ユング心理学入門

著者 :
  • 培風館
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  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784563055110

感想・レビュー・書評

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  • この本は、凄い。実例も豊富でどこも示唆的。ユング心理学体系。

    ・まず、タイプを分けることは、ある個人の人格に接近するための方向づけを与える座標軸の設定であり、個人を分類するための分類箱を設定するものではないことを強調したい。類型論を初めて読んだようなひとがおかしやすい誤りは、後者のような考えにとらわれてしまって、すぐに人間をA型とかB型とかにきめつけてしまうことである。こうなると個々の人間は分類箱にピンでとめられた昆虫の標本のように動きを失ってしまって、少なくともわれわれ心理療法家にとっては役立たないものとなってしまう。

    ・あるひとの関心や興味が外界の事物はひとに向けられ、それらとの関係や依存によって特徴づけられているとき、それを外向的と呼び、この逆に、そのひとの関心が内界の主観的要因に重きをおいているときは、内向的といい、両者を区別した。ユングの言葉を借りると、次のとおりである。
    世の中には、ある場合に反応する際に、口には出さないけれど『否』といっているかのように、まず少し身を引いて、そのあとでようやく反応するような一群のひとびとがあり、また、同じ場面において、自分の行動は明らかに正しいと確信しきって見え、ただちに進み出て反応してゆくような群に属するひとびとがある。

    ・二つの一般的態度とは別に、各個人はおのおの最も得意とする心理機能をもっているとユングは考えた。
    …たとえば、一つの灰皿を見ても、これが瀬戸物という部類に属こと、そして、その属性の割れやすさなどについて考える思考機能(thinking)、その灰皿が感じがいいとか悪いとかを決める感情機能(feeling)、その灰皿の形や色などを的確に把握する感覚機能(sensation)、あるいは灰皿を見たとたん、幾何の円に関する問題の解答を思いつくような、そのものの属性を超えた可能性をもたらす直感機能(intuition)である。
    …これら四つの機能のうち、思考と感情、感覚と直感は対立関係にある。つまり、思考機能の発達しているひとは感情機能が未発達であり、逆に感情機能が発達しているひとは思考機能が発達していないという関係にある。ここで、劣等機能(比較して未発達な側)とは未分化なものを指すのであって、’弱い’ものをいうのではないことに注意すべきである。むしろ劣等機能は未分化ではあるが強いとさえいいうる。

    ・感覚と直感は、まず何かを自分の内に取り入れる機能であるのに対し、思考と感情は、それらを基にして何らかの判断をくださう機能であるとも考えられる。
    …思考型や感情型のひとは、自分の思考体系や、感情の体系を強く持ちすぎているために、現実をそのまま認識できなかったり、困難を感じたりする。このひとたちの発する典型的な質問は、「どうして、そんなことをうまく思いついたのか」とおか「そんな馬鹿げたことがどうして起こりうるか」といかである。そして、直感型のひとや感覚型のひとの答えは簡単である。「ともかく思いついたのだから」、「ともかく起こったのだから」しかたないのである。

    ・外向的感情型のひとは、自分の気持ちに従ってそのまま生きているが、それは環境の要求するところと非常によく一致しているので、スムーズに行動してゆくことができる。…しかしあまりにも外向的になると、客体のもつ意義が強くなりすぎ、主体性を失い、感情の最大の魅力である個性がなくなってしまう。…客体の意義が強くなりすぎると、それを引き下ろすために、今まで抑圧されていた未分化な思考機能が頭を持ち上げてくる。「宗教は阿片にすぎない」とか「妻とは性生活を伴う女中にすぎない」とかの言葉によって、今までの価値を踏みにじるのである。

    ・直感型のひとが、その結論を推論や事物の観察によって得られたように思いこんでいる場合も多い。しかし、その説明をよく訊くと、先行した正しい結論に未分化な思考や観察があとでかぶせられているにすぎないことがわかる。筆者は、かつて典型的な直感型のひとがあるひとの話しを聞き、「あなたのいうことはよく理解できないが、ともかく全面的に賛成です」というのに出合ったことがある。…感覚が事実性を追求しようとするのに対し、直感は可能性に注目するものである。

    ・考えてみると、自分にとって親しい場所(家族や仲間の集まり)は、自分の劣等機能発展のための練習をする適切な場所となっていることがわかる。この場面で、たんなる無意識からの反応として劣等機能を暴走させるばかりでなく、それらを正面から取り上げて生きてゆくことに心がけると、少しづつではあるが発展の道を歩むことができるだろう。たんなる反応のくり返しは、発展につながらないのである。

    ・コンプレックスとの対決といっても、治療者にとってまず大切なことは、この子供が治療場面で自由に行動できる状況を作ってやることである。遊戯療法の根本は、治療者がクライエントに対して、クライエントのいかなる表現をも受け入れてゆく態度で接することである。

    ・これらの行動を今まで抑えられていたものを発散するとのみ考えるのは間違っている。たしかに、抑えている感情をたんに発散するだけでも硬派はあるが、この場合、このような表出が治療者という一人の人間を愛下としてなされること、治療者がその表出の意義について知り、それを受容することは非常に大きい意味をもっている。ここに治療者の存在によって、クライエントは自分のコンプレックスをたんに発散させるだけにとどまらず、それを経験し、自我のなかに取り入れることができるのである。

    ・コンプレックスというと、あくまで自分の心の内部の問題と思ってしまい、それがいかに外的なものと対応し、外的に生きることが内的な発展といかに呼応するかということが忘れられがちであるので、それを強調したのである。

    ・そして、結局は父親が精神病であるので、それが級友に知れるのが嫌さに学校へ行かないのだと打ち明ける。さて、この場合、父親が精神病であることが、この少年が学校へ行かなくなった’本当の’原因であるというべきであろうか。確かに、父親の精神病はつい事実である。しかし、そのために学校へ行かないというのは、少し反応が強すぎると感じられないだろうか。このような場合、ユングは「すべての心的な反応は、それを呼び起こした原因と不釣り合いの場合には、それが、それと同時に何らかの原型によっても決定づけられていないかを探求すべきである」と述べている。

    ・ユングは、そのとき空高く昇っていた太陽を指さして、「太陽がここにいるときは神様じゃないというが、東の方にいるときは、君らは神様だという」と、さらに追求すると、皆はまったく困ってしまう。やがて、老酋長が、「あの上にいる太陽が神様でないことは本当だ。しかし、太陽が昇るとき、それが神様だ」と説明する。つまり、彼らにとっては、朝になって太陽が昇る現象と、それによって彼らの心の内部にひき起こされる感動とは不可分のものであり、彼らには、その感動と昇る太陽とは区別されることなく、神として体験される。

    ・黒と白の二人のイブの例はあまりに劇的なものであるが、このような事実が、文学作品として描かれている素晴らしい例としては、スチブンソンの『ジキルとハイド』や、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』などをあげることができる。…これらの一見、非現実的に見える物語が、多くのひとの心を打つのも、結局は、これらがわれわれ人間の心の内的現実を見事に拡大して、明確にとらえてみせてくれたからにほかならない。

    ・一国のひとすべてが鬼に等しいなどという単純な現象は起こりようもないが、この単純な考えを、一国のほとんどのひとが信じるという現象が、しばしば起こるという事実を認識することは大切なことである。内部にあるはずの悪を他にあるように信じることは、何と便利なことか。

    ・もし筆者が夢の分析に頼ることなく、「あなたは思考が優れているが、感情の面がおろそかにされているので、その点を伸ばすようにするほうが良い」と忠告なり、指摘なりをすると、どうであろうか。…心理療法家が目指すところは、そのような欠点を知的に理解することではなく、心にとどくものとして体験し、把握してゆくことである。実際、このひとにとっては、感情や思考などという言葉を弄するよりも、夢の中で、「持ち札にハートが一枚もなかった」ということ、その心象から直接に得られるもののほうが、はるかに豊かであり、また心にまで響くのである。

    ・7歳11ヶ月の男児であるが、発達年齢は1歳9ヶ月で非常に低い。もちろん他の子供と遊んだりはできないので、自宅にこもりきりのような生活を続けていた。さて、この子供に遊戯療法を続けているうち、第七回のときに治療者にとって心を打たれる事柄が起こったのである。それは、この子が遊戯療法の場面で、熊のぬいぐるみを綱でくくり、それを連れて歩いた後に、誇らしげにその綱を解くという遊びを繰り返したのである。
    治療者はそのとき、その意味については明確にわからなかったが、その行為になんとなく胸を打たれ、印象に残る。そこで、治療後にそのことをその子の母親と話し合いを続けているカウンセラーに告げると、次のようなことが分かった。
    最近、その家にどこからともなく犬が迷い込んで、その子供が喜んで飼っていたそうである。ところが母親が外出して帰ってくると、犬がいなくなっている。犬がいないので探さねばというと、留守番をしていた精神薄弱のその子が、探さなくてもいいという。不思議に思ったが、あとでわかってきたのは、その犬は近所の犬が迷い込んできたもので、その飼主のひとがとうとう探しあてて、返して欲しいといってこられた。そのとき留守番をしていたこの子供はその話を理解し、非常に可愛がっていた犬を自ら連れてゆき、首の鎖を泣きながら解いて返してきたという。
    …さて、それほどの大きい仕事をした子供は、治療場面でそれを再現し、治療者にも伝えようとしたと考えられるが、はたしてこの遊びはそれだけの意味しか持たないものだろうか。筆者としては、そのような意味のみならず、そこに非常に重要な主題である「緊縛を解く」ということが、生き生きとあらわされていると考えるのである。そこでちょうどその頃にこの子の「緊縛が解かれる」ようなことが起こったのではなかったかと尋ねると、この治療者のいわれるのには、実はこのような知能の遅れた子供なので、お母さんもなるたけ外に出さないように、家に閉じ込めておくような感じで育てておられた。ところが治療に通って来られるうちに、だんだんと考えも変わり、また子供自身の成長とも相まって、以前よりもこの子供が家の外に行ったりするのを制限されなくなって、子供が喜んで外のひとと接触を持ち始めたのがちょうどこの頃であったとのことであった。
    …この遊びをこの子供の心の内部に生じた心象の表現としてみるとき、それは何よりも閉じられた家より自由に解放された、緊縛を解かれたとの意味が非常に強いと思われる。そして、心象の多義性という点からいっても、このことのみでなく、可愛がっていた犬を返した悲しみや、近所のひとと対等に応対し、悲しい気持ちを抑えて犬を返した満足感、それらすべてのものがこの遊びに集約的に表現されていたものとみるべきである。
    だからこそ、この治療者のひとが他の遊びと違って、何か胸を打たれるものを感じ、強い印象を受けたものと思われる。

    ・この女性は従妹がお産をしたのでそこに手伝いに行ってきた経験を話す。自分の悩みのほうはあまり話さずに、従妹がもう子供はできないとあきらめかかっていたのに、赤ちゃんができて大変喜んでいること。自分も手伝いに行って、赤ちゃんの世話をして可愛く思ったことなどを話すのである。そして、この従妹の性格についていろいろと話をし、自分は今まで節約するのが美徳だというように思っていたが、この従妹は案外平気でお金を使う。しかし、好きなものを好きな時に思い切って買って喜んでいるのを見ると、ときに浪費するのもいいものだなと感じたことなどを熱心に話す。これもただたんに、表面的にのみ聞いていると、このひとは従妹のことばかり話して、自分の問題を何も話していないように思えるかもしれない。自分の悩みについて直接語るのをさけて、他のことばかり話しているとさえ思えるのである。しかし、ここで、この話を心象の表現として考えてみると、この従妹がこの女性の影であることに気づくのである(もちろん、ここにこのように簡単に述べただけではわかりにくいかもしれぬが、この女性の話すところを詳細に聞くとよけいこの点がはっきりする)。
    …たとえば、今の場合、従妹のところに子供が生まれたという事実によって、このクライエントの影の部分に新しい可能性が生じてきたことが示されている、あるいは、従妹に赤ちゃんができたので、このひとに新しい可能性が生じてきたなどというのは、まったく馬鹿げたことである。そのような推論ができるというのではなく、このクライエントの外的事象を語っていることのなかに、内的な世界をも呼応して述べられているという見方も成立するということである。
    このように考えると、治療者は、このような場合には非常に診療に言葉を選んで話をせねばならぬことが分かる。「新しいもの、赤ちゃんが生まれ出てくるはずがないと思っていたところに、新しいものが生まれてきた」といっていいかもしれない。「浪費ぐせのあるひとでも、新しいものを生み出す可能性があることが分かった」というかもしれない。ともかく大切なことは、外的事実を聞いていて治療者の心に浮かんだことを、生のままの形で表現するのではなく、内的世界の表現とも、外的事象の描写ともとれる両者の間の中間的な表現を見出してゆく。そして、クライエントがそれに対して応答する限りにおいて、治療者もその表現を深めてゆくことが大切である。

    ・≪夢≫大きい家、それはホテルのようであった。多くのひとがその中に住んでいた。一人の男が殺され、その殺害者がまただれかに殺され、これが数度続いた。私は自分の部屋から窓の外をみると、道のところまで川が溢れ家のまわりを流れていた。私は誰が最後の殺害者であるかを知っており、それを私の部屋にいた見知らぬ男に告げた。これを告げながら、卒然として悲しくなり、私は泣き叫びだす。そしてその男に、「私たちは何も知らなかったことにしよう。」と申し入れる。すると、その男は、私が殺害者を責める気がないのなら、どうして殺害者が誰であるかを喋ってしまったのか、もういまさら知らないことにしようといっても始まらない、という。私は殺害者が恐いのだといい、話し合いを続けているうちに、最後の殺害者は自分の刀で自殺してしまう。

    読者の方は、まず何よりもこの夢の劇的な凄まじさを感じられたことと思う。この夢をみた女性は典型的な思考タイプで、何かのときに筆者が、「それでどんなふうに感じられましたか」と尋ねたら、「わかりません、私は考えられるけれど、感じられないのです」と答えたことがあるほどのひとである。

    ・たとえば、電話について連想をきくと、「電話代が高くついて困る」と答えられたとき、「何か高くついて困るということで、思い浮かぶことはありませんか」といったふうに、連想の鎖を追うのではなく、電話代が高くつくとのことに対して、「電話について、もっとほかにも思いつくことはありませんか」とくり返し尋ねてゆくのである。連想が思い浮かばないときは、「電話とはどんなものか、電話を知らないひとに説明するとしたら、どんなようにいわれますか」と尋ねたりする。
    ここに自由連想を排して、一つのことを中心として連想を尋ねることは次のような理由によっている。すなわち、自由連想をさせて、鎖をたどってゆくと、これは何らかのコンプレックスに到達する。実際、この連想の方法がコンプレックスの解明に役立つことは、ユングも連想実験によってよく知っている。しかし、このような方法でコンプレックスを解明するのならば、何も夢を材料にする必要はなく、新聞の記事からでも何からでもできることである。すなわち、このような方法をとると、コンプレックスの分析にはなるが、’夢の分析’にはならないのである。

    ・ある母親がその6歳の男の子のことについて相談に来られた。その男の子が最近になって、死の事について質問をするので困るというのが、その相談の内容だった。家庭は幸福で病人もいないし、最近、知人で死んだひともなかった。しかし、その坊やは、自分が大きくなったときのことを考えているうちに、もし自分が80歳くらいになると、お父さんとお母さんはどうなるかと考え始めたらしい。このことは必然的に、死の問題につながり、人間は死ぬとどうなるのかということにもなった。このむずかしい質問に対して、母親は、地獄や極楽の話しをする気にもなれず、さりとて、キリストの復活について語ることもできなかった。このような場合、母親自身が’信じている’宗教があると、それによって答えることが、いちばん良い解決策であろう。しかし、今の場合、それがないとすると、残された方法としてはただ一つである。私は、この母親に、その坊やが話をしたい限り、その話しを一生懸命にきいてやり、慎重に観察を続けるようにすること、こちらからよけいなことを教えず、子供の体験を分かち合うようにすることが大切であるといった。
    …解決はほどなく、この男の子の内部からやって来た。あるとき、この坊やは生き生きと目を輝かして、「お母さん、とうとうよいことを思いついた」とやってきた。「僕が死んでも、もう一度お母さんのお腹のなかに入って、また生まれてくるとよい」と、この子は話し、これで、すっかり死の話しをしなくなったという。
    …自分が老人になったとは両親はどうなるかと考え、死の問題を考えたほどの論理的な思考のできる子供が、解決として得たものが、合理的な観点からはまったく馬鹿げたものである点に注意していただきたい。「死んでから母親のお腹に入る」ということは、まさに心象として重要な意義をもつものであって、死に対する合理的な回答ではない。

    ・あるひとはその影に気づいて、それを統合しようとしたことを述べ、あるいは、男性的なペルソナをもったひとがアニマに直面することを述べたが、これらはすべて、自己実現の過程の一部ということができる。そして、その際における危険性について、読者の方は悟っていただけると思う。実際、自己実現のためには、今まで自分が絶対によしとしていたこともすて去らねばならぬときさえあり、ユングが、「すべて良いものは高くつくが、人格の発展ということは、最も高価なものである」と述べているのも、うなずけることである。

    ・「意味のある偶然の一致」を、ユングは重要視して、これを因果律によらぬ一種の規律と考え、火因果的な原則として、同時性の原理なるものを考えた。つまり、自然現象には因果律によって把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがあり、後者を把握するものとして、同時性(シンクロニシティー)ということを考えたのである。
    …しかし、このような同時性の現象を因果律によって説明しようとすると、それはただちに偽科学(魔術)に陥る。死ぬ夢を見た’から’死んだとか、祈ってもらった’から’よくなった、などと説明する考え方である。
    …同時性の原理に従って事象をみるときは、何が何の原因であるか、という点にではなく、何と何が共に起こり、それはどのような意味によって結合しているかという点が重視されてくる。後者のようなものの見方は、実のところ、中国人の非常に得意とするところで、易経などは、そのような知識に満ちた本であるということができる。事象を因果の鎖によって時間系列のなかに並べるのではなく、事象全体をとらえて、その全般的な「相」を見出そうとするのである。
    中国に古くから文明が栄えながら、自然科学が発達しなかった理由として、中国人(東洋人)の考え方が非論理的であると述べるひともあるがそのようなことはなく、中国人(東洋人)も十分に論理的であると筆者は思う。論理的であるが、このように事象に対する態度が根本的に異なっており、ことなめ西洋に自然科学が発達したが、中国では発達しなかったとみることができる。そして、相を相として非因果律的に把握することは難しいので、このようにして知った相の知識を因果的に説明し始めるや否や、それは、いわゆる迷信となり果てて、自然科学の発達をますます妨害することともなったと考えられる。西洋においては、自然科学が発達するが、これは一面豊かな「相」の知恵を抑圧すること、ひいては、自我が心の深部に存在する自己(セルフ)との接触を失うほどの危険をもたらすことになって、現代の西洋において、「人間疎外」の問題が大きく取り上げられねばならなくなったともいうことができる。

  • 河合隼雄先生が生涯取り組んだユング心理学についてわかりやすいように説明されている。
    専門的な内容ながら小説のような実例が出てきたり、河井先生の優しさと思慮に裏打ちされたコメントがあるので、どんどん先を読みたくなる。

    心理学を学ぶ学生向けに書かれている教科書的な書籍ではあるが、自分はなんだ?心とはなんだ?と疑問を持つ人には読んで損はない本だと思う。

    さすが教科書というだけあり、個人的には自己啓発本20冊くらいの得るものがあり、良い本だった。

    ユングが探求したのは人の意識に上っていない無意識の領域であり、中には荒唐無稽に見えるような理論もあるが、それが実際の臨床の場を通じて出てきているのはとても意義深い。

    物理学では量子力学が幻想が現実のようになっているが、ひょっとして人の心もそうなのかもしれない。

    トピックス
    1.心の現象学
    2.フロイトとアドラー
    3.タイプ
    4.コンプレックス
    5.個人的無意識と普遍的無意識
    6.心像と象徴
    7.夢分析
    8.アニマとアニムス
    9.自己
    10.心理療法の実際
    11.東洋と西洋の問題

    読んでいてよく出てきたのが、表出している自我・意識とは対をなす特質の存在。
    それは抑圧も無視も出来ず、困ったことに制御も出来ない。
    だから認識して、対立し、統合していかなくてはいけない。ということ。

    また、口酸っぱく 理解した気になる事、知性で説明することを咎めている。あくまで感情を伴う経験でならねばならぬと。。

    この本を読むと良くも悪くも ジャッジメンタルな決めつけが出来なくなる。

    非常に得るところが大きい本でした。

  • この本のおかげで考え方がだいぶ楽になった。

    なんでかわからないけど、心に葛藤があるとき。
    その、なんで?の部分が自分なりに考えられるようになった。

    それによって実践的な解決策を見つけたし、自分の考え方で救われることもあった。
    人の気持ちも少し汲み取れるようになったし、理不尽なことに腹を立てなくなった。

    心理学にはド素人の無知な私がさらりと読めたのだから、幅広い人が読めるはずと思ってます!

  • 【森】
    人の心の働きを知るのに良い一冊。全社会議でやったMBTI分析もユングのタイプ論が元になっています。

  • カウンセリングを受けているような気持ちになる素晴らしい本

    河合がスイスのユング研究所から戻り、京大で行った授業をもとに出版したもの。

    さすがに抽象的な専門用語がでてくるところは難しいが、クライエントの事例、夢分析などの具体的な話になると俄然分かりやすく、自分に置き換えて身につまされたりする。まるで心理療法家のカウンセリングを受けているような気持ちになる。

    心理の専門家に聞くと皆「素晴らしい本で、何度も読み返す」という。

  • あくまで、河合隼雄という人物の色眼鏡を通して記述された入門書。しかし、Jungのエッセンスを見事に同化させ昇華させた本書は、その独自性にこそ価値がある。入門書としては、やや不適切ではあるが、日本という文化を加味しつつ記述された和製Jungである。

  • まだ途中。
    これは一気に読めない。
    確かに物凄く良い本であるのには間違いないが、正直ついこの間までパニック障害やら鬱やら嘔吐恐怖症で病んでいた自分にはきつい。
    心の問題について根本から考えることは、やっと断ち切れた心の問題とまた対峙するような感じがして辛くなってくる。
    別にそれらしいことは書いてないのだけど、どうも駄目だ。
    気が向いたときにでもちょっと読むくらいにしよう・・・しんどかった。
    でもコンプレックスと向き合わなくてはいけないと書いてあるんだよな。。。
    辛くなってくるということは心の問題を抑制しているだけであって、心の奥に消化されずに残っているという事か・・・。
    うーん・・・

  • 教科書です・・・
    いい本なんでしょうけど初めてユング心理学を勉強しようと思っているならこの本は辞めたほうがいいです。
    2、3冊読んで、馴れてきた頃戻ってきて読むと、すごくよく分かります

  • 夢ばかりみる。
    明晰夢が多い。
    予知夢もある。

    夢、いったいなんなんだろう?
    潜在意識?そんな一言では言い表せないもの。

    寝ている時間がメインで
    起きている時間がおまけのようなもの
    他の本に書いてあった言葉どおり
    もしかしたら、夢の方が本当の自分に近いのかも?
    なんてことも浮かんでくる、

    かなり専門的な本だからなかなか読み進められない、
    何年かかっても
    ゆっくりじっくり読みたい一冊

  • ユング研究所から日本人としては、
    はじめてユング派の分析家の資格を
    得てきた著者が、京大文学部での講義をもとにまとめた、
    日本で、はじめての本格的な
    ユング心理学入門である。

    カール・ユングの分析心理学は、
    フロイトの精神分析とならんで、
    あるいはそれ以上に、欧米では 
    高く評価され、その影響は心理学や
    精神医学の領域をこえて、ひろく
    教育や宗教・芸術の分野にまでおよんでいる。

    スイスの精神医学者ユングの名前は、 
    フロイトやアドラーとともに
    精神分析の発展につくした人として、
    わが国でもよく知られている。

    そして、ユングによって
    初めて用いられた「コンプレックス」、
    「内向ー外向」などの用語も
    広く一般に知れわたっている。

    ところが、実際に、彼の心理学の内容については、
    案外に知らないひとが多いように思われる。

    ユングの心理学は
    一般の実験心理学とおもむきを
    異にするものであるが、日本人として、
    西洋で生まれたユングの心理学を
    学びながら、著者が感じたり、
    考えたりしたことを、
    試論のかたちで述べたものである。

    東洋と西洋という大きい問題を、
    短いスペースのなかで論じるのは
    まったく無謀なことではあるが、
    これが少しでも読者の方の考え、
    あえて、発展させる素材となれば
    幸いと思って、とりあげた次第である。



    心理療法家の役割

    まず始めに、この分析心理学は、
    それも心理学と名づけることに
    反対するひとがあるかもしれないが、
    心理療法と密接な関連をもって
    いることを強調しておきたい。

    ただ、これは理論の精密さや明確さを
    誇りとするよりは、実際場面に
    役立つことを第一と考える心理学を
    探し求めようとする試みである。



    心理療法を受けに来たひとが、
    まず話し出すことは、
    その症状および、その悩みである。

    この訴えが一通り終わった頃、
    必ずといってよいほどいわれることは、
    「先生、どうしたらよいでしょうか。」
    という問いであり、これに対して、
    治療者が沈黙を守るーというよりは、
    何も言えないで、いるというほうが、
    より適切であろうがーと、
    次に、「いったい、なぜこんなことに
    なったのでしょう」との
    質問が続くことが多い。

    これは、自分の悩みには原因がある、
    原因がわかれば、それを取り去り、
    したがって結果としての悩みも
    除くことができるという、
    まことに単純明快な推論によって
    引き出された考えである。

    だからこそ、「偉い先生」や
    「心理学の専門家」に 
    悩みを打ち明け、なぜそうなったのかを
    教えてもらうことによって、
    ただちに問題が解決することを
    期待して、カウンセリングを受けに
    来る人も多いわけである。

    この単純明快な考え方が、どれほど
    心理療法の実用性に役立つかという点は
    ともかくとして、このように、
    治療場面においてしばしば発せられる

    「なぜ?」

    という疑問について、
    しばらく考えてみたい。

    結婚式を目前にして、
    最愛のひとが交通事故で
    死んでしまったひとがある。

    このひとは「なぜ」
    と尋ねるに違いない。

    「なぜ、あのひとは
    死んでいったのか。」

    これに対して、
    「頭部外傷により…云々」
    と医者は答えるであろう。

    この答えは間違えていない。

    間違えてはいないが、
    このひとを満足させはしない。

    なぜ、この正しい答えが、
    このひとを満足させないのか。

    それは、この「なぜ」(Why) という
    問いを「いかに」(How) の問いに
    変えて答えを出したからである。

    医者はHow did he die?
    (どのように死んだのか)に
    ついて述べたのである。

    ここに、私は、ヘルムホルツの有名な言葉、
    「物理学は Why の学問ではなく、
    How の学問である」を思い出す。

    雨はなぜふるのか、
    風はなぜ起こるのか、
    という問いについて
    思弁しようとするのをやめ、
    雨はいかにふり、
    風はいかに吹くか、
    その現象を適確に記述しようとの
    態度によって、近代の物理学は
    発展してきた。

    極言すれば、Why を
    How に変えることによって、
    自然科学は今日の発展を遂げてきた。

    かくして、その極まるところ、
    原子爆弾などという文明の利器を
    生み出すにさえ至ったのである。

    しかし、この輝かしい理論体系は、
    カウンセリングを受けに来た
    患者の「あのひとは なぜ死んだか」
    という素朴なWhy には、
    何らの解答をも与えてはくれない。

    実のところ、心理療法家とは、
    この素朴にして困難な Why の前に
    立つことを余儀 なくされた人間である。

    たとえ、この Why に対して
    直接に解答を出せぬにしても、
    この Why の道を追求しようとする
    一人の悲しい人間と、少なくとも
    共に歩もうとの姿勢を崩さないものである。

    これをもってしても、
    心理療法家たるものは、
    自然科学としての心理学のみに
    頼りがたいのではないか、
    という点が予感される。

    さて、実際には、How としての答えに
    不満を感じたひとは、次には
    Why をWhat に変えて、
    つまり、さきほどの例であれば、
    なぜ死んだのか、との問いを、
    「死とは何か」という問いに
    変えて考えてみる揚合が多い。

    「私たちのこれほどの深い愛情関係を
    断ち切った死とは何か」との
    問いに対して、また、われわれは
    答えることのむずかしさを
    感じるばかりである。

    そして、この問いに対しては、
    「それはもうわれわれの領分ではあ
    りません、宗教家か哲学者の方に
    相談してください」
    と答えるべきであろうか。

    このような考え方も存在するだろうが、
    実際には、答えがわからぬままにでも
    治療を続けなければならない時、
    あるいは続けたいと感じる時がある。

    心理療法家たるものは、このような
    重荷も引き受けていかなければならぬ。

    治療者は、患者の「死とは何か」
    と言う問いには答えられない。

    しかし、このような直接な答えに
    注目せず、その背後にある
    情動に注目すること、すなわち、
    恋人の突然の死によって
    生じる情動の大きい高まりに目を向け、
    それが平衡状態に達する過程を
    共に歩むことによって
    1つの解決へと向かうことができないか。

    宗教的、哲学的な回答を与えないで、
    しかもその人が1つの解決へと至る道を
    共にすることができるのではないか、
    と思われる。

    そして、心理学者としては
    「死とは何か」と言うことを
    哲学的に追求するのではなく、
    「死は何か」と言う質問の背後に
    どのようにして情動が高まり、
    どのような過程をたどって、
    それは平衡状態に達するのかと言う
    心理現象をこそ、与えられた課題として
    追求すべきではないかと思われる。

    そして、このような知見を持つことが
    心理療法の実践役立つものと考える。


    河合隼雄は、アドラー、フロイトも、
    ユングと比較する意味で抑えている。

    アドラーの観点とは、
    フロイトの性の理論に対して、
    人間を動かす基本的な動因として、
    「権力への意志」(will to power)を考えた。

    彼にとっては、愛も性も
    「権力への意志」を
    遂行してゆくための
    一手段として考えられた。

    さて、このような観点に立つと、
    同一の事例が相当異なった
    側面から記述されることになる。

    まず、ある女性患者を例に取る。

    彼女は、常にその場における
    権力者の座につこうと努力し
    続けている。

    どんな方法であろうと、少しでも
    他人の上に出ようとしてなされる試みは、
    アドラーの表現によれば、
    この女性のあくことのない
    「男性的主張」(masculine protest)であった。

    両親の不和と、それに続く母親の
    神経症は、この娘に上の座を
    獲得する機会を与えた。

    彼女は父親にやさしくし、
    母親に冷たくあたることによって、 
    母親の座を奪おうとする。

    実際、「権力への意志」から見れば
    愛も善行も、権力を
    得るための手段となる。

    彼女にとって、父へのやさしい行動は、
    母親との権力闘争に勝つ
    手段にすぎなかったのだ。

    その証拠に、彼女は父の死を聞いて
    発作的に笑い出した。

    このような説明は、
    あまりにも意地悪く、かつ
    愛情の価値をふみにじるのも
    はなはだしいといった感じを
    われわれに与える。

    しかし、一方考えてみると、
    一人の女性を愛し、あるいは
    愛していると信じていながら、
    目的を遂げるや否や、にわかに
    愛情のうすれてゆくのを感じる男性が、
    われわれの周囲に多くいないだろうか。

    一人の異性を愛しているといいつつ、
    その実、相手を征服したり、
    自分の思いのままにしたりすることに
    喜びを感じる人が多くはないだろうか。

    われわれは、これらの現象を
    攻撃したり、嘆いたりするよりは、
    一つの心の現象としてみようとするかぎり、
    このような心の働きが人間の中に存在することを、
    ともかく認めねばならない。

    といって、ここでこの女性の意識内で、
    すでに述べたような凄まじい権力への
    意志が働いていたと言うのではない。

    これは父の死の知らせを聞いたとき、
    この女性が非常に悲しんだことによっても
    示されている。

    しかしその背後から
    ヒステリックな笑いが起こる。

    これはまさに意識の預かり知らぬ
    無意識の中からの動因(権力への意志)に
    よって生じる症状である。

    これは、我々のある種の善行や徳行の
    背後にあるものを明るみに出すものだ。

    ある人が一面的な徳行を
    積み重ねようとする時、その暗い反面は
    無意識の中に積み重ねられていく。

    この暗い面を覆い隠そうと、
    努めれば努めるほど、
    それは無意識の中で強力になり、
    ときならぬときに、平然と表面に現れる
    ー先ほどの女性患者の場合、
    父の突然の死を悲しむ
    愛情深い娘を爆婚的な笑いが
    襲うのである。

    善行の化身ジキルは、どうしても
    悪の権化ハイドに悩まされねばならない。

    さて、この女性患者が、
    最初に神経症の症状を示したのは、
    父親が他の女性に関心を示したとき、
    すなわち、父親の心のなかに
    彼女が支配することのできぬ領分の
    あることを認めたときであった。

    これは彼女に大きいショックを与えたが、
    といって父親を支配する
    他のよい方法も見つからなった。

    このように、障害を合理的な方法で
    解決できない時でも、他にまた方法がある。

    それが神経症である。

    神経症を一つの方法として述べるのは
    不思議に思われるかもしれない。

    しかし、考えてみると、
    これほど他を支配する
    よい方法はないかもしれない。

    突然におこる息のつまる症状に
    家族はあわてふためく、医者が呼ばれる、
    なかなか原因がわからない病気、
    多くのひとの同情。

    これらのなかで病人は、
    すべてのひとが自分のために 
    動くのを見ていることができる。

    実際、患者の母親の神経症も、
    彼女が夫のなかに
    「支配できない心の動き」を
    認めて起ったものではないだろうか。

    そして、その娘も、いみじくも
    母親と同じ名案を実行することに
    なったのではないだろうか。

    この計画は父親が家に
    居るときになされて成功していた
    (父親の在宅中に症状がおこる) が、
    父親が死亡しては、その意味を
    もたないので症状が消え去ってしまう。    

    恋も、彼が父親の男性的な強さを
    思い出させるような行為をしたときに、
    打ちすてられてしまう。

    さて、 その後、適当な結婚によって
    落ちついたかにみえたが、彼女の夫が
    家庭の外に関心を示しだしたとき、
    忘れかけていた手段、神径症によって
    支配性を回復しようとの試みが再現される。

    以上が、アドラーの観点から
    みた場合の説明である。

    フロイトの理論によれば、
    「すべてを性の衝動の現われ」として説明するが、
    アドラーは、これを「権力への意志」
    という考えによっても、
    十分説明しえたわけである。

    フロイトが根本と考えている性の問題も、
    アドラーにとっては支配欲を達成する
    手段として説明されてしまう。

    そして、フロイトにとってはもちろん、
    「人間の支配欲は性衝動の一つの現われ」として
    説明しうるのである。

    フロイトとアドラーの相違として、
    もう一つ指摘したいことは、
    フロイトが症状の説明のために
    患者の過去の生活史をたどり、
    過去の近親相姦的願望の結果として、
    症状を因果的に説明しようとするのに対し、
    アドラーは神経症症状を、
    目的を持った設定
    (teleological arrangement) として、
    むしろ未来との連関性のなかに
    位置づけようとしたことである。

    フロイトは、一つの症状に対して、
    その症状について何か
    思い出すことはないか、あるいは、
    その症状が初めて起こったときについて
    何か思い出さないかと患者の過去について
    尋ねるのに対して、
    アドラーは、今悩んでいる症状が
    もしなかったら、
    何をしたいと思いますか、と
    未来に関する患者の熊度をよく尋ねたという。

    そして、もし神経症に
    悩んでいなかったら、これだけはしたい
    ということを答えると、実は、
    そのことを本当にするのを
    避けるために神経症のなかに
    逃げこんでいないかを問題とした。

    実際に患者が現実を支配できぬときは、
    せめて空想のなかででも、権力者たる
    地位を占めようとして、うまく神経症を
    設定していることに気づかせることが、
    アドラーの場合のおもな治療法であった。

    このように、未来との連関のなかに
    症状をみる態度は、
    Why をFor what と変えてみることであり、
    これによって、因果律的な考えに対する
    われわれの強い執着を断ち切る点は、
    大きい意義があり、現象学的接近法とも
    つながりをもってくると思われる。

    これら二人の説に対して、
    ユングはどのように考えるのだろうか。

    まず、この二つの説にユングは
    真向から反対するものでは
    ないことを強調したい。

    ユングは常にフロイトの功績を認めている。

    そして、これら二人の巨人が、
    性と権力という二つの道筋によって、
    われわれの暗い半面、無意識のなかを
    探求しようとしたことを高く評価している。

    ただ、ユングの場合はこの「下水工事」の 
    必要性と意義を認めながら、
    一方、暗い無意識のなかに光のあることを 
    指摘しようと努めたということができる。

    これは、ユングがフロイトの性の理論について、
    なぜフロイトが、食欲や睡眠欲のような
    明瞭に存在し、性欲よりも基本的とさえ
    思えるものに注目せず、性の問題を取り上げたかについて彼の考えを述べている点にも認められる。

    すなわち、ユングは、食欲や
    睡眠欲が明らかに生理的欲求に
    近いのに対して(もちろん、これらにも
    心理的色彩は加わるが)
    性欲はまさに、生理・心理的な特徴をもち、
    これは生物的な深い基礎をもちつつ、
    一方では、非常に心理的なものへ
    とつながっている点で、
    最も注意すべき動因と考えられると述べいる。

    ユングが性や権力の意志のみでなく、
    人間の深い意味での宗教性について
    述べる場合も(これはフロイトとの
    大きい分岐点ともなったが)、
    つねに心の現象としての個々の事実を
    ふまえてのことであり、そしてまた、
    これをフロイトの説いた暗い面を
    否定するものとしてではなく、
    むしろ共存するものとして述べようとする点に、
    彼の考えの特徴をみることができる。

    ユングの考えはフロイトのペシミズムに対して、
    楽観主義的であるといわれ、
    また、そのような意味で彼の自己実現の考えを
    安易に受けとめる人もあるが
    彼の楽観論は、フロイトの述べているような
    人間の暗い面を承認した上に
    立っていることは大切なことである。

    このような光と闇の微妙な交錯を
    はっきりとは知らず、
    人間は自己実現に向かって進むとの
    甘い考えに頼って、悩んでいるひとを
    「カウンセリングしてあげよう」とし、
    そのなかに生じる暗い内容にたじろいでしまう場合も
    あるのではないだろうか。

    話が少し他にそれてしまったが、
    前に述べた例で、一つの現象に対して
    フロイトとアドラーと二つの異なる
    説明が可能なことはいったい、
    どういうことであろうか。

    これに対して、
    ユングは人間の基本的態度の相違ということを
    考えざるをえないとした。

    つまり、ひとによってものの見方が異なり、
    態度が異なってくるというのである。

    このことは彼の人間のタイプの
    考えへと発展してゆく。

    …まだ入門編のさわりである。

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