日本人としてこれだけは知っておきたいこと (PHP新書)

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  • PHP研究所
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レビュー : 87
  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569648446

作品紹介・あらすじ

なぜ日本人は戦前を否定するのか?なぜ「歴史」を社会科で教えるのか?日本人が天皇を必要とする理由は?-六〇年前の敗戦をきっかけに、明治も江戸も古代までも全否定する奇妙な歴史観が、この国を支配してきた。しかし、近現代世界はいま大きく変動している。戦争の真実を物語る機密文書も公開されはじめた。「この国のかたち」を描くために、私たちはいま何をすべきか。積み重ねられた「戦後の嘘」を打ち捨て、日本文明の核心を捉えることで、日本人のアイデンティティを真正面から問う。

感想・レビュー・書評

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  • 保守の論客である中西輝政氏(京都大学名誉教授)の本。まず、中西氏は現在の日本人が「日本とはどんな国なのか」という「日本の自画像」をはっきりと持てずに漂流していると指摘する。そして、その原因は未曾有の敗戦とアメリカによる占領政策にあったとして、日本人が戦前を否定するようになった理由、積み重ねられた戦後の嘘、日本が太平洋戦争に突入した理由について述べる。そのうえで、「日本文明の核」、つまり日本の歴史を貫いて連綿と持続し、今後も文明としての日本の軸となり「自画像」の中心テーマであり続けるものとして、「天皇」と「日本のこころ」について論じる。2006年に発行されてから版を重ね続けている本だが、タイトルのとおり、中西氏が最も言いたいことをまとめたのが本書なのだと思う。

    【印象的な内容の要約】
    ◆GHQによる歴史教育の否定
     アメリカによる初期の対日占領政策は、一言でいえば日本が再び「米国の脅威」にならないよう徹底的に日本の弱体化を図ることにあった。このため最重要課題は、何よりも日本人を精神的に弱体化させること、すなわちその歴史とアイデンティティを奪うことにあった。アメリカは日米戦争で日本人が示した驚異の自己犠牲精神を一番恐れた。それに比べると、「非軍事化」と「民主化」は付け足しのようなものだった。
     『神道指令』の目的は、神道に加え、皇室の伝統、歴史教育を全面否定することだった。
     「社会科」は昭和22年に新設された科目で、その目的は社会にとって「よき市民」、つまり占領軍、アメリカにとっての「よき市民」を育てることにあった。アメリカ流の「民主主義」や「個人主義」を日本人に徹底的に注入するものとして誕生した。その一方で、独立した「歴史」という教科は廃止され、占領軍が植えつけた戦後イデオロギーの枠内で許されるもののみを「歴史」と称して教えることになった。

    ◆「国際化」という嘘
     「グローバリゼーション」という言葉も使われるが、「国際化が進めば国境がなくなり、世界は一つになる」というのはまったくの嘘、幻想だ。最近の「国際化」論は、「過去の日本を全否定して多民族社会に移行していけば生きやすくなる、そうすればスムーズに国際社会の一員として温かく迎えてもらえる」とささやきかける。しかし、そもそも国境をなくすことなど決してできはしないし、そんなことは「EU統合」を進めるヨーロッパ含め、どこの国も考えていない。「日本的なもの」に固執するとまたあの悲惨な戦争につながる、だから「日本」というものを可能なかぎりなくしてゆくことが「国際化」であり、「アジアとの共生」につながるのだ、だから「日本の伝統的なものはどんどんなくなる方がよい」と少々大げさに言ってもよい―浅薄な「国際化」論者の心の中はこういう構造になっている。

    ◆戦後日本は社会主義の実験場だった
     GHQは「農地改革」に「財閥解体」、アメリカにもないほど社会主義的な「労働組合法」を推進した。これらは当時のアメリカ社会からすると暴挙に近い改革、革命だった。これはホイットニー民政局長やケーディス民政局次長らを中心に、とくに文官からGHQに入った人々の中に社会主義的理想を持った人たちが非常に多かったからだ。
     アメリカの対日占領政策は「国際版ニューディール」であるとよく言われるが、むしろ1920年代にアメリカで猖獗を極めた共産主義思想の雰囲気が色濃く漂っていた。これは、アメリカでは弾圧されたアメリカ共産党の残党がGHQに潜り込み、本国でできなかった社会主義を日本で実現し、その成果を「アメリカ革命」につなげようとしたからだ。そして、日本の「近代化」、「民主化」というのはその隠れ蓑にすぎなかった。
     日本もまた、大正時代から共産主義、社会主義的思想が跋扈した国だった。大正に入ると日本の議会民主主義は共産主義の影響を受けておかしくなり始め、昭和初年には治安維持法があったにもかかわらず社会主義的言説がメディアを席巻していた。大正デモクラシーから始まった知的世論とエリートの社会主義化の流れが、昭和の初めにはすでに常軌を逸したところまできていた。こういった社会主義、共産主義の思想を持った言論界、政界、学界の中心人物たちが戦中の弾圧による挫折を経て、「戦後日本の民主的リーダー」として復活した。彼らにとって敗戦とは、社会主義の理想を追求する絶好の機会であり、日本の敗戦は彼らにとっては取りも直さず「解放」、「勝利の到来」だった。
     「新体制運動」を利用して日本の社会主義化を図った「革新官僚」たちもGHQに追放されることなく、戦後大ブレークした。
     その後の日本が、「ゆりかごから墓場まで」のイギリスよりもさらに行き過ぎた福祉国家の道を歩んでいったのは、ある意味で当然だったともいえる。

    ◆「青い山脈」的理想主義
     国民の側にも指導者層の社会主義的理念を受け入れる精神的な素地があった。中西氏は「赤い星と青い山脈」という表現をする。当時は、悲しいことは全部人生からなくしていける、憧れというか、過剰なまでの脱歴史的期待感というか、理想の日本がいますぐ、そこまで来ているといった気分が横溢していた。これが「戦後理想主義」の姿だった。しかし、その裏には反戦と結びついた社会主義礼賛の風潮が隠されていた。
     「戦後理想主義」は、宿命から目を背けることで成立する「宿命拒否の理想主義」だった。あるいは、ともかく理想を掲げることはいいことだといった理念なき理想主義、「事なかれ理想主義」といってもいいかもしれないが、これは今日までずっと続いている。
     日本人らしい「真面目さ」を根幹に抱えていたため、「青い山脈」的理想主義は、容易に社会主義的理念や左翼の主張を受け入れていった。根がウブだったから、左翼や社会主義を唱える人がどうしても真摯な人物に見えてしまう。これが恐ろしい罠だった。

    ◆近・現代世界は六〇年周期で大変動する
     歴史の評価は時代によってめまぐるしく「善玉・悪玉」が入れ替わるものだ。歴史は現体制を正当化するものという側面があり、また無意識に現状を出発点として振り返るものだからだ。近代には歴史観は60~70年周期で大変動する。
     また、どんな出来事も最低60年くらい経たなければ本当の意味で歴史にはならない。戦争や革命といった世界を揺るがす出来事になればなるほど、このことは当てはまる。その理由は、そもそも近現代の世界そのものが、ここ300年ほどの間はおよそ60~70年の周期で大変動しているという事実だ。次に、最低60年ぐらい経たないと重要資料が公開されないことがある。さらに、世代的にも子の世代を超えて孫の世代へと交代し、個人的な怨念や主観から自由になれるということがある。

    ◆フランクフルト学派――OSSの日本「革命」戦略
     CIAの前身のOSS、なかでも調査研究部局(R&A)は対日占領政策にも重大な影響を及ぼした機関だが、これはフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者の巣窟だった。彼らは旧来のソビエト型革命論に批判的な「先進国革命論」を提唱した。すなわち、伝統的な文化や歴史観、家族観、人間関係といった人々の社会生活、精神生活の根底をなす価値観や制度、つまり人間社会にとってまっとうで落ち着いたもの、本来人生にとって支えとなるものを壊していけば、人間は内部から徐々に崩れ漂流するマス(大衆)になる。これが結局、社会秩序を根底から混乱させ崩壊させる。その結果、新しい秩序をつくる革命が可能となるという、例えばジェンダー・フリーのような革命戦略だ。フランクフルト学派の新しい革命論はニューディール時代のアメリカで流行した。

    ◆軍人が蔑視された大正デモクラシー
     1920年代の日本は、今とまったく同じ議会民主主義に基づく政党政治を行っていた。「日露戦争以降、軍部が威張り暴走した」などというのは、特定の目的のために意図的に人を欺くまったくのデマゴギー的歴史観だ。それどころか、大正デモクラシーの時代は、いわゆる軍縮の時代で、軍人が制服を着て東京の街を歩くのが憚られるほど、軍人は忌み嫌われた。軍人にとっては非常に肩身が狭い、軍国主義とは無縁の時代だった。むしろ軍縮を通り越して社会主義思想などが非常にもてはやされた時代だった。

    ◆最大の国難――中国問題
     この時代の日中関係を考えるときに、絶対に失ってはならない視点はソ連の存在だ。日本と中国の衝突が泥沼化してゆくのは、実はソ連によるところが大だった。ソ連は革命政権樹立直後から、一国だけでは世界中から包囲され生き延びることができないと重大な危機感を抱いていた。そこでコミンテルンをつくり、共産主義の革命団体を世界中につくり出し、すべてをモスクワからの指令によって動かし、各国の内部を混乱させ共産革命を引き起こそうとした。まず、1920年代前半はヨーロッパでの共産革命を目指したが、これは失敗に終わった。「先進国革命」は難しいと判断したソ連は、次にインドをターゲットとしたが、これもうまくいかなかった。そこで最終的に行き着いた革命の輸出先が中国だった。当時の中国には多くの列強が利権を有していたため、ここで革命を起こせばこれらの帝国主義諸国、つまりソ連の敵にまとめて大きな打撃を与えられると考えたのだ。「是が非でも中国に革命を起こせ」というのがレーニンの最後の遺言だった。
     こうして、コミンテルンは中国国民党を率いる孫文に接近し、次々と大物工作員を中国に送り込んだ。1923年の孫文=ヨッフェ会談では、ソ連が中国革命のために資金、武器、リーダー養成に莫大な援助を与えるという秘密協定が結ばれた。
     その結果、1924年には国民党第一回大会で「連ソ、容共」路線が正式に採択され、第一次国共合作が図られた。
    孫文の大きな過ちは、ソ連に依存して国民革命を遂行しようとしてしまったところにあったといえる。いったん共産党と仲良くすれば(共産党のいう「統一戦線」を組めば)、いずれ共産党が力を持ったところで乗っ取られ粛清されるのは、ロシア革命を見ても明らかだった。この国共合作が、1949年の中華人民共和国成立につながっていく。

    ◆南京事件――幣原の軟弱外交
     英米両国は日本に共同歩調をとるよう呼びかけたが、日本の砲艦だけは発砲に加わらなかった。これは、中国を刺激してはいけないという訓令があったためで、日本の軍艦は避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下流に向けて逃げ帰った。英米などはきちんと国際法の自衛権を発動して正当に軍事力を行使しているのに、日本だけが日支友好に反するとして本当の国際協調に背を向けることになった。
     こうして、日本も大被害を受けていたにもかかわらず、日本だけは報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めた。このことは、中国共産主義運動、過激化する中国ナショナリズムからは「ちょっと暴れれば日本人は逃げていく」と、とても弱腰に映った。その後、中国革命運動の矛先は一気に日本へと集中していくことになった。
     また、漢口事件、南京事件と続いた国民革命軍の略奪暴行行為に日本がまったく報復を試みなかったことは、英米両国に「日本は裏で中国とつながっていて、白人の権益を全部中国から追い出してひとり甘い汁を吸おうとしているのではないか」と疑心を抱かせた。こうして、1927年にイギリスはアヘン戦争以来の政策転換である「クリスマス・メッセージ」を発した。それまで、共同租界の実権を握り、列強の中でも最も強圧的で強硬派として利権に執着していたイギリスが、日本の野心を強く疑い始め、日本以上の対中融和へと大転換した。その狙いは、このままではイギリスが中国革命運動や過激化する中国ナショナリズムの標的になってしまうので、それを避けるために、中国人の矛先を日本に向けさせることだった。こうして、中国の革命運動、過激なナショナリズムは、このあと日本に矛先が集中するようにセットされてしまった。

    ◆「不行動」という最悪の選択
     1931年に入ると、もう満州の日本企業や日本人は営業をしたり、日々働くことさえ難しくなっていった。満鉄では、枕木を抜かれるような事件も頻発。満鉄の付属地の外にいる日本人は、度重なる営業妨害でまったく商売ができなくなって、付属地の中に逃げることとなった。日本人経営の工場で働いているだけで、労働者や工員が警察に捕まる始末だった。
     日本人経営者は毎日のように日本総領事館に訴えたが、交渉相手の満州地方政権、張学良は事実上交渉を拒否した。仕方なく、日本政府は厳重に抗議するばかりで、それ以上の行動は何も取らなかった。このため、満州事変直前には、「日支懸案三七〇件」という言葉が毎日のように内地の新聞に出てくる状態となった。
     そこで、日本政府、すなわち幣原外交恃むに足らずとして、在満邦人は結束して多くの団体や結社をつくり、関東軍に直接働きかけるようになった。在満邦人の我慢も限界となっていった。
    その後、中村震太郎大尉虐殺事件、万宝山事件が立て続けに起こったが、ここでも幣原外相は日支友好という持論に固執して全く動こうとしなかった。そして、この日本政府の不行動が対中関係を後戻りできないほど劣悪化させることとなった。こうなっては、もはや満州事変を食い止めることは不可能だった。

    ◆誤れる選択の陰にコミンテルン
     尾崎秀実らは、コミンテルンあるいはソ連の工作員としての立場を隠し、近衛内閣のブレーンとして日本の国策決定に参与した。彼らが昭和12~16年あたりに口にしたスローガンを見ると、当時の言論界でもっとも侵略主義的なことを言っていたのがわかる。盧溝橋事件が起こると、「断固支那を制すべし」、「蔣介石を無視し親日の支那をつくれ」、「南京そして漢口占領の作戦をやるべし」等々と、中国大陸の戦争を意図的に泥沼化するようなことを言ったり、日中戦争が狙いどおり泥沼化すると、今度は日本と米英の対立を深めるべく「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」といった標語をつくったりその中身の肉付けをして、日本を対米戦争へと追い込んでゆくような活動を積極的に行った。とくに彼らは、しきりに軍部に言い寄り、侵略的な政策を日本の新時代の戦略であるかのように言葉巧みに政策化して売り込んでいった。日本を展望のない対米戦に追い込んで破滅させ、その敗戦の混乱を利用して日本に革命を起こさせようとしたのだった。
     また、日中の和平工作の破綻過程で必ず顔を出してくるのが、尾崎や統制派の将校たちだ。尾崎はソ連のスパイだったが、この人たちは社会主義者だった。「資本主義経済は誤った自由主義を生み出すから認めない」、「天皇の下、すべてが平等の経済システムをつくるのが、皇道経済だ」とわけのわからないことを言って、ソ連型の統制経済を推し進めた。左翼のイデオロギーと国粋主義との奇妙で不自然な野合が起こったのは、その裏で、ソ連の工作員や隠れた共産主義者が双方に握手をさせていた構図だったのだろう。

    ◆アジア主義の誤り――聖徳太子に学べ
     日本は中国とどう付き合うべきだったのか。それは、聖徳太子によって大昔に示されている。聖徳太子は、隋の煬帝に送った国書で「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と述べた。聖徳太子のいわんとしたことは「対等」に尽きる。中国が力をつけどんなに大国になっても日中はつねに対等、国が乱れどんなに小国になっても対等という日中関係における不動の原則だ。外交関係において対等という考え方は、どんなときにも大切なことだ。
     これは現在でいえば「相互主義」だ。「目には目を、歯には歯を」、「ギブ・アンド・テイク」というのが国際社会の根本原理であるため、どんな場合も一切の感傷を排して厳格にこの「相互主義」を守らなければいけない。そうしないと、後で必ずもっと深刻な対立を引き起こすことになる。国際関係では、国内とは違い、つねに一切の感情を排したドライな対応だけが平和と友好を保証する手立てなのだ。
     もう一つ重要なのは、聖徳太子は仏教という当時の国際社会全体に通用する価値、ものの考え方を日中関係の基準に捉えようと提案したことだ。「対等」を確保するためにはどちらか一方の価値観に偏せず、いわばグローバルな価値観に委ねようという、きわめて普遍的で優れた外交の知恵がそこにはある。
     世界の中で日中関係を設定して、世界に通用するルールの中で、冷静かつドライにどんどん強く自己主張してゆくことが大切なのだ。国際社会では情に流されたり、対立を避けようとして主張しないことこそが、平和を失うもっとも危う近道なのだ。そして、つねに正々堂々、理にかなった議論をして諸外国を味方に確保しておく。これが中国と付き合う一番いい方法、歴史の中で唯一成功した方法なのだ。
     中国は、アジアといっても、まったく独特で、他のアジアとの共通性が非常に乏しい「中華文明」というものを根底に持っている。日中間には人間性に関する基本的な価値観については、西欧諸国と日本の間よりももっと大きな差があることは、つねに忘れてはいけない。法律、条約、契約、約束に対する感覚は、日本と西欧がほぼ同じなのに、中国はまったく異なる。「同じアジア人」という意識を持ってはいけないのだ。
     「アジア主義」こそ、昭和の日本の針路を狂わせた一番の魔物だった、といってもよい。それが証拠に、1930年代、日本をもっとも敵視していたスターリンのソ連は、コミンテルンを使った秘密工作によって、日本の世論や政界・軍部に、集中的に「アジア主義」の思想を吹き込むことを大戦略にしていた。その結果、日本は空疎な「アジア解放」を信じて米英と正面衝突を起こしたのだった。われわれは国際社会でうまく生き残っていくためには、「アジア」という言葉によほど心しないといけない。

    ◆皇室存続をめぐるGHQとの攻防
     外国の王室を潰すには三つの方法がある。一つ目は戦争で打ち負かすこと、二つ目は民衆に民主主義を吹き込むこと、三つ目は王位継承者を絶やすことだ。この方法で、ハワイ王室、中南米の王室がすべて潰されてきた。マッカーサーは、第三の方法、皇位継承の資格者を局限することで皇統の断絶を狙った。
     アメリカがいっぺんに日本の共和国化を図らなかったのは、天皇について当面、占領政策で利用する価値があると考えたからだった。それに、皇室を廃止すると日本人はいっぺんに共産主義に走る危険がある。だから、天皇は共産主義の抑えとしても使えると読んだわけだ。また、日米戦争の末期、日本の敗北は明らかなのに玉砕覚悟で突撃する日本人の「天皇信仰」のすごさをいやと言うほど見せつけられたことが大きかった。このため、だからこそ皇室はなくさなければならないのだが、迂闊に廃止するとアメリカは日本人の大反撃をくらうと考えた。だから、搦手から、つまり一方で「民主主義を吹き込み」、他方で「皇位継承者を徐々に絶やしてゆく」という戦略をとった。
    こうしてアメリカが編み出した作戦が、皇位継承者と皇室財産の両面で皇室を追いつめる「立ち枯れ作戦」だった。この作戦は、いまでもボディーブローのように効いている。今回の「皇位継承の危機」と言われた事態の根源は、戦後、皇位継承者の範囲を極限してしまったことに尽きる。戦前と戦後で決定的に変わったのは、大幅な宮家の廃止だ。天皇は利用価値があるので残す、しかしその藩屏となる宮家、華族は徹底的に解体する。これがGHQの皇室弱体化戦略だった。
     一方、ソ連もまた別の角度から「立ち枯れ作戦」を展開した。日本国憲法第一条がそれだ。ただし、前段の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて」ではなく、後段の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の部分だ。ここの部分を作成したのはソ連だ。アメリカは前段だけで十分と考えていた。天皇を象徴としておけば、国家元首でもないし統帥権も持たないのだから脅威は取り除かれるとアメリカは思っていた。しかし、ソ連は国民主権とはっきり謳うよう、後ろから猛烈に突っついた。モスクワでは、この象徴としての天皇の地位も国民の主権に基づいていると明文化しておけば、天皇制は必ず廃止できると考えたのだった。例えば、日本の左翼を使って世論を操作し、国民をうまく誘導して「国民の意思だ」と称すると、アメリカの意向を超えて、将来天皇制そのものを廃止できるという「リモート・コントロール作戦」をスターリンは考えたのだと思われる。ソ連がそれほどまでに天皇制廃止に強い執着を見せたのは、「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様に帝制の打倒がカギだと考えたからだ。日本がアメリカ陣営に組み込まれても、天皇制廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念だった。そこから、戦後日本では左翼・左派陣営は一貫して、不自然なほど「反天皇」、「反皇室」を叫び続けることになる。

    ◆戦後占領政策の一環だった『菊と刀』
     戦時中に敵として叩きつぶさなければならない日本人に対し、馬鹿げた独自の「恥の文化」や「暴発しやすい日本人」を強調するために書かれたのが、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』だった。例えば、日本人旅行者は西洋人に比べて旅先で行儀が悪い。これは日本人が外聞だけを気にして行動する「恥の文化」だから、「旅の恥はかき捨て」と考えるからだ。これに対し、西洋人は内部の良心の働きに基づき罪の自覚を持ちつつ行動する「罪の文化」だから、人が見ていようといまいと旅先でも一貫した行動をする。これが、『菊と刀』の「恥の文化」論だ。すなわち、西洋=「罪の文化」=「内部の良心の働き」、日本=「恥の文化」=「外部の世間からの強制」という二分法で西洋と日本を対立的に捉える比較文化論だ。
     「恥の文化」論と並んで日本人を呪縛した『菊と刀』のもう一つの論点が「暴発」論だ。日本人の国民性は奇怪至極な矛盾に満ちている、すなわち、あの礼儀正しく従順で寛容な日本人が、なぜ時として正反対の方向に暴発してしまうのか、という問題設定がされた。
     ベネディクトは、日本人には「菊と刀」の二面性があると見なした。つまり、「菊」と「刀」が一体となった総合の中に日本文化の神髄があるにもかかわらず、これらを単純に互いに矛盾するものと決めつけた。このため、あとは「暴発」という概念を用いるしかなくなり、文化論として破綻をきたすことになった。彼女は、この「矛盾」に対して、精神病理学の手法を用いて次のような「答」を見出した。つまり、日本人のように、幼年期に甘やかされて育てられた子どもが思春期に達して急に多くの拘束や抑圧を受けると、それが大きなトラウマとなって成人した後も心の奥底に潜み、あるとき、一気に暴発する、と考えた。
     実は、『菊と刀』も対日戦争・占領政策の一環として取り組まれた文化研究の一つだった。ベネディクトは、連邦政府の諜報機関である戦時情報局(OWI)から国民性研究チームの一員として日本研究を手がけるよう依頼されたのだった。

  • ●戦後の占領政策、その根幹をなす皇室弱体化や歴史教育が我々日本人に与えた影響がいかに甚大であったかを学べた。

  • よく言えば「愛国心にあふれた本」、悪く言えば「かなり右よりな本」でした。天皇はすごい、大戦は間違っていないetc... 右でも左でもいいんだけど、筆者の推測によるミスリードが多すぎる。

  • 名著です。タイトルと中身が全然関係ない気がするが。

  • 戦後レジームからの脱却が謳われる今日において、一読に値する書。戦前を見つめ直すに当たっての、いや日本という国を再度捉え直すきっかけとなるものだとおもう。知らず知らずのうちに、教育に打ち込まれた自虐史観においての恐怖と、今まで脈々と受け継がれてきた日本人の在り方を考えさせてくれる。

  • ここ2・3年、「日本のいいところをもっと見直していこう!」という動きが盛ん。
    この本は2006年の出版だけど、そういう方面に興味ある方ならばきっと興味を持って読めるでしょう。
    「ほ~」という内容もあるけど、あまりにも内容が右寄りな気もするので、すべてを真に受けるのはよくないかも。。

  • 『実際、九条からは無数に「言葉の嘘」が派生しました。日本軍を「自衛隊」と言い換え、歩兵を「普通科」と言い換え、戦車を「特車」と言い換えた。駆逐艦を「護衛艦」と言い換えたのなどは、ただただ馬鹿馬鹿しいというしかありません。

    つまり、戦後の日本は、真実そして根本にある問題から目を逸らそうとする、いわば「その場しのぎ」の精神構造から始まってしまったわけです。そして、問題の直視を避けて「嘘の上に嘘を上塗りする」傾向は、その後も延々とくり返されることになります。』

    政治、宗教、ジェンダーに関してはSNS上では沈黙するに限るが、最近話題の分野について、教養として保守系の論客の意見も読んでみました。

  • 日本人として、もっと正しい(偏りの無い)歴史観を持つべきだと感じた。あまりにも戦後のアメリカの占領政策で、骨抜きにされた印象を持った。

  • 文字通り、日本人として知るべきことを記した一冊。

    丁度終戦記念日のこの時期に読んだのだが、著者の論説は世間的には右寄りと言われるものだが、頷ける部分が多かった。
    改めて天皇制、そして日本の国体のあり方について色々と考えさせられた。

  • 戦後、私たちが喪ったものはあまりにも大きい。公教育でばら撒かれる歴史の捏造。歪められた皇室観。反日を是とする風潮。護憲派の偽善。私たちの「常識」は、すべてGHQの洗脳の産物である。ここから抜け出さないと日本民族は滅んでしまうのではないかと肩を落とす本。しかし、近年、ヴェノナ文書に代表される機密文書の公開が進み、真実がそのヴェールを脱ごうとしている。かつてケネディはこう国民に訴えた。「国家が国民に何かを為すことを期待するのではなく、国民が国家に貢献できることを考え行動して欲しい」と。真実が白日のもとにさらされつつある今日、日本人が自律して行動する時にさしかかっている。彼が問いかけたように。ただ、一連の情報公開で彼が容共主義者と暴かれないことを祈るのみである。余計なお世話だが。

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著者プロフィール

中西 輝政(なかにし・てるまさ)昭和22(1947)年、大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。ケンブリッジ大学大学院修了。京都大学助手、三重大学助教授、スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学教授を経て、京都大学大学院教授。平成24(2012)年に退官し、京都大学名誉教授。専門は国際政治学、国際関係史、文明史。平成2(1990)年、石橋湛山賞受賞。平成9(1997)年、『大英帝国衰亡史』(PHP研究所)で第51回毎日出版文化賞・第6回山本七平賞を受賞。平成14(2002)年、正論大賞受賞。近著に『アメリカ帝国衰亡論・序説』(幻冬舎)、『国民の文明史』『日本人として知っておきたい「世界激変」の行方』『日本人として知っておきたい外交の授業』『新装版 大英帝国衰亡史』(以上、PHP研究所)、『チャーチル名言録』(扶桑社)などがある。

「2018年 『日本人として知っておきたい世界史の教訓』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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