- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582761016
作品紹介・あらすじ
20世紀歴史学の流れを方向づけたフランス「アナール」学派の創始者が、歴史をその全体性において、深層からとらえなおす「生きた歴史学」を熱のこもった語り口で呼びかける、歴史学入門の古典。
感想・レビュー・書評
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ちょっと遠慮したくなった。
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好:『5 マルク・ブロックとストラスブール―ある偉大な歴史の思い出』
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現在歴史学の主流となっている社会史を提起したフェルナン・ブローデルの著作集。当時の歴史学に対する問題提起や、マルク・ブロックに向けた文章など。トインビーの『歴史の研究』に対し、「大して価値がない」と言っていたのが印象的だった。
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歴史の叙述とは、何のためにされるか。
その一、公的になされることを記述し、後世においてその評価を下すため
その二、私的になされた事柄を記述し、物語るため
「その一」の意味がある叙述は、「一次資料」とも呼ばれるものです。経済学とて、実態の分析をする応用分野にあっては、このような一次資料(多くは文献・インタビューではなく、統計ですが)を扱う点においては歴史と何の違いもありません。
「その二」は、歴史を歴史たらしめ、また歴史オタクを生み出す大きな特徴です。
歴史的な「物語」には、赦しがある。
これは、言葉がもともとは音声であった時代の名残なんじゃないかと思ったりします。つまり、文字・数字がなかった時代、神話が歴史を語ることであった時代の名残だと。
さて、そうした歴史の役割を「科学」へと転換しようとした一つの試みがあります。いうまでもなく、アナール学派の試みです。リュシアン・フェーブルは『歴史のための闘い』の中で宣言します。
歴史が人間的な問題を提起するという仕事のみを行うようになるとき、法則を伴う科学となる、と。
彼は「法則性」を見出すことを科学として定義しています。しかし、一方で「法則」という概念に「行動を拘束するもの」が含まれることを否定します。なぜなら、「過去は強制しないもの」だからだそうです。
この熱情的な書籍の中ですら、フェーブルの「科学的」意見はパッとしないように思います。
これは、歴史学の分析による法則からは、仮説や予測が生まれないと宣言しているようなものではないか?果たして、仮説と、その検証を伴わない、「言いっぱなしの法則」にどの程度の意義があるのか?
そんな気がしてなりません。
それでもなお、この本は人を感動させる「歴史のための闘い」の文章です。
それは何より、歴史が持っている、「赦しとしての叙述」が、この本の端々ににじみ出ているからです。
フェーブルの美しい文章を引用しましょう。
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歴史とは人間を対象にする学問です。従って、取り扱う事実はもちろん人間的な事実。そこで 歴史家の任務は、これらの事実を生きた人々、およびそれらを解釈するため自らの観念を頼りに彼等の一人一人の内面に分け入った人々、を見出すことだと言ってよい。
確かに文献を用います。だが、人間的な文献を。文献を構成する言葉自体にも人間の血が脈打ち、すべての言葉はそれぞれが固有の歴史を持ち、時代に応じて異なった響きを発します(・・・)。
文献と申しました。しかし、それは全ての文献でなければならない。(・・・)詩、絵画、戯曲も、我々にとって記録であり、生きた歴史の潜在的な思想と行動で満ち満ちた証拠です。
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さて、経済学は科学たりうるのか?恐るべき難問です。たぶん、僕には答える必要もない問いかけです。が、心に留め置くに値する問いかけかもしれません。
実態の分析をすることは、多くの叙述に接することであり、また、自分の書く文章に叙述的な表現を用いることは避けられません。しかし、経済学としての分析と、赦しとしての叙述を、一つの文章の中に混ぜて書くことはできないのではないかと思います。アナール派の試みは、賛成反対といった単純な感想だけではない、何か社会分析そのものの方法論への大きな問いかけを含んでいるように感じます。