- Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569776316
作品紹介・あらすじ
菅家利和さんの無実が確実になった足利事件。男性にとって決して他人事ではない痴漢冤罪。これらの悲劇はなぜ起こるのか。「起訴された刑事事件の有罪率-九九%」という驚くべき数字は、本当に妥当なものなのだろうか。実は日本の裁判官には、誤判を必然的に生んでしまうある心理傾向が存在する、と著者は指摘する。元裁判官だからこそ告発しうる冤罪の根源から、日本の司法の「建前」と「現実」の甚だしい乖離が見えてくる。
感想・レビュー・書評
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平易な文章で書かれているにも関わらず、なんか頭にないってこなかった。
新聞記者/望月衣塑子
殺人犯はそこにいる/清水潔
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足利事件
事件概要が掴める。あらましから、無罪判決、締めで誤判の原因までを語る。DNA鑑定を「夢の科学技術」と思い込み捜査、裁判をしてしまったことが原因としてあげられている。
思い込みは時として事実をもねじ曲げる。言葉は悪いが、解釈が真実になることが示されるいい例。
痴漢冤罪
もし当事者になったら名刺を渡して立ち去るのぎ良いと書かれる。水掛け論であるにも関わらず、原告被害女性の証言が「証拠」として採用されてしまうことの怖さを取り上げる。
そして、裁判官の判断の間違いを指摘する。勾留するには(1)犯罪事実の疑いがあること。(2)住所不定であること。(3)罪証隠滅のおそれあるいは逃亡の可能性があること。このようなことが起こり痴漢有罪となってしまう。 -
菅家利和さんの無実が確実になった足利事件。男性にとって決して他人事ではない痴漢冤罪。これらの悲劇はなぜ起こるのか。「起訴された刑事事件の有罪率 ― 九九%」という驚くべき数字は、本当に妥当なものなのだろうか。実は日本の裁判官には、誤判を必然的に生んでしまうある心理傾向が存在する、と著者は指摘する。元裁判官だからこそ告発しうる冤罪の根源から、日本の司法の「建前」と「現実」の甚だしい乖離が見えてくる。
(「BOOK」データベースより)
「冤罪」というと、今だと菅家さんの足利事件が記憶に新しい。DNA型の再鑑定がやっと認められて、無罪判決を勝ち取った事件だ。マスコミからの情報だと、起訴当時のDNA型鑑定の方式が古く、現代のものと比較にならないくらい精度が低かったため、誤判が起きたのだという感じを受けたが、著者はそれは違うという。
著者は大学の理学部化学科を卒業・同修士課程修了後に民間の研究所で働いていたが、独学で司法試験を受けて合格し、判事となった人物である。いわば、理系にも詳しい裁判官ということだ。よって、当時からDNA型鑑定についても他の裁判官よりは詳しく、その危うさにも気づいていた。そんな段階で最高裁がDNA型鑑定の証拠能力について、言及していることにも問題を投げかけている。
さて、DNA型鑑定の精度の低さが冤罪を生み出したのでなければ、何がこの冤罪を生み出したのか。当時のDNA型鑑定プラス血液型が一致する可能性は1000分の1.2だそうだ。10万人に120人という計算である。これは果たして菅家さんを有罪にするためのハードルを越えるだけの証拠能力を持つのだろうか。日本には成人男子が何人ほどいるだろう。本書の中ではおよそ3000万人と仮定している(1億2000万人の半分が男だとして、そこから子供と老人を除くとそれくらいだろうということで)。そうすると、このDNA型プラス血液型に一致する男性は日本国内に3万6000人いる計算になるのである。菅家さんはその中の一人に過ぎない。これは果たして「有罪」と断ずるに足りる証拠だろうか。
裁判官も人間だ。起訴された刑事事件の有罪率が99%だという先入観が当然に頭の中にはあるだろう。そうすると、検察側の提出してきた証拠能力に対する信頼度も違ってくる。
検察側も人間だ。起訴した刑事事件の有罪率が99%だという先入観が当然に頭の中にはあるだろう。起訴さえできれば有罪になる可能性は高い。となると、それなりの証拠だけ揃えて起訴してしまえという気持ちは芽生えないだろうか。
本書では足利事件と、痴漢冤罪事件に特に言及している。足利事件については、科学技術の進歩により無罪となったのではなく、当初から冤罪が生まれるべくして生まれたのだという。そして、痴漢冤罪事件においては、本来認められるべきではない勾留が認められ、警察官に付いていったが最後、長期間(約23日間)拘束されるという結末が必然的に決まっており、「話せばわかるだろう」が通じないということを述べている。「チカンです!」と腕を掴まれたら決して駅員に付いていってはいけない、警察官に付いていってはいけない、ということだ。では、どうすべきか。それは本書を読んでいただきたい(決して、振り切って逃げろというわけではない)。
現在の裁判制度の中で、冤罪は生まれるべくして生まれている。それが本書の主張であり、それを無くすためには国民の監視が必要だということ。
さて、本書に書いていることが真実なんだろうか。当然、こういう疑問が生まれてくる。恐らく真実のように思える。しかし、マスコミの報道を鵜呑みにしてはいけないのと同じく、一冊の本に書かれていることを鵜呑みにするのも危険である。何が真実なのだろうかと疑問を持つことは大事だという思いがある。本書に書かれていることも念頭に置きながら、現代の裁判における問題について学んでみたいと思う。
そう言えば、もう一つ「冤罪」といえば、高知のスクールバスの運転手の事件を思い出す。スクールバスと白バイとの衝突事件だ。「高知白バイ事件」。この事件も、すっきりとしない。
法律と己の良心のみに従い、人を裁く裁判官は存在しているのだろうか。 -
元裁判官による、司法制度の問題、特に冤罪に対して警鐘を鳴らしている。
足利事件の冤罪と、痴漢冤罪の二つを例に挙げて、冤罪が生じるプロセスをわかりやすく説明されている。
冤罪というよりも、足利事件について概要をわかりやすく知りたい人向けという感じがしました。 -
元裁判官による、現在の司法の在り方を問う新書だ。
大部分を、有罪確定し服役した後に無罪判決が下された足利事件について割いている。
マスコミでは捜査を誤ったとして警察、検事を批判する論調が強いが、著者は裁判官にも責任があったと指摘する。
「グレーは無実ではなくとも無罪である」という、有罪を確定するためのハードルがいかに高いか、そのハードルを軽んじる風潮が現在の司法にはある、という話は興味深い。
ただ、こういう新書の著者って、どうして「自分だけが正しい、あとはみんな駄目」というスタンスなんだろう。
なんか好きになれない。 -
裁判所も国家権力であることをお忘れなく