    気が向いたときにでもちょっと読むくらいにしよう・・・しんどかった。
    でもコンプレックスと向き合わなくてはいけないと書いてあるんだよな。。。
    辛くなってくるということは心の問題を抑制しているだけであって、心の奥に消化されずに残っているという事か・・・。
    うーん・・・

  • 教科書です・・・
    いい本なんでしょうけど初めてユング心理学を勉強しようと思っているならこの本は辞めたほうがいいです。
    2、3冊読んで、馴れてきた頃戻ってきて読むと、すごくよく分かります

  • ▼福岡県立大学附属図書館の所蔵はこちらです
    https://library.fukuoka-pu.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=111857

  • 心には意識・無意識の領域があり、本人の性別によってアニマ・アニムスと呼ばれる心像があるということはなんとなく理解できる。西洋と東洋で心の構造が違うというのもわからなくはないが、その理由は先天性・後天性どっちなんだろう。それにしても、今考えている「自分」はどうして生じたものなんだろうか。

  • 東大京大教授が薦めるリスト100選抜

    No.54

  • 19世紀~20世紀(特に初頭~前半)の、特にヨーロッパ諸国の文学作品を深度をもたせつつ読解するにあたり、多くを助けられた本です。
    モダンに限らずモダン以降の社会事象を読み解くバックグラウンドのひとつとして、必須なのではないでしょうか。

    このユング心理学に限らずその他哲学にしても、中学生ぐらいから選択授業等に取り入れてはどうかと思う。直接的な受験科目でなくても、現代文や英語長文で高得点を取るためには、必要な教養のひとつにはなってはいるだろうが、思想の礎になるので10代のうちに出会ってないと勿体無い。

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プロフィール

河合 隼雄(かわい はやお)
1928年6月23日 - 2007年7月19日
兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)出身。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。1952年京都大学理学部数学科卒業後、京都大学大学院で心理学を学びつつ、数学の高校教諭を兼業した。
天理大学で助教授時代にユング研究所に滞在し、ユング派分析家の資格を取得。日本における分析心理学の普及と実践に邁進。箱庭療法導入者としても知られる。欧米の心理療法を日本文化に根ざす仕方で導入を試みており、日本論・日本文化論の著作も多い。
主な受賞歴に、1982年『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞、1988年『明恵 夢を生きる』で新潮学芸賞、1992年日本心理臨床学会賞受賞、1996年NHK放送文化賞をそれぞれ受賞。1995年紫綬褒章、1998年朝日賞、2000年文化功労者顕彰。
なお2012年に一般財団法人河合隼雄財団が設立されており、そこで本人の名を冠した「河合隼雄物語賞・学芸賞」が設けられている。

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