生きる勇気 (平凡社ライブラリー)

  • 平凡社
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感想 : 6
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582761023

作品紹介・あらすじ

神学と哲学、宗教と心理学のはざまに立ちながら、われわれ現代人を脅かす無意味への深刻な不安を存在論的深みから理解し、苦悩と虚無と絶望からの救済=癒し、生きるための真の「勇気」を示す。

感想・レビュー・書評

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  •  私にとっては、まず本屋で見かけても手にとらない、そして手にとって中身をみたら即、棚にもどすだろうタイプの本です。でもなんの因果か出会ってしまったので、読んでみたわけです。哲学や宗教学の素養がないと難解すぎて読めません。一文を読んでも理解できず、同じ文を再読する、でもわからず再読、という繰り返しのうち眠ってしまいます。でも飛ばし読みしているうちにある一文が目に飛び込んできてそこに衝撃をうけました。「十字架につけられた彼(キリスト)は、彼が信頼していた信頼の神が、彼を、絶望と意味喪失の暗黒のなかに見捨てたときにも、なお彼の神でありつづけたその神に向かって叫んだのである。」この言葉に出会ってしまったので、この本は飛ばし読みではなく、難しくても手元においてコツコツと精読するつもりです。そういう本を一冊だけでも身近においておくのは無駄ではないと思いましたので。

  • 哲学

  • 創造の過程の担い手が個人、宇宙のユニークな代表。自然の無意識的創造性が人間の意識の中に撮っ室している人間。宇宙の創造の過程への参与という観念によって霊感を与えられた人。情熱と合理性が統合されている。個人として生きる勇気と全体として生きる勇気の両者が一つになっている。

    リベラリズムとデモクラシーは互いにぶつかり合い、そしてそれは二つの可能性を持つのであった。リベラリズムがデモクラシーによる社会体制を切り崩して崩壊に導くか、あるいはデモクラシーが集団主義的全体主義への転化するか。(ここでいう「デモクラシー」とは本質的に何を意味しているのか?)

    アメリカ的自己肯定、人類の創造的発展の参与者として自分自身を肯定すること。

    アメリカにおける存在の力とその意味が現出するのは「生産行為それ自体について」である。神学者ならばこう問う。「なんのための目的か」「手段が目的を飲み尽くしていないか」「手段が無制限に作り出されること自体、目的の欠如を示すものではないか」
    大概、アメリカ生まれのアメリカ人は、目的の欠如を意味しないかという問いに対して、それを肯定する傾向を持つ。しかし手段の生産、それ以上のことが含まれる。生産すること自体が目的なのである。

    プラグマティズム、ホワイトヘッドのプロセス哲学。

    神を超える神に捕らえられている状態、人間の様々な状況における境界そのもの。絶望する勇気であると同時に、すべての勇気の中にある勇気、勇気を超えた勇気。それは人間がその中に安住しうるような一つの場所ではない。それは言葉や概念で伝達されるような安全性を持っていない。名称もない。教会も、祭儀も、神学もない。しかしすべてのものの深みにおいて働いている。それは存在の力であり、それにこれらすべてのものが三、四しているのであり、そしてそれらすべてはその断片的な表現形式。

    運命と死の不安の中で我々がこの<存在それ自体>の力を知るようになるのは、それまで人々おして運命の有為転変や死の恐怖に耐えしめてきたところの伝統的なシンボルがその力を失った時である。「摂理」が迷信とかし、「霊魂不滅」が幻想と化した時、かつてこれらのシンボルの中で生きていた力がもう一度現出していき、そして世界の混沌と実存の有限性の経験にもかかわらず、それが我々の中に生きる勇気を作り出す。これは普遍的理性への信仰ではないがやはりストア的勇気である。それは運命と死における無の力に打ち勝つべき何か具体的な印が現れていないにもかかわらず、存在に対して「しかり」というところの絶対的信仰という形におけるストア的勇気だが、それが再び帰ってくる。

    伝統的シンボルがその力を失った時。
    神の審判が心理的なコンプレックスと解釈され、「赦罪」が「父親のイメージ」と誤解されてしまった時。かつてこれらのシンボルの中で生きていた力が、もう一度現出していき、そしてあるがままの状態とあるべき状態との間の無限の隔たりの経験にもかかわらず、それが我々の中に生きる勇気を作り出す。無意味性の不安を自分自身へと引き受ける勇気は、生きる勇気がいたりうるところの極限。

    この限界の向こう側には単なる非存在があるだけである。この勇気において、すべての形態の勇気が、<神を超える神>の力が再生してくる。生きる勇気とは神が懐疑の不安の中で消滅してしまった時にこそ基礎付けられている。


    「境界線に立って」
    ほとんどあらゆる領域に渡って、あれかこれかという実存の存在の間に立ち、そのいずれに安住することもなく、しかもそのいずれか一方を決定的に退けるような決断も下さないというのが私の運命であった。

  • パウル・ティリッヒは理性を重んじ、自律を説くことでキリスト教の思想的沃野を広げた人物のようだ。宗教を「究極の関わり」と定義した。

    http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20110129/p2

  • 癒し系。

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著者プロフィール

(Paul Tillich)
1886-1965。カール・バルト、ルドルフ・ブルトマンと並ぶ20世紀を代表する神学者。ベルリン大学、テュービンゲン大学、ハレ大学で神学と哲学を学ぶ。ハレ大学、ベルリン大学、ライプツィヒ大学などで教鞭を執り、フランクフルト大学の教授となるが、ヒトラー政権による迫害でアメリカに亡命。その後、ユニオン神学校、ハーヴァード大学、シカゴ大学の教授を歴任。キリスト教の真理性を独自の仕方で弁証し、問いと答えの相関論に基づいて、哲学と神学の統合を試みた。その業績は現代の哲学と神学にも大きな影響を及ぼし続けている。『組織神学』全三巻をはじめ、キリスト教史、宗教社会主義、美学論などを含む多数の著書がある。その多くは『ティリッヒ著作集』(白水社)で読むことができる。

「2012年 『諸学の体系 学問論復興のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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