- Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569620275
感想・レビュー・書評
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【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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久しぶりに落ち着いた環境で読めました。
9.11が衝撃的であったのは、思想家連中であった。
考えないといけない。この先の未来のために。
「総括しろよ」と組合系のOBが言う。
「わしゃあ、20年前から言うとったんじゃ」と重鎮の論客
「FukuYamaは外しおって!ダハハっは」
「ようやった!」
「これで靖国にご報告できる」
今後2世紀は教科書に掲載される事でしょう・・。
近代革命→産業革命・米国の台頭→東西冷戦
→ベルリンの壁崩壊→台頭する民族主義→EUの失敗・
資本主義の限界→イスラムあるいはアジアの台頭 -
ウェルス・ゲームにおけるグローバリズムへの流れが確かなものとなっていく一方で、アイデンティティ・ゲームにおけるパトリオティズムの吹き上がりを、「ネーション」ではなく「エスニシティ」に照準を合わせることで解き明かしています。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』以降、国民国家が近代のフィクションであるという認識が一般的になっています。一方、中西輝政に代表される文明論者は、日本が一国一文明だという見方に依拠して、日本のナショナル・アイデンティティを確立しようとしています。これに対して著者は、日本文化には中華文明のような普遍性が認められないと批判し、他の文化と出会いによってエスニシティへの目覚めが生じ、言語や文学を通じて「民族の記憶」が伝えられてきたことに、日本のアイデンティティの根拠を求めようとしています。
グローバル時代における民族意識の高揚をアイデンティティ・ゲームとして捉えようとする著者の意図はよく分かりますが、それをミーム(文化的遺伝子)の議論に還元してしまうことには、少し疑問を感じます。こうした見方をすることで、事実のレヴェルにおける状況の推移として捉えられた限りのアイデンティティ・ゲームの実態を解明することはできるでしょう。しかし、アイデンティティの確立を志向する私たちの価値へのコミットメントの内実に分析のメスを入れることができなくなってしまうように思います。
端的な例をあげると、たとえば本書には、歴史教科書を書き換えることでアイデンティティを確立しようとしている日本や台湾の試みに触れられていますが、そこでアイデンティティの確立がめざされる「べき」だと考えられていることを、どのように捉えればよいのかということです。ミームの布置状況を追いかける「アイデンティティ・ゲーム」という枠組みでは、社会的な活動の価値への志向を分析の対象とすることはできないように思います。