技術大国・日本の未来を読む: 繁栄を続けるための5つの直言

著者 :
  • PHP研究所
5.00
  • (1)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 4
感想 : 0
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569534237

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 1300

    西澤潤一
    1926年仙台市生まれ。東北大学名誉教授、岩手県立大学・首都大学東京名誉学長、学校法人上智学院顧問、上智大学特任教授。工学博士。東北大学工学部卒業後、同大学大学院特別研究生などを経て、東北大学教授に就任。専門は電子工学、通信工学。PINダイオード、静電誘導トランジスタ、光通信の基本三要素にかかわる技術の開発など、とくに半導体研究の黎明期を支えた功績から「ミスター半導体」と呼ばれる。IEEE(米国電気電子学会)からは名前を冠した記念メダルを創設されるなど、電子工学分野における世界的権威


    いっぽうこれとは別に、イギリスは日本の技術力に対して、どういう評価をしているかというと、これは大阪大学の伊達宗行先生のお話だが、 「日本人の業績には、セレンディプティなものが少ない」  と言うそうである。  セレンディプティとは、伊達先生の説明によれば「ガラクタの中から拾い出してきたような成果」とでもいうのだそうだが、日本ではこんなことをすると「何だ、ガラクタか」と言われてしまう。ちなみにセレンディップとは、セイロンを意味するむかしの言葉だそうで、いまのスリランカの昔話に、三人の王子様がいて、この王子様たちは予想もされなかった宝物を偶然に見つけ出してしまう力を持っていたという。この昔話を引用して、セイロンの三人の王子様のような、というのが縮まってセレンディプティと表現されるようになったと言われている。

    そのような、なにもないところから学問を建設したり、なにもないところから新しいモノを作り出すということに関してはヨーロッパには伝統がある。その中でもイギリスの貢献度は、ズバ抜けて大きいと思っている。

    「いまの話は、みんなスタッフという話です。つまり日本人が貢献しているのはスタッフとしてであって、リーダーとして評価されているわけではない、ということを認識しなければいけません」  しかも、である。日本の技術、日本人の研究者を軽く見るのは、外国人だけではない。当の日本人がそう見ているのだ。いまでも日本の研究者の一部には、外国との協力で研究をやろうとすると「絶対外国人の研究者でなければダメだ」と主張する人が少なくない。なぜだろうと思う。つまりはそれだけ自分に自信がないということになりはしないか。  外国に行って通用するものは、日本独自のモノである。  向こうでやっているものをやって外国に持って行っても、なんにもならない。むしろ日本でしかできないもの、日本でやったもの、他の国でやっていないものを持っていけば、世界に通じるのである。  そういうことを考えると、日本で進める研究に外国人を入れるというのは、どういう意味があるのだろうと、見識を疑いたくなる。

    と同時に、江崎先生が言っておられることと重複するが、特許出願数の多さとは裏腹にノーベル賞受賞者はアメリカより、はるかに少ない。基礎科学分野でのベーシックな特許が多ければ、年間三二万件もの特許が出願される以上、そのなかの三二万分の一、すなわち年間ひとりぐらいのノーベル賞受賞者が毎年出ても不思議はない。この事実を見ても、やはり基礎科学で日本は、まだまだアメリカにおよばないことがわかる。

    しかし、日本では残念ながらこうした苦労をする人は、はっきりいって少数派である。なぜだろうか、と考えてみた。  日本人は誰もいないところでひとり、黙々と現象を観察する頑張りがきかない。  結局、個性が弱いのである。これが基礎研究の貧困につながっている。欧米人はアクが強く、ときには他人がなんと言おうと自分の好奇心だけでやれるだけやる、といったところがある。日本人にはこうしたアクの強さは見られない。  大学の研究者を例にとると、研究をやるにしても、自分の興味だけで深く掘り下げていくことができない。つい他人の論文を読みたがる。欧米の研究をチョロチョロ眺め、真似したくなる。製品をつくる企業はどうかといえば、これまた外国を気にする。欧米でよい製品ができたとなると、あわてて自分たちも作り出す。「モノ真似じゃないか」と外国から指弾されるのはこのためである。

    だが、日本ではそういう人は稀である。 「写真製版が大事だぞ」  というと、みんながワーッと駆け集まる。 「超伝導がこれからのカギを握るぞ」  というと、猫も杓子も、自分の仕事を放り出して超伝導にとりかかる。だから、一見、技術は進んでいるように見えても、実体は底の浅いものになる。

    東北大学の立学の基本構想は、クリエーション、つまり創造をする大学をつくりたいということからスタートしている。 「自分たちがクリエーションをするような大学を、日本にもつくらなければならない」  明治末期、独自の原子模型の発表などで知られる長岡半太郎先生が東北帝国大学の設立に関与したとき、独創性ということを強く主張した。石田名香雄・元学長によれば、当時の柳沢政太郎・初代総長、あるいは二代目の福原鐐二郎総長がその方針を立てて、長岡先生に大学の構想をまとめさせた。ここに、いまだやられていないことをやる、という東北大学の伝統が生まれた。  だから東北大というのは、そもそもがクリエーションの大学なのである。

    大多数の研究室がやっているような他人のモノ真似仕事をしていれば、学生は自信はつくかもしれないが、当たり前の結果しか出てこない。ほんとうの研究というのは、人のやっていないこと、人がやっていることと違うこと、をすることだと私は思っている。

    ところがいまの若い人たちは、言ってもなかなか動こうとしない。それでいて、動きはじめると自分だけで決めて人の言うことを聞かない。非常に浅薄な考え方でモノを決めて、人がなにを言っても聞かない。なんとしてでも自分が決めた方向で行こうと頑張る。それも深い知識と充分な経験から生まれたカンとやる気に裏打ちされた頑張りならいいが、単なる思いつきや流行だけで、その方向に進もうとするから困るのである。とくに外国でやられているのと同じことをしようとする。

    「形あるモノは滅びる」というのは仏教の世界だけではない。  自然科学でも同じことで、どれぐらい長く同じ状態が保てるかが、大きな問題だ。  少なくとも十年以上、超伝導状態を保てなければ使いものにはならない。

    自分の着ているものを見てもらうとよい。下着から洋服まで、すべて科学技術の恩恵に預かっている。かりに着ているものが天然繊維であっても、それを織るのは技術なのだから、そういうモノをすべてとり払っていくと素っ裸で生活しなければならなくなる。

    人間すべて、社会に役立つ正しい労働をやるべきである。私は、いわゆる右でも左でもない、合理主義だと思っている。理想主義と言えるかもしれない。だから、やればできることを努力せずに、他に責任を押しつける人は、右でも左でも大嫌いである。

    科学を〝諸刃の剣〟と言った人がいるが、ほんとうは科学技術そのものに是非善悪があるのではなく、その技術を使う立場の、人間のほうに問題があるのである。  科学自体は、善用すれば人間の生活に素晴らしい利益をもたらす。  包丁は台所で必要なものである。使われ方が悪くて殺人の道具になったとしても、それは包丁をつくった人のせいではない。使った人間のせいなのだ。  科学と人間の関係も同じである。科学者が科学を管理しているのではない。管理者は使う側の人である。だから、もし科学が悪い方向に使われたとして、科学者だけにその責任を問うのではなく、使う側も含めて、自分たちの社会を守るという共通の立場に立って論議しなければいけない。

    ところがいまは産婦人科に行くと、昔ならとても生きることができないような赤ん坊でも生命維持につとめている。その赤ん坊が何日かすると小児科にまわされる。ほんとうはとても生きていないような子どもや、意識も回復せず、幸福になれそうもないというような子どもが、小児科にはたくさんいるそうである。  それで小児科の看護婦さんが、クタクタになっている。  これは非常に端的な例であるが、最初から植物人間同然の人まで、生かすことがその人にとって幸福か、不幸かということまで考えなければいけないところにきている。つまり人間の生命を、ただ単に尊重するということに、疑念が生まれているのである。だから、その時代時代で人間がいちばん大事にしている理念そのものが変わっている。

    学会で発表する場合、事前に提出するのに予稿集というものがある。それを見ると、卒業生の原稿が出ている。読んでいるうちに「この卒業生、いまなにを考えているな」ということがわかってくる。  あるときなどは、卒業生の予稿集を読んでいて、たまたまその男の先輩が同じ職場にいるものだから、会ったとき、 「お前のところにいるあいつ、いま、こういうことで悩んでいると思うのだが、ひとつ相談に乗ってみてくれないか」  と言ったところ、その先輩に言われた卒業生は、びっくりして私のところに電話をかけてきた。卒業してずいぶん会っていないのに、悩みを図星に指摘され、飛び上がったというのである。  それぐらい、人生観というのは仕事に出る。  だから、やはりちゃんとした人生観を持っていない人間というのは、いくら専門的に立派な仕事をしてもダメだ。

    人間性を無視した科学技術の研究は、一時的にはうまくいくことがあるにしても、いつかは行き詰まる。やはりちゃんとした人生観を持っている人間でなければ、エキスパートとしてもダメだというのが私の結論である。

    京都大学の田中美知太郎先生は、 「発明も発見も哲学だ」  と言われたという。  私はかつて、湯川秀樹先生のノーベル賞受賞対象となった中間子理論は、実証のなかった推論ではなかったかと言って、失礼もほどほどにしろ、と叱られた経験がある。私は、ちっとも失礼なことを申し上げたとは思っていない。

    私が初めてアメリカに行ったのは昭和三十五、六年だが、それ以来四十四、五年ごろまで、アメリカに行くたびに、いつも目にしていたのは軽工業品であり、だからアメリカ土産は決まってボールペンやパーカーの万年筆、アイロン、トースターといったものばかりだった。ともかくそのころは、訪れるたびに「アメリカ人というのは、ずいぶん質素な国民だな」と、いつも思っていたくらいである。  ところが最近のアメリカ人というのは、非常に贅沢になっている。  ニューヨークへ行っても、ブランドの店がズラリと並んでいる。皇太子殿下の言葉に出てきた「ティファニーで買い物をするような女性とは結婚したくない」というティファニーの店が並んでいる目抜き通りをヨーロッパの有名ブランド店が占拠し、日本人観光客だけでなく、アメリカ人たちの一種の社交場みたいな賑わいを見せている。  なんでもお金第一主義になって、いわゆるかつてのアメリカンマインドが衰えてきた、というのは、やはり事実なのだろう。

    小竹無二先生は、著書のなかで、 「松茸は、とられる前に千人の股下をくぐる」  と述べておられる。  こんなところに松茸はない、と思っている場所に、あんがい松茸がある。  ただし、「なさそうなところを探せばいいのだろう」と思って、砂漠や雑木林のなかを探しても見つからない。定説を疑いつつ、いつも「なにかおかしい」と気づく独特のカンが働かないと、松茸は見つからない。発明、発見も同じである。  カンは夢中になって仕事に打ち込んでいないと働かない。自分のなかに咀嚼した知識がなかったり、研究の流れを知らなかったりすると、カンの働きようがない。

    むかしからチャンスは前髪でつかめ、という言葉があるが、前髪でつかむためには平素から勉強していなくてはならない。

    いままでなにがわかっているのか、新しく出た現象がほんとうに新しいものなのか、新しくないのかが、わからなかったら、つかみようがない。いままでの知識がそのまま出てくることは、まずないので、いままでの知識を組み合わせたときに、それが新しい現象かどうかということが、すぐに判断できるまでに噛みこなしておかなければならない。そういう蓄積があって初めて、新しい現象に出会ったときに、ハッと気づくのである。

    定説にこだわって深く探ろうとしない人は、せっかくの発見の芽を見逃してしまう。  定説を深く理解していない人は、定説に反することが出てきても気がつかない。定説を深く理解していればこそ、こういうときにはこうなるはずだということがわかる。だからこそ、定説に反することが出てきたときにすぐに気がつき、発見をすることができる。

    しかしそれも、平素、夢中になって勉強していることがベースにあって、初めてひらめく。勉強しすぎるとダメだとか、あまり真面目に考えないほうがいい、というのはウソだ。真面目に考えているのが、たまにヒョイッと気を抜いたときに出てくることはある。

    世の中には一見遊びながら仕事をしている人もいるが、そういう人たちは遊んでいるように見えても、頭のなかは回転しているのである。  ふだん、なにも考えていないやつが、パッと思いつくことは、万にひとつもない。

    話が横道にそれたが、運転も、慣れはじめがいちばん失敗が多いと聞く。  そして何度か失敗を繰り返して、独特の運転カンが働くようになる。  つまり、継続することがカンを働かせるのに必要な要素になる。  私たちがいろいろなことを考えているときに、非常にムダだと思うのは、途中で思考をやめてしまうことである。忙しくなると、とくにそういうことを感じるのだが、途中までモノを考えていても、他の用事ができるとそっちへ行ってしまう。帰ってきたときには、そこからはじまらない。もう一度やり直す。

    そのためにも研究者は、メモの習慣をつけることが大切である。  私の先輩はノートをつねに持ち歩き、疑問がわくと、左側のページにその場ですぐ書き込んでいた。書いておくというのは、考えているということなのである。  そうすると便所で用足しをしているときも、風呂のなかでも、電車で通勤しているときも考えている。そのうちに読み返してみて、こんなのは間違っていたと思ったりする。そのときには今度は右側のページに書き込む。こうすれば思考を途中で中断することなく最後のところまで結論を持っていくから、非常に効率よく物事を考えられるようになる。

    ただ言うまでもないことだが、宝クジに当たったとか、竹ヤブの中から大金を拾ったとかいう、いわゆるタナボタ的な「運」とは、違う。やはり、それだけ努力をしているから、結果につながるのである。人に「あいつは頭がヘンになった」と言われながらも、自分の信念を曲げなかった。そのことが、半年の差で人に先んじて画期的なデバイスをモノにするという「運」に結びついている。

    数年前、私は中国の万里の長城を訪れてみて、自分の頭のなかと似ているなと思った。万里の長城は、実際そこに立ってみるとわかるが、城壁の高さは十メートルぐらいしかない。だから外敵が侵入しようと思えば、簡単によじ登れる。すると、あんなものをつくってもしようがない、ということになる。  ところが、行ってみてわかったことは、城壁の上は道路のように自由に歩けるようになっている。つまり兵隊が走りやすいのである。そこで思いあたったのは、万里の長城は、城壁としてだけでなく、通路として築造されたのではないか、ということだった。  攻め込んでくる敵は、侵入しやすい場所を求めて移動する。

全1件中 1 - 1件を表示

西澤潤一の作品

最近本棚に登録した人

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×