- Amazon.co.jp ・本 (275ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569709536
感想・レビュー・書評
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誰も彼もが「自分」に酔っていると著者はいいます。現代の日本は、尊大な「自分様」たちの百鬼夜行の相を呈しており、ひたすら「自分らしさ」を追い求める者、周りの迷惑を顧みず「自分は正しい」とわめく者、こんな「自分」に誰がしたと食ってかかる者、等々といった「自分様」たちの姿を、さながらアホの見本市のごとく並べた本です。
初めのうちはおもしろく読んでいたが、いい加減くどすぎると感じました。「だから何なの」と言いたくなってしまいます。
それでも、著者の考えが愚直なほどまっとうだということは、認めなければならないように思います。誰も彼もが誇大な絵空事の「自分」を押し付けあっていますが、世界のどこに行っても通用する「自分らしさ」を作るに方法は、(1) 考えること、(2) 実行すること、(3) ひとつのことに十年間打ち込むことの3つだと著者は言います。自分は「みじめだ」とか「さびしい」とか「負けた」とか「だれもわかっちゃくれない」と追い込むのではなく、「みじめ」とはどういうことか、「みじめ」だからなんなのかと考え、「よし、こうしよう」と決心したら、少しでも実行し、実行できなかったらなぜできなかったのかをここでも考えることを、著者は提案しています。そして次に著者は、継続することの重要性を指摘します。もし挫折してしまったら、そこからまた立ち上がればいいとも述べています。それでもまた挫折するかもしれませんが、そのつど限界点が延びていきます。そして、この3つを他者との関係のなかでおこなうことが忘れられてはならないと、著者は述べます。
これはたしかにその通りとしか言いようがありません。これに比べるならば、世間の「自分らしく生きたい」という声など、洟を引っ掛けるにも値しないだろうと思います。そして、どこまでもまっとうなだけの本書は、やっぱり少しばかり退屈に感じてしまいます。もちろん、本書がおもしろいだの退屈だのとあげつらうことは、まっとうに生きることに比べれば瑣事にすぎないのでしょうが。 -
文字通り、自分に拘る人たちについて綴った一冊。
分析というよりは勢古浩爾のエッセイという感じ。 -
かなり昔に読んだのを、今回再読。
好きな著者の本を読み続けていると、おなじ本でも「読め方」が変わってくるのがとてもおもしろい。
自分がこうなったのは他の責任でもあるが、それでも責任を取るのは自分でなければならない、というのが、なるほどだから勢古さんはこうなのか、と思った。
でもこの本は、さすがに愚痴っぽいと思えてしまってあまり好きではないかな。やっぱり勢古さんは、人生論がいい。 -
見る人見る人みんな馬鹿馬鹿馬鹿頭おかしいやつばっか、と思っていたので楽しく読ませていただいた。
58 「おれ」「ぼく」問題は、基本的に女性にはない。その意味では、女は男よりも自由であるといっていい。
86 悪口の嵐。ごもっとも。
92 林秀彦は「他社への思い遣りのなさは、人間性の未成熟を最も端的に、露骨に示すもの」といっている。〜就労で苦労している人びとを除けば、だれもかれもが、手取り足取り、おんぶに抱っこで楽にしてもらいたいと思っている。
94 人間関係においても、曖昧な表現がいまだに支配的であるとはいえ、その反動か、とくに若者のあいだでは、どぎつく下品で、容赦のない、頭の悪い言葉が目立つようになった。〜人を肯定する言葉はほとんど皆無で、「死ね」「ウザい」「きもい」などの極端な否定表現ばかりである。
98 精神の安息場として、家族は存在するだけで意義があるのだが、それすらもなくなるのであれば、もはや家族には存立する意味もないのである。
127 男たちは、自分の自尊心の取り扱い方ばかりを気にかけているのだ。舐められてたまるか、おれの力を世間に見せてやる、というように。
263 これ以上のものは、もう何もいらない=金のオニギリをパクパク食べる -
◆自分らしさを求めるいっぽうで、自分のことしかみていない「自分バカ」たちを強烈に皮肉る一冊。著者がいう「自分バカ」が蔓延する背景には、人びとの「自分」への憧れと、それを称賛する風潮がある。◆よくある日本人論では、欧米のように「個人」が確立していないことが悪いといわれるけれど、「自分」を疑問視する著者はもちろんそれを認めない。むしろ、「自我不確実性〔=個人があまり確立していない〕」からなる期待の文化を見直すべきだという。
* 感想 *
◆個人的には、この手の本はどうも性に合いません。というのも本書は、(この手の本にありがちなことですが)切れ味抜群であるがゆえにそれ以外の可能性の余地が提示されていないのです。
◆したがって著者の痛快な口調を楽しめる人には面白い本だと思いますが、そうでない人にとってはだんだん著者との軋轢が重なり、不快になってゆくだけでしょう。あくまで雑談を聞くかのように、そして雑談のネタとして、軽く読むのがよい本だと思います。 -
面白いかなあと思って手に取ったものの、
どうにも「中年のおっさんの愚痴を延々と聞かされている」感じがしてきて、飽きてしまった。
文章表現が軽い(軽妙)というのはそこまで問題ではなくて、文章の根拠が「自分がそう感じたから」という主観的なものだからだと思う。 -
相変わらず勢古節が炸裂しているが、以前の著作に比べて言い回しが小難しくなったような気がする。
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ヒトラー率いるナチスは我が民族を優秀と考え、民族浄化(なんて酷い言葉だろう)を行った。来年、サッカーワールドカップが開催される南アフリカ共和国では、およそ20年前まで、白人(という言い回しも好かぬ)による人種隔離政策がまかり通っていた。
昨今、押しの強い生き方というか、人間関係において、隙あらば他人よりも優位に立とうとする、狡猾さのある者が優れているかのような風潮にある気がする。それを欧米型の価値観だと一括りにするのは乱暴かもしれない。しかし、どうにも頭が消化しきれない。グローバリズムの波がどどっと押し寄せて、日本人の価値観は欧米の波にあっという間に飲み込まれたような印象を受ける。変わることは必ずしも悪ではないし、変えないこともまた必ずしも善ではない。単純に是か非かの2つに、すっきりと分けられるような世界ではない。
世界の中心で叫ぶのは愛などではなく「自分」。世の中、なんだかぎすぎすしているように感じてしまうのは、日本人の多くが「我が我が」を大熱唱している我利我利亡者になってしまっているからかもしれぬ。個人がめいめい自分の利害だけしか考えずに動けば、他人に迷惑をかけるのは当たり前である。そんな個人が増加しているのかもしれない(あまり他人のことばかり言えないけれど)。日本人は無宗教ではない。「自分教」というトンデモ教の信者がたくさんいるではないか。
とまあ、そんな感じのことを書いた本であり、実際はもうちょっと過激な書き方をしているのだが、いずれにせよ、勢古浩爾氏の書くものは、どれもこれもセコくてくだらないのである。くだらないけれど、たまにはこういうオッチャンのボヤキに付き合うのも悪くなかろう。大概の日本人なら、薄々、感づいていることなのだから。氏の著書はたくさんあるので、1冊くらいは読んでたもれ。