- Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582760118
感想・レビュー・書評
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サイードに魅了されたからには避けては通れぬ必読の書、評判では難解な学術書といったイメージでなかなか手を出せなかった。しかし一旦読み始めればするする頭に入ってくる。サイードとの相性がいいのだと自惚れる。時に細部の理解が難しく躓くことがあっても言わんとすることは伝わってくる。表現を変えながらも意味の反復が幾度もあるので、そこでの理解が薄くても次第に深まるといった丁寧な(しつこい)仕組がある。サイードは怒れる知識人なので、抑えた論調の中でも隙間から感情が漏れ出てくる。そこがとても好きだ。非常に面白い。下巻へ。
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東大、京大、北大、広大の教師がオススメするベスト100
No.2
大学時代にムリヤリ読まされた記憶が。理系はGEB、文系はオリエンタリズムといったところか。
歴史とは自らを正当化するためのラベリングの歴史そのものだということを暴く。つまり、「オリエンタル」という言葉・概念は西洋によって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学の中に見ることができる。「オリエンタル」というレッテルのおかげで西洋は優越感や傲慢さや偏見でもって、東洋と接することができたという主張を念入りに検証している。
皮肉だな、と思ったのは、オリエンタリズムを批判する証拠物として、東洋で作られた著作物や芸術作品が提示されていないこと。そして、「西洋から見た東洋」の作品が挙げられていること。もちろん事実上「東洋」で作成されたものもあるが、それは「こういう『東洋』なら西洋は買ってくれるに違いない」という意図のもとで、自分で自分をステレオタイプ化しているに過ぎない。レッテルを貼られた被告人の告発ではなく、まさにそのレッテルこそが証拠なのだと。この手法はオタク擁護から夫婦喧嘩まで手広く応用できるね。amazon解説より。
「オリエンタリズム」とは西洋が専制的な意識によって生み出した東洋理解を意味する。本書はその概念の誕生から伝達までの過程をあますところなく考察した1冊だ。サイードは、東洋(特にイスラム社会)を専門とする西洋の学者、作家、教育機関などの例を挙げ、彼らの考えが帝国主義時代における植民地支配の論理(「我々はオリエントを知っている。それは西洋とはまったく違った、なぞめいた不変の世界だ」)から脱却しきっていないと厳しく批判している。 -
【読書レビュー 592】
エドワード・サイード『オリエンタリズム上』平凡社、1993年
以下、本書より。
オリエンタリズムとは、文化、学問、制度に外側から映し出された単なる政治的な研究主題または研究分野などではない。
また、オリエント関係の膨大なテクストのとりとめのない集合でもない。
さらにまた、「オリエント的な」世界を抑圧しようとする「西洋の」なんらかの悪辣な帝国主義的陰謀を表象したり、表現したりしているものでもない。
むしろオリエンタリズムとは、地政学的知識を、美学的、学術的、経済学的、社会学的、歴史的、文献学的テクストに配分することである。
またオリエンタリズムとは、(世界を東洋と西洋という不均等な二つから成るものに仕立てあげる)地理的な基本区分であるだけではなく、一連の「関心」、すなわち学問的発見、文献学的再構成、心理学的分析、地誌や社会誌の記述などを媒介としてつくり出され、また維持されているような「関心」を精緻なものにすることでもある。
さらにまた、オリエンタリズムとは、我々の世界と異なっていることが一目瞭然であるような(あるいは我々の世界に変わり得る新しい) 世界を理解し、場合によっては支配し、操縦し、統合しようとさえする一定の意志または目的意識―を表現するものというよりはむしろ―そのものである。 -
本書は西洋の知識人であるサイードが、我々西洋(オクシデンタル)の人間が東洋(オリエンタル)というものをどのように解釈してきたのか、その「言説」を巡った本である。西洋至上主義に対する批判という面ではドゥルーズを、言説・解釈に対する考察という面ではフーコーを想起させる。
注意としては、ここで論点になる「オリエンタリズム」というのはあくまで「西洋に対比される東方諸国」であって、具体的にはエジプトやインド、イスラム諸国といった中央アジア地域について述べられている事。少なくとも上巻の時点では、中国や日本といった東アジアの国々は出てきていない。
膨大な事例を駆使してサイードが主張するのは、「結局、私たちは東洋人というのを理解してはいないのだ」という事実であり、西洋史で描かれる東洋人というのは彼らの時代の欲望が反映された姿に過ぎないと喝破する。
そしてこれは、オリエンタリズムに限った話ではない。カントが理性の限界を指摘した通り、私たちが「それ」を見ているからといって、「それ」が本当に「それ」であるという確信なんて存在しない。にもかかわらず私が思ってる「それ」は「それ」に違いないと思い込むこと、その欺瞞性に対する批判なのだろう。
深淵を覗き込むとき、それが本当に深淵であるとは限らないのだ。 -
行き帰りの電車の中でたらたら読んでたら1ヶ月近くもかかってしまった。
一見、客観的で議論の余地のなさそうなオリエント(東洋)に対する認識が、実は西洋に都合の良い恣意的な解釈でしかなくて。
個人個人のの人間性が消去されて、オリエントという大くくりの塊の単位でとらえられて、オリエントは、西洋と比較される存在、西洋に取り込まれる存在といった形で、西洋との関係の中でしか認識されない。
しかも、その西洋と東洋との立場の非対称の結果、東洋の側でも西洋から見た東洋観を受け入れることになって、ますますオリエント観が強化されていくという…
ちょっと違うかもしれないけれど、ちょうど最近見た「地獄の黙示録」は、ベトナムを舞台にしているけれど、登場人物としてのベトナム人は一人もいなくて、みんな舞台の背景でしかないのがすごく印象的だったのを思い出した。それこそもの言わぬ他者という感じで、この本と通じるところがある気がする -
イスラームへの西洋の視線は、古くはルネッサンス期に始まるほど古い歴史を持つものであり、そうした歴史的背景に加えて、オリエントを他者化するといった構造的な文化、慣習が受け継がれて現在の視線が存在するのである、というのが上巻を読む限りのサイードの主張です。手法は言説分析で、知識社会学、構築主義に通じるものがあり、これらの分野に興味がある政治学、社会学を学ぶ学生の必読書といえるでしょう。また、オリエンタリズムには、知識と権力が非常に深く関係しているのですが、こうしたサイードの分析は、私たちが所与のものだと受け入れている対象を分析するときの参考になると思います。
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もうとにかく、いかに西洋(人)が東洋(人)という虚像を長い間作り上げ、そしてそのイメージが西洋の帝国主義的侵略の正統化に一役買っていた、ということを延々と述べている。んだと思う。なんというか、執念すら感じる。
気になるのは「じゃあ虚像で飾り立てられた東洋」の「実像」はどうなのか?ということである。しかしおそらくこういう問いに対してはたぶんこう答えられるだろう。「「東洋」に「実像」などというものはない。「東洋」の「実像」として西洋人が認識した瞬間、それは「虚像」となるのだ」と。
でもそうだとしたら、学問の仕事は「虚像である」ということを暴き続けることだけになってしまうんじゃないだろうか。そこにはあまり学問としての生産性を感じないのだが…。さてこの仕事がその後どのように展開していくのか。人文学史のなかでのこの本の位置づけがむしろ気になってしまった。 -
文系学生必読の名著と呼ばれて久しい一冊です。 内容については、植民地主義・帝国主義下における西洋(オクシデント)の知識人たちによる東洋(オリエント)の人々への偏見を論じたものだと私は理解しています。 通学電車に揺られながら少しずつ読み進め、上巻だけでも読破するのに約2ヶ月かかりました。 しかしながら、あまりにも学問的で難解な書物のため、内容を理解するのにかなり苦労しました・・・ 初学者には、複数のメンバーで輪読しながら理解を深めることをお勧めします。
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大学生の時に読んでおいてよかった、と今でも思える本。
なにかを「定義」してしまうことは簡単だけど、その背後にある事象に気付かないことはとても危険だ。
二項対立のわかりやすさは「東洋」と「西洋」意外にもたくさん日常の中に潜んでいる。 -
一貫して、オリエンタルのイメージは西洋が生み出したものであることを、主張したもの。何世紀にもわたって、文献から読み取れるオリエンタルに対する見方を洗い出している。ダンテの地獄編にも言及。