踊り念仏 (平凡社ライブラリー こ 8-1)

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  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582762419

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  • 2012.11.16

  • 「踊り念仏」と「念仏踊り」  -2005.08.28記

    <踊り念仏>と<念仏踊り>はカレーライスとライスカレーのようにまったくイコールというわけにはいかないようである。
    <踊り念仏>とは、日本の多くの芸能がこれを母体にして生れてきており、あらゆる種類の信仰的要素がこれに結びつき庶民のあいだで伝承され、庶民信仰の本質がかくされているともいいうるものである。
    <踊り>と<念仏>の出会いは、底辺の民の心と生活のなかからいわば自然発生的に生れたもので、いわば庶民ベースの上であったから、初期の<踊る-念仏>は宗教的要素が強かった。この場合、<踊り念仏>であるが、すべからく踊りや歌は宗教的発祥をもちながら、しだいにその要素を稀薄にして、娯楽的要素を濃厚にしてゆくものである。このような段階に至ると<念仏踊り>とよばれるように変化していく。

    <踊り念仏>は近世に入って急速に<念仏踊り>化する。
    <六斎念仏>はもとはといえば念仏の詠唱に簡単な所作=踊りを加えただけのものだったが、京都その他各地の六斎念仏は念仏がまったく脱落してひたすらさかんに踊るので、今では六斎マンボなどと冷やかされもするという話がある。
    いまに残る各地の民俗芸能-太鼓踊りや羯鼓(カンコ)踊り、棒踊りや太刀踊りも、ほとんどすべてが<風流念仏踊り>、あるいは<風流大念仏>とよばれたものである。仮装や仮面をつける剣舞(ケンバイ)や鹿(シシ)踊り、角兵衛獅子のような一人立獅子舞や鬼浮立(オニフリュウ)、女装円舞の小町踊りなども、風流念仏踊りである。
    かくしてすべての盆踊りが、多少宗教性を残した娯楽的念仏踊りということになるのだが、今日、阿波踊りを「踊る阿呆に見る阿呆」と踊る人々が、念仏踊りを踊っていると考えることはまずありえないだろう。江戸前の粋とされた「かっぽれ」もご同様で、勧進聖たちの零落した願人坊(ガンニンボウ)の念仏踊りであったとされている。

    <踊り念仏>からさまざまな<念仏踊り>へと移りゆくなかで日本の芸能は多様な花を咲かせてきたのだが、これらの系譜をたどりなおすことはなかなか興味つきない世界ではある。

    空也の踊念仏

    京都東山六波羅密寺には、口から六体の阿弥陀仏を吐き出しているあの有名な空也像がある。
    脛を出したみじかい衣、腰に皮袋を巻いて、胸には鉦鼓をかけている。右手には撞木を、左手に鹿角杖をもっている。
    この奇体な肖像にはどうやら空也を物語る背景があるらしい。
    空也は若い頃からその生涯を遊行に明け暮れた。都の市中を乞食しながら間断なく念仏を唱えていたから「阿弥陀の聖」とか「市聖」とよばれることになった。
    あるとき、空也が鞍馬貴船に籠もっていたとき、毎日のように鹿が訪れてくるようになって、これを無二の友としていたのに、平定盛という武士が狩にきて、この鹿を射殺してしまった。このことを悲しんだ空也は定盛から、鹿の角と皮を貰いうけて、角は鹿角杖とし、皮は腰に巻いて、以後つねにその身から離さなかったという。
    件の平定盛は殺生にまみれた前非を悔いて出家し、定盛法師と名乗ったが、この子孫たちが空也僧となって全国を遊行し踊念仏をひろめ各地に空也伝説を残したのだろうとされる。その根拠地ともなったのが京都四条の空也堂(市中道場)で、十八家の空也僧が住持し、踊念仏を行い、鉢敲(ハチタタキ)と称されたりした。これを歓喜踊躍(カンギユヤク)念仏ともいったのである。
    六波羅蜜寺の空也像とこの空也僧たちの踊念仏の違いは、彼らが太鼓と瓢箪を用いるようになったことである。金箔、銀箔を塗った太鼓や瓢を撥で打ちながら踊る。空也堂系の六歳念仏にはそれが今も伝わっており、焼香念仏ではこれらが用いられているという。焼香念仏とは鉦鼓念仏のことでもあるらしい。
    空也像が首からかけている鉦鼓は、雅楽の楽器からきたものと見做されるが、空也僧たちが今に伝承する太鼓や瓢箪はどこからきたかといえば、直接には田楽などの太鼓が踊念仏に結びついたのではないかと思われる。太鼓はもとは鎮魂の咒具である覆槽(ウケ)からきたものだろう。これがやがては太鼓踊系の風流念仏踊となって全国に分布することになる。
    瓢箪は、現在に伝承される郷土芸能が踊念仏系であることの証左・標識のように、踊念仏に特徴的な楽器となってきた。

     空也の時代には怨霊鎮魂のために御霊会がさかんに行なわれていた。もとは貴族たちのためのものだったが風俗化し民衆化していく過程にあったと思われる。空也が36歳の天慶元年(938)には、京都の大小の辻ごとに岐神(フナドノカミ)が祀られ、御霊祭といわれる祭式を行なっている。これは第一義には疫病の侵入を防ぐための祭りだったろうが、天慶元年といえば平将門・藤原純友の承平・天慶の乱で騒擾としていた頃である。疫病ばかりでなく市中の庶民を脅かし不安に陥れる凶事にはことかかない時代であったから、おそらくはそんな不安をかき消してくれるものとして仮託もされていたろう。こういった御霊祭などが仏教化すれば踊念仏となる。念仏は極楽浄土へ導くものとしてばかりでなく、疫神や悪霊を鎮め送り出す咒文としても民衆に受容されていったのである。また足踏を主体とする乱舞は悪霊を壌却するもっとも原始的な咒術であった。擬音的に「だだ」ともよばれ、陰陽道や修験道では「反閇(ヘンバイ)とよばれるのがこの咒術としての足踏である。

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著者プロフィール

五来重(ごらい・しげる)
1908‐93年。茨城県生まれ。東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業後、京都帝国大学文学部史学科国史学専攻卒業。高野山大学教授を経て、大谷大学文学部教授、同名誉教授。専門、日本民俗学、宗教史。著書に、『五来重宗教民俗集成』(全8巻)『五来重著作集』(全12巻・別巻)の他、『仏教と民俗』『高野聖』『熊野詣』『山の宗教』『日本の庶民仏教』『四国遍路の寺 (上・下)』『円空と木喰』『日本人の地獄と極楽』など多数。

「2021年 『修験道入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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