市民とは誰か: 戦後民主主義を問いなおす (PHP新書 22)

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  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569556956

作品紹介・あらすじ

「市民」のためと銘打つ政党が結成され、また、外国人ジャーナリストによる官僚社会批判が「市民運動」のテキストとしてベストセラーとなる現代日本。そこで描かれるのは、権力を我がものとする官僚VS.「市民」が主役の民主主義、という構図である。「市民」が、単なる「都市の住民」であることを超えて、神聖な存在に祭り上げられた思想的背景とは何だったのだろうか?戦後日本の思想の歪みを鋭く衝いた意欲作。

感想・レビュー・書評

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  • 西洋における「市民」という概念の歴史をたどることで、日本の戦後民主主義が理解する「市民」概念の歪みを明らかにした本です。

    戦後民主主義の中で、マルクス主義に基づく進歩史観が広く受け入れられ、「市民」という概念は共同体や国家からの解放された自由な主体を意味する言葉として受け止められてきました。そうした考え方は、私的な権利を主張し保護を要求する放埓な人びとを生み出してきました。

    しかし、西洋の歴史の中で「市民」という概念は、ギリシア時代のポリス以来の伝統を持っており、自分たちの共同社会を守るために戦う義務を負う者として考えられてきたと、著者は論じます。共同体を防衛することがみずからの生命や財産の安全につながるということを明確に自覚し、そのため「祖国のために死ぬこと」すら厭わない美徳を持った「市民」という発想が、西洋における「市民」の概念の中に息づいています。

    著者は、こうした西洋における「市民」概念の重層性を指摘するとともに、日本古来の精神の伝統としての「士風」を重視した福沢諭吉の、「一心独立して一国独立す」という考え方に、わが国における「市民」概念のあるべき形を見ようとしています。

  • 耳に心地いいだけの言葉に感じる「胡散臭さ」を足がかりに、日本・欧州の歴史を紐解きながら検証する。筆者の考えに同感するところ大。

  • 市民という言葉から、現代日本のかかえる問題を述べた本。
    1997年の本だが、今でも通用するようなことが書かれている。それはつまり、20年前と今で同じ問題をかかえているとも言える。

    日本で市民と言うと、権力や国家と対になるものと認識されているが、それは戦後社会がマルクス主義的な革命史観の中で作り上げた誤解を含む。

    結局は、ルソーの社会契約説に行き着くが、それがすべてなのだろうと思った。
    国家や社会に属する以上、権利を手放して権利を得る。人民は国家や社会に責任を負うものであり、対立する存在ではない。
    日本では人民の中に含まれる、臣民と市民という考えのうち、市民のみが切り離されている。本来は国家に責任を負う面も持ち合わせている。

  • 大学生の時に読んだ本。ヨーロッパにおける「市民」と日本における「市民」を比較して述べた本。
    同意できる部分と、同意できない部分があった記憶。大学生だった私にとっては、市民という実態的意味をポリスから遡って考えるきっかけ、そして公と私について考えるきっかけとなった本でした。ただ、少々まわりくどくて読みにくかった記憶。

  • 「個人を支えているものは、実は個人を超えたものである。」

  • もう10年以上前に書かれた本です。図書館のリサイクル市でもらってきました。佐伯先生の本はまだ3冊目くらいですが、どれも読みやすい。第5章「祖国のために死ぬ」ということについて。市民は国家に守られている。だから、その国家が脅かされていれば、それを守る義務がある・・・。こんな感じで書かれた憲法が多いようですが、日本の憲法はそうなっていない。私自身、「祖国のために死ぬことができるか」と聞かれれば、ただちに「NO」と答えるでしょう。日本という国に生まれ、日本文化の中で育ち、日本語でものを考えているのだから、日本がなくなってしまっていいとは思いません。しかし、それほどの強い思い入れがない。この辺、ヨーロッパやアメリカとはずいぶん感覚が違うのでしょう。いや、日本でも年代によってはずいぶん感覚が異なるのでしょう。さて、本書は9.11以前に書かれています。以後ならば書き方が少しは変わっていたのでしょうか・・・。

  • 著者は最近「反幸福論」などで話題を集めているが、基本的に氏の戦後民主主義に対する疑念・懸念に同じような考えを持っている。

     もともとはヨーロッパからの言葉を訳した「市民」が日本においては欧州と異なる定義・意味で使われている。一般に日本では市民は「自由・平等を求め国家からの束縛・義務を回避する民」を意味している。

     結局のところ端的に言えば、市民を強調する日本人は反抗期にある中学生のようなものなのである。保護され、教育され、囲われる立場にありながらしだいにカミソリのような脆い自我の目覚めを保護者との作用‥反作用によって確認していくものである。何故民主主義を明治期に導入しながら、戦後になって遅まきながら反抗期を迎えることになったのかについての考察は長くなるので後日したい。

  • (2011.11.04読了)(2010.10.02購入)
    【11月のテーマ・佐伯啓思を読む(その1)】
    何年か前に他の著者と間違えて「「欲望」と資本主義」を読んでみたら、面白かったので、佐伯さんの本を何冊か買い集めたのが、5冊ほどたまったので、まとめて読むことにしました。でも、この本は「はずれ」でした。
    最近の市民運動家は、国民や庶民と区別するように「市民」ということばを使いたがる。
    官僚の権力に対峙して市民の民主主義という形で使われるようです。
    市民には、国家に対する忠誠という考えはないようなので、西欧の市民という概念とは異なるようです。という風に論じていって、西欧の市民には、「重層的な歴史観」があるけれど、日本に持ち込むときに、「重層的な歴史観」は切り捨てられてしまったという。
    ところが、最後に福沢諭吉を持ち出して、日本にも同様の考えはある、といい出して、終わってしまいました。
    いったいなんだったんだろうと、唖然としてしまいました。
    この本の執筆は、著者のほうから持ちかけたのではなく、出版社からの誘いで書いた物ということです。どちらから持ちかけたかで、いい本ができるかどうかが決まるわけではないのでしょうが、この本に関しては、残念な結果のようです。
    この本で取り上げられている本で気になるものをいくつか書きだしておきます。
    「人間を幸福にしない日本というシステム」ウォルフレン著、1994年
    「都市の論理」羽仁五郎著、1968年
    「市民政府論」ジョン・ロック著
    「社会契約論」ルソー著
    「文明論之概略」福沢諭吉著

    章立ては以下の通りです。
    第1章、二十一世紀は「市民の時代」か
    第2章、戦後日本の「偏向」と「市民論」
    第3章、「近代市民革命」とは何だったのか
    第4章、ポリスの市民、都市の市民
    第5章、「祖国のために死ぬ」ということ
    第6章、日本人であることのディレンマ

    ●官僚批判の図式(15頁)
    官僚批判において、ジャーナリズムを中心に組み立てられた図式は、官僚の権力VS,市民の民主主義、という図式であった。
    悪いのは常に、権力をわがものとしている官僚たちであり、彼らは、善良な市民を主役とする民主主義を踏みにじっている、というわけである。
    ●ウォルフレンの主張(19頁)
    彼が主張するのは、「権力者」の行動を批判的に吟味せよ、ということである。「政治的主体」としての市民とは、権力的政治に対する批判的チェックを行うものを意味しているのである。
    ●羽仁五郎の夢(49頁)
    「万国の労働者は団結し、市民のたたかいが労働者の組織に守られて、一般的解放の運動が高まるとき、都市自治体は連合するのである。ルネサンスの自由都市共和国が到達しようとして果たし得なかった自由都市連邦がわれわれの現代の国家の新生の方向を示しているように見える」
    ●ソ連社会主義の崩壊(58頁)
    「社会主義」は、ヨーロッパでは、主として、社会主義政党によって指導される、いわゆる社会民主主義さす。だから、それは民主主義や平等を要求する運動の一つで、プロレタリア独裁という社会主義はない。これに対して、共産主義は共産党による一党独裁なのである。そこには民主主義はない。当然、市民社会もない。
    ●歴史発展の図式(64頁)
    多くの社会科学者にとって、古代的社会→封建社会→絶対王制→近代市民社会、という歴史発展の図式は自明のものであった。そして、その図式に立てば、近代社会の形成は、市民による絶対権力に対する抵抗、すなわち革命を経なければならないのである。ここに、権力に抵抗する市民層、権力に抵抗するものとしての民主主義という固定観念が形成されることとなる。
    ●フランス革命(78頁)
    欧州共通教科書によると、フランス革命の最も重要な意味は、各国にナショナリズムの観念を植え付けたことにあるのであって、自由や民主主義や人権の理念を打ち出した点にあるのではない。
    ●フランソワ・フュレ(89頁)
    フュレは、革命前夜のパリ・ブルジョワジーの社会史的研究を通して、正統派の言うような、ブルジョワジーと貴族層の対立などという事実はどこにも見られない、という。そもそも「絶対王制」という言葉で呼ばれるような強力な王権は存在しないし、「封建性」という名で呼ばれるような閉鎖的な貴族支配も存在しない、というのである。
    ●ルソー(145頁)
    「市民は、法によって危険に身をさらすことを求められたとき、その危険についてもはや云々することはできない。そして統治者が市民に向かって『おまえの死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死ななければならぬ」

    ☆関連図書(既読)
    「市民社会」清水幾太郎著、創元文庫、1952.10.30
    「大臣 増補版」菅直人著、岩波新書、2009.12.18
    ☆佐伯啓思の本(既読)
    「「欲望」と資本主義」佐伯啓思著、講談社現代新書、1993.06.20
    (2011年11月6日・記)

  • ヨーロッパにおける市民社会について歴史的考察も交えて述べてい ます。市民性については、やはりポリス的動物として市民の義務を果たす古代ギリシャの考えとロールズ流の権利としての市民性の対比を行っています。そして市民といえども選好意識、選民意識を伴っているとの指摘は当を射たものと思われます。

  • 何というか、無意識のうちに持っていたしこりを解いてくれた本だった。
    「日本人が西欧について表面的な理解しかしていない」確かにそのとおりである。

    市民という言葉しかり、公共という言葉しかり、自らの「勝手な」解釈によって本来の概念が持っていた意味や奥深さに蓋をしてしまった。

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著者プロフィール

経済学者、京都大学大学院教授

「2011年 『大澤真幸THINKING「O」第9号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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