- Amazon.co.jp ・本 (104ページ)
- / ISBN・EAN: 9784575311884
感想・レビュー・書評
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去年1番心に残った映画。結局1度しか観られていないけど本書で知ったことを意識してBDで見直したい
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買いです!
映画館でパンフレットを買ったら、しばらくして売り切れ続出と聞いていたのでほっと胸をなでおろしていたのですが、パンフレットが手に入らなくても、この公式ブックが手元にあれば十分なんじゃ!?と思える充実度。ストーリーもカラーのカット付きで最後まで振り返れるし、設定資料もスタッフさんのお話もてんこ盛り。素晴らしい。 -
原作のマンガ、映画、そしてこのガイドブックの順番で拝見。
作品をより深く理解したい方にオススメ。
ただ生きていること、普通に生活していることが
こんなにも素晴らしいことだと思わせてくれる映画。
何気ない日常を丁寧に描いている。
人間の自然な感情や雰囲気を
どうやってアニメで表現できるかを追求している。
小さくて細やかな配慮が所々になされている。
実際に生きていた人の足跡を探る作業を丁寧に行っている。
それはまるで、すずさんが実在の人物かのよう。
ふと、祖父はジャガイモが苦手だったことを思い出した。
戦場で嫌なほど食べた記憶がよみがえるから、とのこと。 -
のんの声優良かった。良い映画を見たなぁ。やはり戦争のことは忘れてはならない。
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ひとまずここでレビューを記録。
仕事も育児も介護もサボり、スキマ時間にかなり久しぶりに映画館へ。
時間帯が合ったことと、かなり話題になってることで、この作品を選ぶ。
マンガで読んだことがあったけど、冒頭しか覚えてなかった。
素敵な夫婦だな、という感想はマンガも映画も同じだった。
映画館でしっかり見たことで、さらりと読んだマンガより感じるものは多かった。
あの時代の雰囲気や人の生きる力、人と人の絆。
観ている間、サボってる自分がいたたまれなくなり、仕事や育児や介護をもっともっと頑張らなくてはと奮い立たされた。
話題になるだけのことはある完成度で、この先火垂るの墓に次ぐ戦争アニメになるのではないか。
人気の広がり方や、クラウドファンディングで資金を集めたことなども面白い。 -
映画のレビューだったりして。
今年の最高傑作
後世まで観られるべき映画
心が震えた
こんな評価を得ていたから、わたしは無意識に反発してみてしまったのかなぁ。
嫌な話ではなかった。
観てよかったと思った。
このような戦争の捉え方もあるのだと思った。
でも
心が震えはしなかった。
という感想。
何だろうな。
原作も読んだことはないので
とんちんかんな感想かもしれないけれど、
戦争の名を借りた、女の子の成長物語、みたいな。反戦映画という人もいるけれど、なんか、そんな気はあんまりしない。
ずっと…一人称なんよね。いや、もちろんね、戦争時における市井の人間を描いたのだから、そうなんだけれども。
何だろうなぁ。うまく言えない。私の思う戦争のイメージと全然違ったから、それを受け入れられてないのかもしれない。
前にこのbooklogに、載せたのだけれど、もう一回コピペして、載せてみようかと思う。そのことにまつわる、追記もあるのでそれとともに再録。
村上春樹の、「壁と卵」のスピーチを読んで思った、私の、おじいちゃんと戦争の記憶の話。
(私の壁と卵)
これから、おじいちゃんの話をしようと思います。
わたしのおじいちゃんはもう93になり、自分でできることも少なくなってきました。わたしはここ数年実家に身を置いていたので、その経過を間近に目にしてきたのですが、その経過を思い返すに、思うことがあるのです。
わたしがまだ実家に帰って来たばかりのころ、おじいちゃんは私のことを叔母(つまり自分の娘)だと勘違いしており、30を超えて結婚していないわが娘のことをひどく心配していました。それは時に少し前の時代を反映した、私を傷つけるような言葉も含まれており、おじいちゃんにそんなつもりはないと分かっていても、泣くこともしばしばありました。けれども私はその年、やたら事あるごとに、ケーキを買ったり、お土産を買って来たり、誕生日プレゼントを用意したりと、おじいちゃんにできる限りのことをしたいと思って行動していました。「来年は、娘だとすら、思ってもらえないかもしれない」となると、今できることを、できる限りしたいと思っていたのだと思います。
翌年の誕生日、おじいちゃんは、私のことがやはりもっとあやふやになっていました。正直、わたしはもうそこに、悲しみだとかそういうのは、感じていませんでした。日に日にできなくなることが増えていくおじいちゃんが、いかに気分よくいられるかという現実的な問題の方が、私にとってすごく大切なことだったからです。
歳をとると、色んな事を忘れて行きます。わたしは、おじいちゃんの側にいて、その「忘れて行くものの順序」を、目の当たりにしていたような気がします。最近のこと、日常のこと、家族のこと。まるで、子供に戻っていくかのように。
ただ、私のことを忘れてなお、おじいちゃんには強烈に消せなかった記憶があります。なんだと思いますか?
それは「戦争の記憶」です。私と家族は、何度もその場面に巻き込まれました。真夜中に、ぱっと目を覚まし、出動だとばかりに準備をしたり、ときに大きな声を出すこともありました。敵が襲ってくるとばかりに「落ち着いてください」となだめるわたしの母を、「何をそんなに悠長なことを言っているんだ」と叱責することもありました。そのときのおじいちゃんの様子は、言葉もはっきりしていて、全然違うのです。ともに戦争を過ごした人と会話をしているのかな、という場面であったり、「自分は行かなくてはいけない」と、家を出ようとしたことが、何度あったでしょうか。
渦中にいると、大変だったことも多いのですが、私の脳裏に焼き付いているのは、「それでもなお戦争の記憶は消せないのだ。おじいちゃんの体に、忘れたくてもしみついて離れないものなのだ」という、強烈な苦しみへの驚嘆と恐怖です。
おじいちゃんは孫のわたしたちには、戦争の話なんてほとんどしませんでした。母にはいくらか、その話をしていたようですが、母を通しておじいちゃんは中国に送られたという話を聞いたことがあります。そこで、どのようなことがあったかは詳しくはわからないのだけれど、母は、「おじいちゃん、中国の人のこと、絶対に悪く言わないのよね。」と言っていました。記憶の奥底に持ち続けていた、おじいちゃんの戦争の記憶は、相手への敵意の気持ちではない、もっと言葉にできない、私の想像力の及ばないものなのだと、思います。
わたしは、戦争が終わって久しい年代に生まれた人間です。ただ、小学校の頃に見た戦争のドキュメンタリーやアニメや、終戦記念日を前後に行われるドラマは、じりじりと焼けつくような暑い夏の日に、「このような中で、こんな生きものが活発にうごめく暑い季節にさえ戦争という冷たく恐ろしいものが行われていたのだ」という恐怖を私に与えました。それは、今見る戦争のドラマとは、少し違ったように思います。何て言うのでしょう。もっと強い「死の匂い」があったように思うのです。それは、戦争を体験した人たちが、身近にまだ多くいたということと、無関係ではないのではないかと思います。「見たくないもの、汚いものは映像に取り入れないこと」で、どことなく形骸化した今の戦争のイメージ。それは、私の子供時代の印象と大きくかけ離れているように思うのです。もちろん私の子供のころでさえ、すでに終戦から50年を迎えていたので、「形骸化」は進んでいたのでしょうが…。
おじいちゃんの記憶に関しては、まだ続きがあるんです。それからしばらくして、おじいちゃんは、戦争のことは口にしなくなりました。戦争の記憶が、ついに薄れて行ったのではないかと思います。その先におじいちゃんが持ち続けていた記憶は、何なのか。
わたしには兄と弟がいますが、弟が一番のおじいちゃん子でした。おじいちゃんは、もう弟だと分かってはいないとは思うのですが、弟が帰ってくるたびにすごく顔をほころばせます。昨年は兄夫婦に子供が生まれ、おじいちゃんはひ孫を本当にうれしそうに抱っこしました。泣く姿さえ、慈しんでいました。また、わたしは日中勤めているので叶いませんが、母と父がおじいちゃんと外食に行くとき、そこに小さな子がいると、ものすごく嬉しそうにするそうなのです。
おじいちゃんは、消せない戦争の記憶を持っていますが、それよりも強く未来に希望を持っていたのではないかと思うのです。消せない記憶を、自分の中に収めて、より良い未来に、思いを寄せていたのではないかと思います。孫としては、そのように考えたいのですが。
ただ、どうなんでしょう?おかしな話かもしれませんが、わたしはおじいちゃんから、「おじいちゃんは、自分の中に収めて、『繋げることを拒んだ何か』を持っている」という事実自体が、わたしに大きく響いているのです。そしてそれは、おじいちゃんにとって、様々な薄れゆく記憶の中になお消せずに、固くとどまっているほどのものなのです。わたしはその、「繋げることを拒んだ何か」について、そうすることを選んだおじいちゃんの思いについて、なんとかしなくちゃと、思うのです。
そのなんとかしなくちゃ、というのは、声高にこのことを人に語るとかそういうんじゃなくて、もっと何か、日常に落とし込んで「私なりの形で受け取り、引き渡していく」のだろうかと、考えたりもしているのですが、まだ答えは出ていません。ただ、言えるのは、一人の人間が、どれほどの思いを抱えて、「繋げることを拒んだのか」ということを踏まえると、私は、戦争に関わるいかほどの些細なものも、この先許してはいけないのではないかと、思うのです。強く思うのです。形骸化した「平和」や「戦争反対」を嘯くんじゃなくて、もっと切実に、痛切に、そう思うのです。
これがわたしの、おじいちゃんから受け取った小さな戦争の記憶の断片です。
追記
あれからまた時がたち、最近のおじいちゃんは、自分の名前すら思い出すのが危うくなってしまう時があります。
私は今日、「この世界の片隅に」を見に行ったのですが、その前日に、おじいちゃんの弟が亡くなりました。
今日は、そのお通夜です。
自分の名前も危うくなる時があるおじいちゃんなのに、弟の名前はしっかり憶えていて、亡くなったことを告げると、おじいちゃんは泣きました。
私は、おじいちゃんが泣いたところなど、見たことがなかった。気丈で寡黙で、勤勉で、私がこの世で一番尊敬できる身近な人でもあるおじいちゃんでした。そのおじいちゃんが泣いた。
戦争を生き延びてなお、やはり辛いことは起こるのです。当然といえば当然のことです。でも、少しずついろんなものを手放して、楽になっていくようにも見えるおじいちゃんを傷つけるものが、まだこの世にもあるのかと思うと、私は悲しくてやりきれない。私がそばにいる間は、心穏やかにいてほしいのに。
私はきっと、そのような心持の中でこの映画を見たから、心に響かなかったのでしょう。
「生きてゆかねばならんのです。」
そう思った一人であろう現実に生きる人が、戦争が終わって、70年もたつのに、泣いていたという事実のほうが、私には重い。本当に、重い。
神様が、もしいるのなら、明日が、明後日が、その先が、おじいちゃんにとって、健やかで穏やかでいられる一日であることを、願います。 -
ああ、そういや広島行った時、このレストハウス寄ったなぁ、と思い出しました。あそこに街があって、人が通り過ぎていたんだなぁ、と思い出される。
インタビューなども過程がわかって良かったです。
もし次広島行ったら、呉まで行きます。