世界を知る力 日本創生編 (PHP新書)

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  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569793504

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    日本ならではの長所と短所を書き分けている一冊。
    東日本大地震直後に執筆された作品のため、ややその影響に引きずられている感が否めないが・・・

    本書には「これからの日本」について、色々な創生論が述べられている。
    中には、国に任せるのではなく、かつてのニューディール政策のように「挙国一致」で官民一体となって行わなければいけないと書かれている。
    確かに理想的ではあるが、今の世において、国の為に自身を投げうってまで尽力するような人間がどれほどいるのか?
    自身の為ならシャカリキになって頑張れるが、国という単位では行動を起こさない人ばかりではないのか?
    そういった意味では、この本は些か「絵に描いた餅」ではないだろうかと思わざるをえない・・・
    正直、この感想を書いている自分自身も、国の為ではなく自分(とその家族)の為にしか頑張れないなーと読んでいて思った。

    書いてあることは正論(清論)ではあるが、実際それを実践できるものではない、現実的ではないと読んでいて思った・・・・
    結局、自分も含めて色んな人々が利他的にならない以上、改善されないのだろう。
    素晴らしい理想が描かれている1冊だったが、実現性の低さが気になった。


    【内容まとめ】
    1.根拠のない楽観と悲観は「思考停止」という意味において共通している。
    いま日本人に問われているのは、「根拠のない自己過信」や「無原則な一億総懺悔」ではなく、筋道立った思考の再起動である。

    2.現代とは比較にならないほど貧しい時代を生き抜き、生命のバトンを私たちの世代に至るまでリレーしてきた先に、今の自分がいる。

    3.わたしたちは、「もう一度生まれてきたい」と思えるような国を築いてきただろうか?
    過去の目線にさらされて今を生きる、という自覚を持って生きてきただろうか?
    あるいは、将来生まれてくる世代に対して、胸を張って説明できるような生き方をしてきただろうか?
    はなはだ心許ない限りである。
    はっきり言えるのは、過去からの目線と対峙して生きるという自覚のないところに、未来を見通す眼力は生じない、ということだ。

    4.浄土真宗開祖の親鸞について
    親鸞は、おそらく一生の中で「自分はすごい」などと思ったことのない人だ。それどころか、最晩年になっても「自分はだめだ」と言い続けている。
    浄土真宗では、開祖といえども凡夫の一人にすぎない。
    浄土に往生できるのは如来の本願力にもとづくもの、すなわち徹頭徹尾他力によるものであり、自身のような凡夫のはからい(自力)などでは左右されないと考えていた。

    浄土真宗の説く「他力本願」とは、それとは些か一線を画すものである。
    すべての衆生を救済するという誓い・本願を達成せんとする阿弥陀仏(他力)の働きによってもたらされるのであって、私たち凡夫のはからい(自力)には左右されない。
    決して他の人に何か代わってやってもらおうという話ではなく、あくまで「阿弥陀仏が彼岸から救済の手を差し伸べるのを待つしかない」といった教えなのだ。

    5.自力と他力。
    水と油のようでいて、まったくそうではないのである。
    自力は他力に促され、他力は自力を持って働きを見せる。
    危機の時こそ他力と自力は共鳴しあい、わたしたちに蘇生するための光明と力を与えてくれる。

    絶望的な状況に直面し、無力さを自覚し、瞬間的には打ちひしがれてしまったとしても、自力でとことん突き詰めてきた人には、必ず他力の働きが、闇夜の中の一点の光明として浮かび上がってくる。

    6.常日頃から、大空から世界を見渡す鳥の眼と、しっかりと地面を見つめる虫の眼を兼ね備えて時代に向き合わなければいけない。
    「いま・ここ」での救援とは別に、「いまだあらぬ」未来に向けたグランドデザインを立案していかなければならない。
    ビジョンを持たないまま昨日の延長として今日を生きるだけで対処できるような規模の話ではいけないのだ。

    7.リスクのある技術はできるだけやめたほうが良いとするなら、近現代史は成立しない。
    この世に「絶対安全」な技術など存在しない。ミスの発生しないシステムも存在しない。
    等身大ならざる技術というのは、皆ある種の覚悟を持たないと利用できないのである。
    だからこそ、失敗を体験しながらも、より安全で安定した技術開発に立ち向かう。
    文明の進歩とは、そういうものではないだろうか?


    【引用】
    根拠のない楽観と悲観は「思考停止」という意味において共通している。
    今日本人に問われているのは、「根拠のない自己過信」や「無原則な一億総懺悔」ではなく、筋道立った思考の再起動である。


    p19
    あなたの20世代前、この500年間で、大体200万人強の人が、あなたの生命につながっていることになる。
    これだけ大勢の人が戦乱に巻き込まれて、耕作地も荒れたであろう戦国時代にあって、あなたの生命に直結する人々は、少なくとも次世代を宿すまでは生き永らえた。
    その後の世代の人々も命を繋いできた。

    現代とは比較にならないほど貧しい時代を生き抜き、生命のバトンを私たちの世代に至るまでリレーしてきた先に、今の自分がいるのだ。


    p27
    わたしたちは、「もう一度生まれてきたい」と思えるような国を築いてきただろうか?
    過去の目線にさらされて今を生きる、という自覚を持って生きてきただろうか?
    あるいは、将来生まれてくる世代に対して、胸を張って説明できるような生き方をしてきただろうか?
    はなはだ心許ない限りである。

    はっきり言えるのは、過去からの目線と対峙して生きるという自覚のないところに、未来を見通す眼力は生じない、ということだ。


    p53
    遣唐使の一行として804年に長安を訪れた空海は、まだ無名の僧侶にすぎなかった。
    が、入唐したときにはすでに中国語を完璧にマスターし、わずか数ヶ月で真言密教の最高位を授けられた。
    また3年間の遣唐使生活の末、真言密教の教典だけではなく、先端都市の「先端技術」を多く持ち帰った。


    p62
    親鸞は、おそらく一生の中で「自分はすごい」などと思ったことのない人だ。
    それどころか、最晩年になっても「自分はだめだ」と言い続けている。
    浄土真宗では、開祖といえども凡夫の一人にすぎない。
    浄土に往生できるのは如来の本願力にもとづくもの、すなわち徹頭徹尾他力によるものであり、自身のような凡夫のはからい(自力)などでは左右されないと考えていた。

    「南無阿弥陀」を唱えれば、すべての民は浄土に往生でき、その点ではいかなる人間も平等であるというところに親鸞の親鸞たる所以がある。


    p81
    「他力本願」というと、一般的には「あなた任せ」「他人まかせ」という意味で使われ、自助努力をしない怠け者といった軽侮のニュアンスが含まれたりもする。

    だが、浄土真宗の説く「他力本願」とは、それとは些か一線を画すものである。
    すべての衆生を救済するという誓い・本願を達成せんとする阿弥陀仏(他力)の働きによってもたらされるのであって、私たち凡夫のはからい(自力)には左右されない。
    決して他の人に何か代わってやってもらおうという話ではなく、あくまで「阿弥陀仏が彼岸から救済の手を差し伸べるのを待つしかない」といった教えなのだ。

    「3・11」のような圧倒的な現実に直面し、人間の無力さに思い当たることが必要。
    自力ではどうしようもない大きなものに取り囲まれて生きているということの、大いなる反省を伴う自覚である。


    p84
    絶望的な状況に直面し、無力さを自覚し、瞬間的には打ちひしがれてしまったとしても、自力でとことん突き詰めてきた人には、必ず他力の働きが、闇夜の中の一点の光明として浮かび上がってくる。

    自力と他力。
    水と油のようでいて、まったくそうではないのである。
    自力は他力に促され、他力は自力を持って働きを見せる。
    危機の時こそ他力と自力は共鳴しあい、わたしたちに蘇生するための光明と力を与えてくれるのではないだろうか?


    p97
    ・流言蜚語(ひご)のおそろしさ
    天災をきっかけとして発生する流言蜚語(デマ)は、時として天災に匹敵するほどの暴力性を発揮する。
    1922年の関東大震災当時も、「混乱に乗じて朝鮮人が襲ってくる」というデマを信じた日本人が、日本に在住していた朝鮮人や中国人を虐殺するに至った。


    p100
    ・関東大震災当時の情勢
    1910年に日韓併合条約を締結したが、韓国や朝鮮半島の人たちにとってはよほど屈辱的な条約であり、この日韓併合はうまくいかなかった。
    また1919年のベルサイユ講和会議で漁夫の利として山東利権を確保しようとしたところ、中国のみならず朝鮮半島でも大規模な反日運動が起きた。(三・一独立運動)

    さらに同じ年の5月4日には、中国で反日・反帝国主義の「五・四運動」が起こる。
    当時の中国は1911年に辛亥革命がスタートし、1912年に中華民国という共和政体が誕生したばかりである。

    このままでは国内でも反日暴動が起こされるかもしれないという潜在的な恐怖が為政者に、そして国民に芽生えたのではないだろうか?


    p122
    わたしは、常日頃から、大空から世界を見渡す鳥の眼と、しっかりと地面を見つめる虫の眼を兼ね備えて時代に向き合わなければいけない、と肝に銘じている。
    これが案外に難しい。
    人間は往々にして、木を見て森を見なかったり、木を見ずして森を語ったりしがちなからだ。
    特に経験したことのない悲劇を前にしたとき、バランスの取れた視点を構築することは容易ではない。
    しかし、私たちはこの困難に挑戦しなければならない。

    「いま・ここ」での救援とは別に、「いまだあらぬ」未来に向けたグランドデザインを立案していかなければならない。
    ビジョンを持たないまま昨日の延長として今日を生きるだけで対処できるような規模の話ではいけないのだ。


    p141
    ・首都機能を分散し、21世紀型の都市を構想する。
    日本全体の復興、創生を考える上で無視できないのが、首都機能の分散である。
    予想される東海・東南海地震への備えという点でも非常に重要な問題である。
    何らかの副首都機能を持った場を創設し、分散しておかねば機能不全に陥るリスクが絶えない。


    p145
    ・国民参画型の復興構想を。
    新たな産業基盤の創生にしろ、首都機能の分散にしろ、プロジェクトは国民参画型にするのが肝要である。
    「あ、そう。国や県がやることで自分には関係ない。」と冷ややかに見つめられるだけの構想では、結局上すべりのものに終わる。
    世界恐慌後のニューディール政策のように、国を挙げて本気で参画したい人を巻き込んでいくようなプロジェクトが必要だ。

    額に汗して、知恵を絞って、歩いて、人と会って議論して、喧嘩して、全力でぶつかり合う。
    そんなチャンスを作り出す場を、復興プロジェクトとすることができれば、その過程こそが日本創生を意味することになるかもしれない。

    「挙国一致」というプロジェクトに汗を流して参加し、ハーモニーとしての一体感が持てる。


    p177
    自分たちが依拠するシステムの一つである原発について、最大限の努力をして安全と安定を図っていこうと決意すること。
    技術の力でなんとか「可制御性」を取り戻そうと考えることが、近代主義者の責任だと私は考える。

    リスクのある技術はできるだけやめたほうが良いとするなら、近現代史は成立しない。
    この世に「絶対安全」な技術など存在しない。ミスの発生しないシステムも存在しない。
    等身大ならざる技術というのは、皆ある種の覚悟を持たないと利用できないのである。
    だからこそ、失敗を体験しながらも、より安全で安定した技術開発に立ち向かう。
    文明の進歩とは、そういうものではないだろうか?


    p191
    なによりも未来に対する希望を閉ざしてしまうのは、憎悪の連鎖である。
    ただ、当時(関東大震災)の状況と比べたら、今の日本は、少なくとも過剰な憎悪にさらされることもなければ、報復という過剰な憎悪を抱く必要もない。
    これは、はっきり認めていい現代日本の長所だろう。


    p193
    アジアにしても中東にしても、日本は特に嫌われる要素をもっておらず、技術力・産業力という点で、一定以上の敬意を抱かれているといえよう。
    ただし国家としての戦略性、政治のガバナンスにおいて一目置かれているかといえば、決してそうではない。


    p194
    「日本には友だちがいないよね」
    同じ敗戦国であるドイツは、戦争の総括を真摯に行い、血の滲むような努力をして、EUというかたちで信頼の基盤を作り上げて行った。
    対して日本は、いまだに「中国、韓国にはなめられたくない」といった歪んだ心理を潜在させながら、近隣諸国との決定的な信頼関係を築けないままにいる。
    日本はあまりにも米国に依存した戦後という時代を生きたのであり、近隣諸国との付き合いも、すべて米国というプリズムを通してのものにしかすぎなかった。


    p203
    私たち人間が、宇宙や自然を前にして、自らの力の限界を謙虚に自覚することは重要だ。
    ただし、最初から「所詮自力で努力をしても無駄」と考えていては、他力の偉大さにも気づかない。
    自分の運命は自分が開くという「絶対自力」の道を真剣に突き進んだ人こそ、自分の限界を知ることができ、限界の先を歩む勇気をもつのではないだろうか?

    絶対自力で突き進み、やがて己でコントロールできることの限界を知り、謙虚になることで大きな力によって支えられて生きていることに気づき、絶対他力による心の安寧に思い至ることになる

  • 2015

  • 東日本大震災から6ヶ月後に出版された「3.11以降の日本を考える」ための書。
    千年に一度の大事件から2年が経つが、基本的に現在でもここで述べられていることは有効である。むしろ現実が進歩していない。
    「3.11以降の日本を考えるとき、安易な希望や絶望はいらない。根拠のない楽観に一喜一憂するのでなく、筋道を立てて深く考える事。その際、もっとも力になるのが、歴史の脈絡のなかで考えること」と、腹を据えてこの国難に立ち向かうべしと言われても、現在は原子力よりも景気といった金にしか興味のない人間ばかりになってしまった。

  • 親鸞の教えや関東大震災時の出来事など日本の歴史から今の日本がどうすべきか書かれている。
    東日本大震災が話の中心となって今の外交についても書かれています。

  • 主に東関東大震災後の日本のあり方について寺島さんの思いを書かれている。親鸞、最澄、空海等から始まり、日本人論としてもおもしろい。



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    【要約】


    【ノート】
    ・日経アソシエ7月

  • "歴史を深く見つめて、現在の日本を考える。2011年3月11日に起こった未曾有の震災からどう復興していくかを考えた本。
    共感する部分もあり、まだまだ自分の理解度が足りない部分もあり、勉強になった。"

  • 空間的な繋がりだけではなく過去からの時間的な繋がりたい。歴史から学ばなければならない。
    日本創生として、太平洋側と日本海側(アジア)をリンクさせての産業復興、首都機能移転、原子力エネルギー戦略など、流石に日本のあるべき姿をよくよく考えていると思う。
    ただ2018年現在、この本の提言通り良い方向に向かっているのだろうか。最後のページに「日本は終わっていない。(中略)この三重苦のなかで、何かに気付かざるをえなくなっているからだ」とあるが、果たして日本人は活力を持って日本創設を進めているのだろうか。

  • 震災の直後に書かれた本書を長く積ん読にしていたのですが、その後の状況、日本を取り巻く環境の変化を踏まえて読んでみると、改めて参考になると思いました。時期もあるのでしょうか、やはり、叙述が熱を帯びていますね。

  • たとえ世界一周というとんでもない経験をしても、経験した当人に一種の国際感覚がなければ、その経験がほかに伝わることはない。…英語が話せるから「国際人」なのではない。異なる国の人たちにも心を開き、自分を相対化してみることのできる人間が「国際人」なのである。

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著者プロフィール

1947年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究課程修了後、三井物産入社。調査部、業務部を経て、ブルッキングス研究所に出向。その後三井物産ワシントン事務所所長、三井物産常務執行役員等を歴任。現在は日本総合研究所会長、多摩大学学長。著書に『人間と宗教』『日本再生の基軸』(岩波書店)、『ユニオンジャックの矢~大英帝国のネットワーク戦略』『大中華圏~ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る』(NHK出版)、『若き日本の肖像』『20世紀と格闘した先人たち』(新潮社)他多数。

「2022年 『ダビデの星を見つめて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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