悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

著者 :
  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569603094

作品紹介・あらすじ

ピアシング、拒食・過食、あるいは性。本来なら、ひとを癒し快くする行為が、身体への攻撃として現象している今。わたしたちは、なにか身体に深く浸透しているはずの「智恵」と「想像力」を失いつつあるのではないか。医療システムを通してしか関与できない非人称の身体と、フィットネスなどによって完璧に支配されるプライヴェイトな身体。引き裂かれた身体の状況をさまざまな角度から論じながら、他者との関わりにおいてこそはじめて存在する「身体」の本質について考える。

感想・レビュー・書評

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  • 情緒的自立の社会学 参考文献

  • 最終的には、『現代は身体に遊びの部分かま少ない』ということで、力みすぎ(拒食・過食等の摂食障害やストレス等)と、ゆるみすぎ(うつ病等)の、極端な身体状態が問題で、もっとバランスが取れないとまずいですよ~、ということが言いたかったんだと思います。
    まあそれにしてもダラダラ文章が進んで、イマイチ分かりづらかったです。
    僕の評価はAにします。

  • 現代において、身体を自分のものとして、コントロールしようとする行き過ぎたダイエットや整形といった問題の構造を分析したり、身体に対しての考え方、命に対しての考え方の変化がなぜ起きてきたのかといったことに関して筆者なりの分析で記されている。全てが納得いくものではなかったが、これを元に、自分で考えてみるのもよいと思う。

  • 2017/05/07

  • 興味深いテーマなんだけどこの著者の言葉づかいは難しく読み勧めるのが結構大変。

    依然読んだ「『待つ』ということ」もそうだったがこの著者の文章は自分には合わないのかもしれない。

  • 著者は、人間においての「自然」である身体が、過剰に観念化され硬直してしまっている現代の危機を「パニック・ボディ」と名づけています。

    「幸福とはなにか」という問いに対し、著者は「幸福について考えずにすんでいること」と答えます。同様に、身体もそれが機能しなくなってはじめて、その存在が意識されるようになります。ところが現代人は、健康や美容の観念にとりつかれ、身体をみずからの意識の支配のもとに置こうと努めています。これは、「身体」が自然にもっていたはずの適度な「ゆるみ」が失われてしまっていることを意味していると著者は考えます。

    さらに、身体はその振る舞いを通じて、われわれが世界とつながることのできる厚みをもった媒体だと考えることができます。われわれは出産から死に至るまで、家族の中で身体的な相互交渉を通じて、ある原初的な「親密さ」を獲得しており、これが人間社会における「信頼」の根底をかたちづくっていると著者は考えます。こうした「親密さ」が喪失すると、社会の「信頼」は単なる観念となってしまい、脆さを露呈することになります。

    また著者は、マルセルの『存在と所有』の議論を参照しつつ、近代的な所有権の観点から身体を把握することの抽象性を指摘し、逆に有機的な媒体としての身体が、自己を世界へと「劈く」可能性を示唆しています。このように自己が「劈かれ」ていくところを、著者は「いのち」と呼び、その豊穣さを、「飢えて死にかけている息子に「おい、俺を食え」と呼びかける父親、誰かの死に際して死路の道連れになれたらと自害する人、あるいはおのれを献身という行為のなかに置く殉教者」などの印象的な例を通じて示そうとしています。

  • タイトルと目次から期待して手に取ったのだけども、苦痛になるくらい読みにくい本だった。
    僕のオツムではなかなかついていけない内容だった (l´Д`)。

    けども、時折ひびく言葉や解説に宝物を感じた部分もあり、読んでみて、まぁ良かったかな。
    身体とはなにか、ますます分からなくなってきた。
    もうすこし、メルロ・ポンティの話をてんかいしてくれると思ったのだけども、そうもいかず、なかなか喰えぬ内容だった。

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    【内容(中央公論新社より)】
    ピアシング、拒食・過食、あるいは性。本来なら、ひとを癒し快くする行為が、身体への攻撃として現象している今。わたしたちは、なにか身体に深く浸透しているはずの「智恵」と「想像力」を失いつつあるのではないか。医療システムを通してしか関与できない非人称の身体と、フィットネスなどによって完璧に支配されるプライヴェイトな身体。引き裂かれた身体の状況をさまざまな角度から論じながら、他者との関わりにおいてこそはじめて存在する「身体」の本質について考える。
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    【著者略歴 (amazonより)】
    鷲田/清一
    1949年、京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。関西大学文学部教授、大阪大学大学院文学研究科教授、同研究科長・文学部長等をへて、現在、大阪大学理事・副学長。専攻は臨床哲学。著書に『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『モードの迷宮』(サントリー学芸賞)など、多数
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    【目次】
    第1章 パニック・ボディ―身体がアブない。
    第2章 からだの経験―身体はいつもアブない。第3章 からだの幸福(間奏1)―身体には想像力がある。
    第4章 生の交換、死の交換―もはやだれのものでもない身体は、もう少しアブない。
    第5章 からだのコモンセンス(間奏2)―身体には智恵がある。
    第6章 「ゆるみ」と「すきま」―ひたすら(わたし)であろうとする身体が、いちばんアブない。
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  • 健康であることを強迫されているという感覚にははっとした。特に日本人は真面目で、集団心理が働きやすいためか。
    患者さんを看ていくうえで、自分の健康主義を押し付けないようにしたいと思った。
    人間の身体はその個人自身のものでありながら、社会的存在であるがゆえに社会のものでもある。

  • 身体は誰のものか?
    わたしのもので、わたしが自由にしていいのか?

    答えはノーである。

    いのちが宿る身体。
    いのちはいのち相互のやり取りによって生きられている。
    そのことからいのちが私個人のものなどではあり得ないことが導かれる。

    わたしの身体がガチガチで悲鳴をあげているのは、わたしがあまりに観念的であるからのようだ。わたしの未熟な観念で私の身体を縛り付けているということのようである。

    そうであれば無私を目指すべきなのだろう。いやまったくの無私というのではなく程々の欲望ということだろうか?

    Mahalo

  • 実は読みやすい鷲田清一

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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