- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784576960616
感想・レビュー・書評
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1996年刊行の無修正完訳版を古書店で購入。
きっかけは『三島由紀夫集‐雛の宿』に収録されていた文学論
「小説とは何か」で
第二部「わが母」が激賞されていたこと。
第一部に当たる「マダム・エドワルダ」のみ再読。
基本的に、性的に奔放で常軌を逸した女性の言動に
翻弄される男の姿が描かれ、
しかし、自らに絶対的な服従を強いる女の内部に
彼が神性を見出すという展開になっている。
ハムレット『マクベス』ではないが、
「キレイは汚い、汚いはキレイ」――の向こう側へ
言語の力で超越しようという試み、のように受け取れた。
第一部「マダム・エドワルダ」
酔漢が売春宿へ行き、
羞恥心を持たない娼婦マダム・エドワルダと出逢う。
彼女が他の男と交わる様子を間近で見つめること
=絶対的な服従を強いられる語り手の「おれ」。
サン・ドニ門の傍で、黒づくめのエドワルダが
束の間、闇に溶けてしまう描写が秀逸。
ちなみに、本文に一部、欠落があるが、
1988年刊行の白水社版も同様なので、
これはそもそも原文が伏せ字ということか。
第二部「わが母」
母親が独特の異様な哲学に従って、自身の息子を、
冒瀆を侵すことによって己の限界を超え、
「堕落という名の正しい道」へ転落するよう、
導こうとする様が、息子の視点で回想される物語。
母=狂気=神性。
ちなみに、2004年にフランスで映画化され、
日本でも2006年に
『ジョルジュ・バタイユ~ママン』のタイトルで
公開されたとか。
知らなんだ……。
第三部「シャルロット・ダンジェルヴィル」
第二部の後日談。
主人公ピエールは生前の母の手紙に
「性に目覚めたのはアンジェルヴィルの納屋だった」
という記述があったため、アンジェルヴィル村へ行き、
以前母から聞いていたシャルロットという名の従姉と会う。
シャルロットはピエールの母に愛の手解きを受けたと語る……。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著作集第5巻。今年始めて読んでいて衝撃を受けた本だった。。母親の「性への狂気」に、僕は飲まれてしまうのかどうか、と小説として異様な妖艶さを誇っているように思え、自然とページをめくって読んだ。
眼球譚とはまた違う、バタイユのエロティシズムへの本、と捉えればいいのだろうか。バタイユの小説は中に出てくる概念が何のシンボルなのかを理解することが難しいから、読んでいてもよく分からなかったのだと思う。特に眼球譚は(というか、内容があまりにも露骨に衝撃を与える)。
どうなるのか、と展開に奇妙な期待をした一方で、もう2度と読みたくないと思い、読みながら本能的にこの小説を拒否した自分がいるのも事実だ。ここまで変な期待をした自分の中にも、この類の狂気が内包されているように直感的に思えたからだ。
これを読んで考えたことをもう少し厳密に言うと、上で「性への狂気」と呼んだものが自分の中にあるのかどうか、ということだった。まず、「性への狂気」などと呼んでいるが、実際、本当に性への狂気なのか、という問いにまず答えられない。しかし、自分の直感的に感じたものは「性への狂気」という風にしかネーミングできないからそう呼ぶしかない。つまり、「性への狂気」の正体が見えない。また、ラカン的に考えれば、この本を読むということは、この小説を「分析家」として精神分析をした、と捉える事ができる(正しいのか?)。その結果、自分の中に「性への狂気」が存在すると感じた。これは、いわゆる同族嫌悪と呼べる現象から考えた結論でもある。
つまり何が言いたいか、というと、「性への狂気」と呼ぶこの本を読んで感じた狂気が自分の中に眠っているように感じられ、そして重要なのは、それは確実に自分を滅ぼすと思い、思わずその存在を拒否したくなるほどだった、という事だった。本当は、もっと書きたい事があるが、残りの全集を読んだ後に触れようと思う。 -
下鴨古本祭で購入した本
分からないから勉強になる
性と聖について
あるいは人間にとっての幸と不幸とを思索させられる
キリスト教を学べばもっと良いのかも知れないが
「わが母」も当然よかったけど
「マダム・エドワルダ」の幻想的な街角が個人的に好み -
陶酔感で頭くらくら
「母」の微笑みがこびりつく -
中学生の時に読んだ本