なぜ、働くのか―生死を見据えた『仕事の思想』 (PHP文庫)

著者 :
  • PHP研究所
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レビュー : 43
  • Amazon.co.jp ・本 (159ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569668635

作品紹介・あらすじ

もし、あなたが「明日、死ぬ」と宣告されたら、今日という一日を、どのように生きるだろうか?あなたは、二度と戻らぬこの一日を、精一杯に生き切っているだろうか?本書は、働くことの意味を、生死の深みにおいて深く静かに語った、著者渾身の講義録である。「使命とは、与えられた命を使うこと」など、これまでの仕事観や人生観を根底から覆す、すべての働く人々にとって、必読の一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 仕事には、現実に流されないための錨である思想が大切である。
    思想をつけるためには、死生観、世界観、歴史観が必要である。

    ということを、説いている本。


    生きていく上で、働く上で、必要な考え方を教えてくれる本であり、
    これから、自分に迷ったときは、この本を読み返そうと思う。

  • ◆結論 ~ 星の数 ~
    ★★★★★:座右の書である、または、座右の書とすべきである(2%)

    ◆書評
    警告!この本は深いです。深過ぎます。なのに読み易いです。相反すると思われるこの二つの要素を非常に高いレベルで備えている稀な本です。読むのが速い人なら40分で読めます。私はこの本が大好きで、10回以上読んでいます。さて、あなたに問います。あなたは「生死の深みから働くということを考えたことがありますか」(150字)

  • あなたが、今、余命一ヵ月と宣告されたら、残された時間をどのように過ごすのでしょうか。一日一日を精一杯生きるのではないのでしょうか。我々は、実際にこれと同じ状況におかれているのです。一ヶ月か、数十年かの違いがあるだけなのです。あなたは、どのような覚悟でこの残された時間を使っているのでしょうか。と、この筆者は、読者に語りかけます。限りなく厳しく、限りなくやさしく、限りなく穏やかに、語りかけてきます。この問いに、我々はどう答えるのでしょうか。ぜひとも、この本を熟読され、この問いに耳を傾け、全身全霊傾で答えてください。

  • 昨今の「読みやすい」自己啓発本などとは違って、結構古めかしくて大仰なことを言っているようにも見えるのだが、それが逆にいい。
    何があってもブレないための覚悟、それを支える思想として、死生観、世界観、歴史観を挙げている。死を意識して生きる。組織の中の自分ではなく、世界の中の自分をみる。宇宙の歴史のスケールの中に自分をみる。
    世界をみる、歴史を知る、死を感じる、難しいことではあるが、意識していきたい。

  • 2017.3.25
    仕事の思想を身につけるための3つの原点。
    「死生観」「世界観」「歴史観」。
    「死生観」とは、「生死」という深みにおいて観ること。
    「世界観」とは、「世界」という広さにおいて観ること。
    「歴史観」とは、「歴史」という流れにおいて観ること。
    しばしば哲学の価値は、何を述べたかではなく、何を問うたかによって決まるといわれる。この問いもまた、そのような価値ある問いだと言えるだろう。
    観る、というとき、何を観るのか。それは仕事をする意味であり、また生きる意味でもある。この3つの観点から、生きること、仕事をすることについて、少し、考えてみたい。

    「死生」観から考える。我々は誰しもが死ぬ。そのことに疑いはない。死ぬとはどういうことだろうか。それはこの命がなくなるということである。それは、この「私」がいなくなるということである。死をイメージしてみる。イメージしてみるとき、イメージしている「私」が存在している。死をイメージしているー私=死、である。故に私に死は理解できない。私がいるときそこには生があり、死がそこにあるとき、私はそこにいないからである。そういう意味ではやはり、死は眠ることに似ている。しかし眠っているときは確かに「私」はいないが、それに気がつくのは起きたときである。起きて初めて、眠っていたことに気がつくのである。起きて初めて眠っていた(私がいなくなっていた)ことに気がつくー二度と覚めない=死、である。
    我々は生まれた瞬間、死刑宣告を受けている。ただいつそれが執行されるかは誰も知らない。人生を登山に例えるなら、我々の人生は山頂を目指す目指さないに関わらず、崖に落ちることが決まっている。死を想う、ということは、ポジティブな側面だけではないだろう。どうせ死ぬんだから自分の命を好きなように、というニヒリストだっているのである。どうせ死ぬのだから生きる意味なんてないという人だっている。
    死、とは、自分の人生を考える上で、最も強力な優先順位を決めるフィルターではないだろうか。死を思い、自分の命と、時間の有限性を自覚するとき、我々は命の価値と時間の価値を知る。そしてその与えられた資源を、貴重な資源を、何のために使うべきかを考える。私だったら、自分のためにこそ使う、という発想はあまり出てこない。なぜなら自分が死んだら、自分のために蓄えた全てがこの世から消滅するからである。どうせ消滅するものに対して全力を注ぐことはできない。故に、私の外側のためにこそ、この命を使いたいと考える。それでも私は死に、私の世界は終わるだろう。しかし私が終わってもなお、人類は存続するし、友達は、家族は、生きているのである。
    しかしどうだろうか。我々はこの、人類の「歴史」を、信じることができるだろうか。私が死んでなお続く人類、しかしその人類もまた、永遠に続くわけではないだろう。どこかで絶える運命にある人類のために、何かをするというのは、無意味さを感じないだろうか。
    しかし、もし自分が死ぬのだとして、だから人生は無意味だ、とする。だったら、どんな生き方をしてもいいだろうか。どうせ死ぬんだからどんな人生でもいいと言って、じゃ借金地獄ね、とか、じゃ断食ね、とか、じゃ拷問ね、とかなっても嫌である。故に、終わりがあるとしても、その終わりまで我々は幸せに生きていたいのである。
    こう考えると私に必要なのは、終わるその日まで幸せであることと、自分が死んでもなお残る何か、である。仮に一人で幸せであっても、何も残せなければ、死による一切の虚無に耐えられない。私が死んでなお、私が生きてきたことによって残せた影響、人との繋がり、そういうものがあるからこそ、私は自分が死ぬことによってさえなくなるものではないものを胸に、死ねるのではないか。そしてその残すものは、少なからずの人類への貢献であってほしい。私がそうであるように、人類もまた、終わるその日までは幸せでありたい。私というちっぽけな命が残すものが、その人類の幸福にわずかにでも貢献できれば、と思う。仮に滅亡するとしても。
    人類を含めたこの世界は、宇宙のビックバンから、気が遠くなるほどの時間を経て、現在に至る。生命の歴史は38億年前からであり、初めて生まれたのは単細胞である。これは人間の受精卵と同じである。人間の赤ちゃんは母のお腹の中で、38億年の歴史を10ヶ月に短縮して経験していく。この宇宙の成立、そして生命、生命から精神、精神から文明の流れを思うと、奇跡というほかはない。
    奇跡、と思うのは、この選択以外の無数の選択の可能性を思うことができるからである。無論それは、選択ののちにこそ思うことができるものであるが。ただここには正直、あまり意味を見出せない。雨の一雫がまさにその場所に落ちる、別の場所ではなくその場所に落ちることに、意味を見出せるだろうか。神を信じるならそうだろう。しかし私は、それがそこに落ちた以上の意味は見出せない。
    人類はこの「世界」に生きる人々である。私もまた、恵まれたものである。人類の暴挙を考えると、この地球に対してのやりたい放題、この生態系に対してのやりたい放題を考えると、人類の外側から見たら、人類さえいなくなれば助かる命だってたくさんあるだろう。人類はまさに、人類以外も含めた世界から観るならば、諸悪の根源ではないだろうか。しかし悪という価値観は、人間以外のものに魂を観ることによって生まれているものに過ぎない。もちろん、持続可能な開発は必要である。人間以外の動物や生態系は道具である、というような見方も、好きではない。人間は、人間以外の様々な資源や生物をどうみなし、どのような関係を取り持つべきか、考えなければならない。
    そして私のような恵まれた人間のいる一方で、全く恵まれない人たちがいる現実。子供の命の価値が全く平等ではないのに、その子供の死を嘆く母の悲しみは平等という世界。世界は不条理である。しかし不条理こそが常態であり、条理は人間の理想に過ぎない。しかしそれは幸福のための理想であり、求められるべきものである。恵まれたものであるからこそ、いつか人生の中で、恵まれない彼らに何かできればと思う。その日までは、今日この瞬間にも腹をすかして死んでいく子供たちに、何もできない罪悪感と、何もしようとしない己の卑怯さを、感じ続けようと思う。世界を思えば、持つ者である私は、持たざる者の存在を知りながら何もしないのは、何もしようとしないのは、やはり卑怯者である。生きてるだけで卑怯者である。

    生きることの意味はなんだろうか。それはやはり、自らの幸福と、他者及び人類の幸福、だろう。故に仕事をするのである。仕事は与えることで報酬を得る営みだからである。仕事とは、深いところで、生きることと同じである。自らの幸福のみの人生は死んだら全て終わりで何も残らない。しかし他者に貢献するだけの自己犠牲はどこかで生きるのが辛くなる。故に、どちらも、である。あとはこの幸福のレベルを、時間軸と、空間軸でどこまで広げて考えていくか、というのが、世界と歴史を問うことである。座標ゼロには生死がある。

    まぁ正直、世界と歴史はそんなに良くは分からない。私は自分の手の届く範囲の人々が幸せであることが最優先だし、人類の歴史よりも友達の将来の方が心配だけどな。

  • 以下、実践したい。
    ・「人は、かならず死ぬ」との覚悟を定め、「いかに死ぬか」を求め、「思想」を深めていく。
    ・ 答えのない問いを、問い続ける力。

  • 働くことを、思想・世界・歴史の観点から掘り下げた、まさに哲学的な分析。
    明後日、直接の講義を聴くのが本当に楽しみです。

  • 働くとはどういうことか、地に足をつけて考え抜いたであろう思想が読み取れる。ときどきはっとするような言葉が飛び出してくる。ただ、なぜ働くのかという疑問には応えてくれない。

  • 2012/6/26

  • 覚悟が出来ているか?どこまで死を想像できるか
    人の重みってそういうことだと思った。

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著者プロフィール

多摩大学大学院教授

「2018年 『深く考える力』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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