- 本 ・本 (376ページ)
- / ISBN・EAN: 9784575247466
作品紹介・あらすじ
奥多摩の、太古から神を祀ってきた霊山・御嶽山の上にある村。そこにある神官屋敷は浅田氏の実家である。彼が少年だったころ、美しい伯母から聞かされた怪談めいた夜語り。それは怖いけれど、美しくも哀しく、どれも引き込まれるものばかりだった。これら神主の家に伝わる話を元に脚色して書かれた短編を編み直し、単行本未収録作品「神上りましし諸人の話」(あとがきにかえて)と、書き下ろし作品「山揺らぐ」を加え、完本とした永久保存の決定版!
感想・レビュー・書評
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著者の母方の実家が奥多摩の神社ということで、幼い頃から目には見えないけどいる何か、存在に触れながら育ってきたことが窺える。フィクションとノンフィクションがが混ざったような山にまつわる短編集。怪異譚のようだけど、全く怖くない、どこか懐かしいような感じ。
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最近はJAL機内誌で なんかぼそぼそとエッセイの様な物を書いてる以外には すっかり新作を出さなく(出せなく?笑う)なってしまった浅田の次郎吉オヤビン。オヤビンの新作刊を読むのは一体どのくらい振りなのだろうか。読書SNSの僕のデータで調べてみた。分かった。たぶん2022年の2月。書は『母の待つ里』である。思った通り2年以上も前であった。次郎吉オヤビン,もう少し上梓の間隔を縮めるべく頑張ってください。オヤビンの存在を僕が忘れてしまう前に。笑う
新作刊について調べていていつも惑わされるのは文庫がたくさん新刊として出ている事。僕に言わせれば(まあ誰に言わせても同じだと思うがw)文庫は新作ではない。で,文庫化に際してしばしば本の題名を意図的に変えて発売される事があって,それは大いに混乱する。既に読んだ本の題名違い文庫を何度手に取って裏切られて来たことか。大手出版社さんよ慎みなさい。大手のくせに せこい悪だくみ をするな!
さて本書について。 先に新作刊と書いたが実は真っ赤な嘘w。巻末には各物語の元本が詳らかにされてる。そこに唯一「書き下ろし」と記載の或るラス前の物語『山揺らぐ』だけがどうやら本書発刊の為に新しく書かれた物語らしい。他の作品達は既に文庫化まで終わっている作品集からかき集めてきたモノ。ただし書題で「完本…」と理ってあるが,紐づければ一連の物語ながら書いた時代にあまりにも隔たりがあった為あちこちに散らばって収蔵されたものを今回ひとまとめにした上で先の『山揺らぐ』を新たに加えて「完本…」と銘打ったのだった。
本書は11話の短編から成っているが,その古いものは2008年には既に文庫化されている。なので次郎吉オヤビンがそれを書いたのはおそらく2005年頃で それはもう20年も前の事なのだ。新しい作品でも2017年には文庫化されている。これも下手すると10年前の作品だ。でも何故か僕には読んだ記憶が全く無いお話ばかりであった。(今回僕の感想文には少々の【部分的細部のネタバレ】もかなり書いてあるがまあ適当に端折って読んでくださいまし,笑う)
最終話の『最後のあとがき あるいは神上りましし諸人の話』も2014年に雑誌「小説推理」7月号に連載されたものの収録する本の目途がたたないまま10年が経過した作品を今回やっと単行本にまとめて上梓できたという事情の様だ。まるで一連の物語の最後に持ってくることを最初から狙って=いずれこの本が発行されることを前提として,書かれたような内容だな,とあらためて思った。やはり次郎吉オヤビンは沢山の賞や勲章をもらうだけの名ばかり作家などでは決して無いのだ。それにしてもいっぱい賞もらうねーオヤビン,笑う。
まあ本音を書いちまえば,いつまで経っても新作本の出ない浅田の次郎吉オヤビンに業を煮やした出版界全体が講じた大いなる企み事から生まれた本である!と,キッパリ!そうなると『山揺らぐ』もホントに書き下し作なのだろうか,と勘ぐる!? あ,いやそれではあまりにも疑い過ぎか,笑う。
収録順番が少々後先になるが どうしてもこの新作「山揺らぐ」の話を先に重点的に感想に書きたくなる。直前に次郎吉オヤビン本人が書いたかどうか疑わしい様な事を書いたが,まあ読み終わった限りで言うと本人の書いたもので間違いないと思う。話の出来が他の凡作家とはやはり全然違うもの。お話は皆様も良く知っている大正12年の“関東大震災”が起きた時の諸々の出来事について,語り部である”ちとせ伯母”が山上の宿坊に集まった従兄弟姉妹(これだけ書いて「いとこ」と読んで欲しいw)同志である子供たちに語っている場面から。
僕の想いとして,この話の場面の時代設定が細かくいつ頃なのかが分からない。どうやら東日本大震災よりは後の事の様だが果たして2024年現在の事なのか というと夜の気候の感じや夜具布団の記述からして もう少し前なのかな,と思ってしまう。本文303ページから以下抜粋。「八月も末ともなれば海抜千メートルの山巓は夜気が冷えて,子供らの牀(トコ)には綿入れ布団が掛けられていた。」 うーむ舞台は御嶽山とは言えずっと熱帯夜であった2023-24年の夏では無いな!
さてとうとうに次はそう「鈴木」の話を。物語の中心御嶽山神官の家はその姓を鈴木という。この すずき の呼び方についての下りには アクセントについて書かれている。この山上の鈴木はそのアクセントが一番前の「す」にあるのだそうだ。普通世間一般(関東地方)の鈴木のアクセントは特になく平易な読み方だと僕は思う。それが最初の「す」に強いアクセントを置いて読んだ音を漢字で書くと「酢好き」になる。あるいは「巣突き」か。いやはや日本語とは面白いものだ。(あるいは外人が呼ぶ/言う Suzu-ki かなw)
その他の全物語だが,全編の語り手が男子なのか女子なのかがどれだけ読んでも僕には判然としなかった。どちらかと云うと僕には女子の様な感じがすっとしたが,いや待てやはり男子なのかとも思った。実際には男子なのだが,男名で書いてある部分を読んで あそうか と一時は思い読み進めるものの,しばらくするとまた女子の心境で読んでいる自分に気づく。誠に奇妙な感じであった。
弘法も筆の誤り みたいな文面を見つけたので書いてみる。天下の次郎吉オヤビンの書なので僕の解釈違いかもしれないのでその場合は皆様ご指摘ください。駐留米兵が御嶽山のお屋敷を無断で写真に撮っているところを家主神官伯父に見つかり叱られる。「若い米兵たちはたじろぎ,申し訳なかった,悪気は無かった,というふうに身振り手振りの英語でわびた。」米兵達がそういう説明を英語でするのに身振り手振りするだろうか。英語の出来ない者が身振り手振りを交えて片言の英語で説明…なら分かるのだが。浅田猿も木から落ちたのか?
どうやら御嶽山はよく蜩(ひぐらし)が鳴く山の様だ。「カナカナカナ」という蜩の鳴き声はとにかく情緒に富んでいて僕は好きだ。晩夏の夕暮れになるとこの鳴き声が聴ける場所に無性に行きたくなったりするが,その場所はググっても役に立つ答えを見つけるのは難問なのであった。僕はこの漢字に誘われて今回色んなセミの漢字について発作的に調べてみた。まずアブラゼミ。これ単純に「油蝉」。芸が無いなぁ。セミという漢字はどうやら旧字の「蟬」の方が風情あるが,なんと「蜩」と云う字も「セミ」と読ませることがあるのだそうだ。
次,つくつくほうし。そんな漢字あるものか,と思ったがあった。「寒蟬」これ読める人は相当の文学人か⁉他には「秋蟬」と書いても良いらしい。まあこっちの方がポピュラーかもな。法師蟬などと粋に言う方もいたな。 次はミンミンゼミ。あった「蛁蟟」と書くそうだ。なんだ蟬の字が含まれて無いなぁ。ま,いいけど。 次 クマゼミ。うーむ普通に「熊蟬」。これも芸無し。羽根の色が緑色で美しいのにね。いやまて「蚱蟬」という漢字があるらしい。これもミンミンゼミと同じく虫が二つ並んでるなー,すげー。
次 ちょっと ちっこいニーニーゼミってぇのがいるのだけどその呼び方で正しいのかな。って事で調べる。居た!「蟪蛄」と書いてニーニーゼミだ。なんだ 古い虫なのかw。ちっこくって朝鮮が原産地なんて事も書いてあった。ま,朝鮮も日本もおんなじさぁな。これらのセミを色々調べていて分かった事がある。ちょっとショックだったので書き残して置く。なんとセミは分類上「カメムシ目」なのだそうだ。どうでもいいが何も代表選手をカメムシにしなくてもいいじゃないか!なあセミのみんな。
さて頻繁に出て来る「おもうさん」とはいったいに誰のことであろう。表面上は おとうさん の事だろうけれど 読んでいてどうも違った使い方をしている場面が何か所かあった様な気がする。どこだったかもう分からないのでこれ以上は書けないけどなぁ。
『聖』という題が付いている,御嶽山神社に修行したいと云いつのり居候し始めた喜善坊という山伏の話がある。山伏は神官である祖父や婿養子の自分の父からはあまり好ましくは思われていない。おりしもちとせが病に掛かり山下から医者を呼べども快しない。いよいよ命が危ないという段になって喜善坊が採ってきた薬草を煎じて飲ませたところ…。その結果が印象的な一言で書かれている。“薬効は覿面(てきめん)だった”この覿面 という漢字を始めてみた。もし使うなら普通はひらがなで書くだろう。次郎吉オヤビンだからこその覿面だ,と思った。
そして本書の全体はとてもとても恐ろしいお話/恐怖譚である。しかも凄く文学的で難しいのである。ちょっと油断するとその難しさ故に恐ろしさを通り越してZZZと僕は寝落ちしちまっている。それ程に難しく恐ろしい文学書である。しばらく四苦八苦して読んで,まあこれがいつもの浅田節だったなぁと思い出す。これはやはり長く新作本が出ないとこういう事の証になるのですよ。いやはや参りました次郎吉アヤビン!笑う。
「直会」 なおらい,という言葉が本書には何度も出て来る。ズバリ言うと酒を飲む会だ。でもなんだか神事っぽい響きを持った言葉だ。 僕の高校の同級生にこういう宗教関係の元締めみたいなの家の長男が居る。そいつが広島の某工業大学に通っていた頃から 帰省すると「今日は直会じゃけんのう」とよく言って出かけていたのを思い出した。というよりそれ以来「直会」と云う言葉にはこの本を読むまで出会わなかった。
ネットを調べると 『神道において神事の後に神職や参列者で御神酒や神饌をいただく儀式です。神様への感謝の気持ちで食事やお酒を振る舞い、神と人とのつながりを確かめることを目的としています。』などと云う記述もあるが,要するにやはり酒を飲む口実なのであろう。ま,でもその友人に当時聞いた記憶によると,まあある種の儀式を伴っていた事だけは確かだった様だ。宗教とは縁のない僕はその「直会」に行った事はもちろん無い。一度行ってみたかったなぁ。
浅田の次郎吉オヤビンの本はとにかくいろいろと勉強になる。たとえば本文P210「多摩川の源流は谷まり」の「谷まり」は「きわまり」と読むこと。PCで漢字変換してみるとたしかに きわまり で 谷まり がでてくる。しかも意味もよぉく理解できる。多摩川が山に入ってゆくと狭まって尾根から深まって谷となってゆくのであるわな。普段はまず使わない言葉や漢字なのにこうやって要所に使うと妙にいい感じで嵌るのだ。流石治郎吉オヤビンだ。
本文P222に こうある。「だったら僕も神社にするよ」。先に書いたが,僕にはこの物語の聞き手がどうにも女子に思えて仕方がない。その因は治郎吉オヤビンの文体にあることは間違いないのだが語り文の中でこの聞き手は自分のことを必ず「私」と云う(書く)。それも女子と勘違いする要因。で,先の喋り言葉の中の「僕」。流石に廻りの従兄弟姉妹たちに「私」と言うのははばかられるのか「僕」を使っている。この時も女子と思って読んでいた僕は違和感を覚えた。と共にともにあ,そういえば男子だったのだ,とあらためて思ったのであった。
もう一つ初めての言葉。P267『天井裏の春子』の一節より。「里の春の様に駘蕩と訪れるのではなく…」駘蕩「たいとう」とフリガナを振っている,が意味は分からない。何故か漢字変換は可能。意味は『のびのびした様子。覚えておいて僕もどこかで使ってみたいものだ。 また、(春の)のどかな様子。「春風駘蕩」などの使い方があり。』同ページにはもう一つあった「…花があとかたもなく毀ち散らされることも…」。「毀ち」読み「こぼち」。この字は流石に変換不能であった。意味は,やたらに壊してばらばらにすること。
今回,本文からの写しが少々しつこいが,もう読んだだけでは覚えられないのでこうやって書き置く事により少しは覚えようと自助努力しているのであった。読んでいる方がもしいらっしゃたら(絶対いないが,笑う)退屈かつ垢抜けなく誠にあいすまぬ事である。なんだかダラダラと取り留め無い感想になってしまった。すまなかった。次郎吉オヤビン,とっとと次の新作をたのんまっせ。笑う。 -
どこまでが本当の話かはわからないが、戦前からの御岳山における生活等が垣間見れ、自然や色彩がとても美しい文章で表現されている。
登山で訪れたことはあるが、現在とはだいぶ様子が異なり、厳しい環境だったことが窺える。
御岳山に宿泊で再訪したい。
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青梅の御嶽山、筆者の母の生家は山頂の集落の宿坊。夏休み集まった従兄弟たちに聞かせる叔母の寝物語。
世俗を超越した隔てられた異界ならではの数々のエピソード。
どこまでが創作か分からないが、浅田次郎の作品のファンタジー調な部分は、この幼児体験が影響しているのだろう。 -
10年ほど前に出版されたものを私は読んだのだが、今回は新たな書き下ろしの短編を加えて完本として出版された。
東京都の奥多摩の霊山・御嶽山の上にある神官屋敷は、浅田氏の母親の実家なのだそうだ。
浅田氏が少年だった頃、従兄弟やはとこ達と夏休みのほとんどをこちらの屋敷で過ごしたとのことだ。
就寝前、布団に横になった子供の枕元で、美しい伯母から怪談めいた夜語りを聞かされるのが常だった。
怖い話なのだが、少年少女達は不思議な世界へ引き込まれていた。
これらの話は、太古から神主に語り継がれたもので、浅田氏はこれに脚色を加えて短編集としたとある。
浅田氏のおじさん、おばさんから聞いた話の時代は、明治の頃から戦前の話のようだが、現在の御嶽山の環境とは大違いのような気がする。
神官屋敷の周辺には宿坊としての屋敷が30軒程あったようだが、麓からは険しい山道となっていて、この地域は隔絶されたような集落だった印象を受けた。
この物語の怖いところは、神の所業にあるといっても良い。
神社とお寺の怖さを比較すると、圧倒的に神社の方が怖さは勝ると浅田氏は語っている。
お寺やお墓の怖さには、人間そのものに関わった恐怖だが、神社には八百万の神(やおよろずのかみ)がぞんざいし、その数と種類の多さから様々な異界が生じているためだという。
そういえば他宗教には崇める「実像」が存在するが、日本の神には具体的な「像」というものが存在せず、自然を含めた万物が神というところにあるからだろうか⋯。
山、川、海、岩、大樹、小動物など、あらゆるものが神となる信仰は珍しいものだろう。
この一冊、「日本の言葉」と「日本の自然美」を愛でる浅田氏にとっては真骨頂の内容が盛り込まれているような気がした。 -
奥多摩にある御嶽神社の宿坊に集まった夏休み中の子供たち(従兄弟、従姉妹)に明治生まれの伯母が寝物語を話して聞かせる形で神社の宮司だった主人公の曽祖父や祖父に纏わる神座す山のエピソードが語られる。久しぶりの浅田節に思わず泣かされた短編集でした。それにしても著者の作品にはいつもながら美しい女性ばかりが登場します。
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表紙とキャッチコピーに惹かれて衝動買いしました。読んでみると少し不思議で、少し怖い話でどれも大変面白かったです。こういう不思議な現象と人間が共生していた時代があったんだな…としみじみ感じました。いつか御山に行ってお参りしてみたいです。
普段は静かな環境で読書しますが、無性に雅楽が聴きたくなりBGMとして流して読みました。とってもマッチして雰囲気が出るのでオススメです。 -
子どもの頃多摩地区に住んでいたので、御嶽山には遠足で行った記憶がある。
その山が神様の住まう山とは知らなかった。
どの話も非常に興味深く面白く読んだ。
小説ではあるが民俗学的な要素が満ちている。
読み終わるのが惜しいと感じながら、一つひとつ大切に読んだ。
あらためて御嶽山へ行ってみたくなった。
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八王子児の小生は御嶽山には登ったこともあり麓のこともよく分かる。本書を読んでいると江戸から明治、大正昭和へと時代の移り変わりを感じてしまう。この頃の子どもの楽しみは父や母、祖父、祖母から寝もの物語で怖い話しを聞くのが楽しみであったろう。本書はそれがぎゅう詰めなった一冊だ。楽しく読み終えた!
著者プロフィール
浅田次郎の作品





