自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

著者 :
  • 双葉社
3.55
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本棚登録 : 203
レビュー : 32
  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784575299984

作品紹介・あらすじ

人生の果実は充分味わった。65歳の春。晴朗で健全で、そして平常心で決行されたひとつの自死。老いと死へと歩む私たちの必読書。

感想・レビュー・書評

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  • 皆さんのレビューが素晴らしい。
    私は「老人のみつぎもの」を頂戴する前に逝きたいが、それがいつ来るのか予測できない。加齢臭に自分で気づく事も出来るか否か。自死=人生の全否定 ではないし人から迷惑だと言われても自分の死期は自分の選択で何が悪かろう。
    自殺に見せかけた他殺がある事、自殺を助けると罪になる事などが問題なのだろうな。
    この先生の講義を受けたかったな。

  • 自死という言葉に惑わされず、生き方を考える本、生きる為に必要な本として読んでもらいたい一冊。

  • 須原一秀氏。大阪の大学で哲学の講義をされていた先生で、2006年65歳のときに自死しました。
    この本と自死決行は彼のひとつの『哲学プロジェクト』で、「一人称の立場での死の認識論」、現代人にとって、死にたくなったときや死なねばならなくなったときに読みたくなる本を書きたかったそうです。
    上原隆氏の本で、彼のことを知りました。上原氏は彼の妻と息子と、自死を計画していたことを知っていた友人に会います。

    きっとすごく変人なんだろうと思って読んでみました。ソクラテス三島由紀夫伊丹十三の気持ちはわからないけど、他のことはすべて納得いく内容でした。
    批判の余地はまったくありませんでした。自死というと暗いですが、遺族もさっぱりしていて、mixiの彼のコミュに息子さんがお父さんの本を紹介しています。

    最近渡辺和子さんの数年前に出た本を読んで、老いに向かう辛い気持ちが伝わってきました。
    また、彼女のお母さんは絶対ひとの世話にはなりたくなかったけど、最後は施設(病院?)のお世話になった、認知症になっていたから自覚していなくてよかった、というのを読んで、それって本当にいいことなんだろうかと思っていました。
    そしてこの本には渡辺和子さんみたいなキューブラーロスという聖女が登場します。彼女も実際に自分が脳梗塞になり死を間近にすると変化していきます。聖女であり続けるのが難しいのです。

    そんなことを考えながら読んでいくと須原氏の死に方というか生き方はものすごく共感します。
    でも自分がそういう方法を選択するかというと今の時点ではなんともいえません。
    ちょっとケガをしただけで辛いし、海で二回ほどパニックになったときの恐怖の体験を思い出すと。
    私が老人になったときには安楽死が認められているかもしれないし。
    いちおう心にのこった文をコピーしておきます。↓


    ここでいう「老人道」にはそのような泣き言を言う暇はない。人生を愛し、人生からの愛も素直に受け入れ、そして時折の人生の冷たさや厄介なわがままも耐え忍び、また時折は情熱的に与えてくれる人生からの愛に満喫し、やがてはそんな「愛の交歓」も永遠に続くわけではないことを悟り、間髪をいれずに死んでいく人間(以下省略)

    「老人道的自死」は共同体からの逃避ではなく、共同体内で共同体の構成員として立派に生き続けていくために絶対に必要な「自尊心」と「主体性」を最後まで維持し続けるための「共同体内での生活の一環」と見ることができる。

    少なくとも問題を本気で考えずに先送りして結局は周辺に迷惑をかけて無気力のまま自然死していく「受動的自然死派」の人々よりは敬意を表されてしかるべきであるし(以下省略。ただし著者は「積極的自然死派」には尊敬を惜しみません)

    スーパーで嫁か娘に介護されつつも不機嫌そうに車椅子に乗っている90歳位のお年寄りに出会う時、そしてその生気のない顔を見るとき、自分がこのような状態に陥ることはないことにほっとしてしまう。

  • 世の中への恨みつらみが延々と書かれてる本かと思ったら全くそんなことは無かった。
    健康的で、地位も、名誉も、収入も確保されながら、人生を謳歌していた著者が、明るい精神状態の中で自死を実行し、その理由と動機と心情を綴った本。
    「自死=絶対に避けるもの」という一見当たり前の命題が、全く根拠がなく、また終末期医療の現場にて無為な苦しみを生み出しているかがよく分かった。
    ただ、いつでも死ねるという考えが生の張り合いを無くすこともあるので、自分のような青臭い若者が読むべき本ではないとも感じる。
    生きていればまた30年後に読み返したい。

  • 自死という生き方―覚悟して逝った哲学者を読みました。テーマだけに感想を書くのも躊躇してしまう。著者は自死の普遍化という難しい問題に取り組んだが、私はこの問題に幾ばくか意見できるほど成熟していない。分かったようなふうな意見しか言えない気がするのである。あえて言えば、メメント・モリ(自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな)を私は忘れてはいけないと考えている。

    私は以上のようなことを三人称の立場で客観的に主張してるのではなく、一人称の立場に立って主張しているのである。そのことを読者は重々考慮しながら受け取っていただきたい。 (P105)

    覚悟の書である。

  • 65歳で自ら死を選ぶことを哲学的に考察して実行した人《赤松正雄の読書録ブログ》

     この本を取り上げるのは少々悩んだ。2年ほど前に出版されると共に読んだが、ここで紹介するには憚られた。自殺のすすめであるかのごとくに誤解されかねないからだ。須原一秀『自死という生き方』である。本来は『新葉隠 死の積極的受容と消極的受容』といった須原氏の遺書を、評論家の浅羽通明氏が家族と共に、本人の死後に公にしたものだ。

     「私の人生は65歳までである」と30歳代から周辺に明言していた著者は、そのとおりに自身の哲学的事業として自ら命を断った。06年の四月に、ある県の神社の裏山での縊死。頚動脈は自ら刃物で斬り裂いてあったという。この人の考え方の背景には、自然死は苦痛であるとの認識がある。一般的には天寿を全うすることが人生の理想とされているのに、この人はそれを否定し、むしろ長生きして自分が自分でなくなる状況の中で苦しい死を待つよりも、むしろ元気で身体も精神も最高の状態の中で死を自ら選ぶことが尊い生き方だというのだ。

     かねて私は、自分で死を選ぶ人は、いかなる理屈をつけるにせよ死の直前には精神に異常をきたしているものとの思い込みがあった。しかし、この本を読んでからそうではなく、やがて誰にもくる死の時を自分が元気の絶頂にあるときに選ぶのが望ましいと考える人が極めて少数ながらいるということが分かった。三島由紀夫、ソクラテス、伊丹十三の三人の自死を例にとりながら謎解きをしていく須原さんの筆さばきは絶妙だ。

     私の親友で65歳になったら死にたいと言っていた男がいるが、彼もこれを読み大いに共感したという。ただし、先日会ったら、少しその実行を先延ばししたような言い回しをしていた。

  • 080904購入。080905読了。
    「平常心で死を受け入れることは可能か?」という問いから始まった著者のライフワークともいうべきこの作品。そして、この本は、著者の「自死」という試みにより相互に補完され、著者が嫌っているであろう観念的な「死」を語る作品に終始することを避けている。ちょうど三島の「葉隠入門」を少し前に読んだところだったので、内容的にはすんなりと受け入れられた。この本を読んでつくづく感じたのは、結局「死」とは主観的なものだということである。病室で家族に看取られながら自然死するということは、周りからみれば安らかな最期だったと納得できるが、ヌーランド以下須原氏も述べている通り、自然死はそんなにあまいものじゃないそうなので本人にとっては望ましい死に方ではない可能性が高い。一方氏のような人工死は、周りにとっては不可解であるが、覚悟を決めた(氏の提唱した「死の能動的五段階」を経た)人にとってはこのうえなく恵まれた死に方である。残されたものの悲しみを思えという反論もあるだろうが、まずこの本が画期的なのは「平常心からの自死が不可解である」、「自死というものはすべて否定すべきものである」という観念を覆そうとしているところである。正直、この本を手にしたとき、あほらしいと思った。それは彼が自殺をしたからである。もともと自殺に関する本を読んでいて、三島以外の自殺はすべてくだらないものだと結論付けていたときであった。(三島の死は本作で「老衰」を避け主体的に死ぬことと語られているが、未だ僕は三島に興味を惹かれて止まない、なぜだろう)この本はどちらかというと医療倫理学の本だ。彼は死に価値をもっていない。過剰に死に意味づけしてるのは意外にも周りの人々だと思った。人工的な世界で生きながら死にだけ自然をもとめる。彼は自分の意思で、仕事をし、ご飯をたべ、遊び、そして今までの人生どおり、自分の意思で死んだだけである。「尊厳死」というとすでに世に知られている感があるが、今回の場合、病人でもない普通の人が、能動的に死を選んだというところに、新しい道を見ることができる。この本によって人々がどう感じるかわからないが、なにやらこれからの社会の方向性を決める本になりえる可能性を秘めた本である。

  • 2006年4月に某県で自死した須原氏。65歳という年齢で、自分が自分でいられるうちにきちんとした形で人生を終えようとした哲学者の平常心の自死でした。日本には昔から武士道の「切腹」に代表されるような潔い死というのが存在します。自然死、事故死以外に、自分で自分の死を選ぶという時代がくるのではないか?それを自身の死という形で問いかけた遺書とも言える一冊。深く考えさせられましたが、ちょっと難しかったです。

  • 身銭を切っている。

  • まず、本書を読む前に一番気になっていたのが「自分はサバサバと死んでいくとしても、残された家族は?また、自分の自殺した姿を目撃してしまった人がトラウマになったら、まして子供が見てしまったりしたら?誰にも迷惑がかからないと言えるのか?」という私の疑問についてどのように書かれているのかということだったのだが、直接これに関しての弁明が本書内で語られている箇所は残念ながら見受けられなかった。
    私なりに推察するに、自分の人生をどこで終わらせるかという自由選択、つまり家族であろうともこれに口出しすることはできない、と言っていることを鑑みれば、上記に上げた疑問に対する答えは「例えば悲惨な事故死を遂げたとして、それを目撃してトラウマになった人がいたとしても、その事故死した人に責任を問えるか?」とこういう理屈なのではないかと思う。
    多くの人が必ず訪れる死について真剣に考えていないという著者の憂いはもっともなのだけれど、今の私にはどうしても「自死」という生き方は「苦しい老いをスキップする」というズルにしか思えず、本書はそれに対する言い訳のようにしか感じられなかった。

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