- Amazon.co.jp ・本 (331ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582764611
作品紹介・あらすじ
「メディアはメッセージである」メディアが発したメッセージ以上に、まさに電子メディアそれ自体が現代人の知覚を広げ、価値観を変えた。「メディアはマッサージである」この冗句も日々の生活で体感される。先駆者として甦るマクルーハンの理論を多彩な視角から浮き彫りにする。
感想・レビュー・書評
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インターネット登場以前の話であるが、じゅうぶん今でも通用する部分はあった。
新しいメディアによりわれわれの感覚は変容するし、それにたいする向きあい方も、従来のままではいけないということ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
共著:J・M・カルキン、ローレンス・K・フランク、レイ・L・バードウィステル、S・ギィーディオン、ジャクリーヌ・タイアウィット、フェルナン・レジェ、デイビッド・リースマン、H・J・チェイター、ギルバート・セルデス、鈴木大拙、訳:大前正臣、後藤和彦、解説:服部桂、原書名:Explorations in Communication(McLuhan,Marshall;Carpenter,Edmund)
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1134円購入2011-06-28
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<目次>
日本の読者へのメッセージ M.マクルーハン 9
テレビ時代の人間像ー新版に寄せて 後藤和彦 11
マクルーハン理論のエッセンスー訳者まえがき 大前正臣 16
マクルーハン理論とは何かーJ.M.カルキン 23
メディアの文法 M.マクルーハン 50
1部 マクルーハニズム
1 聴覚的空間 58
2 言語に与えた印刷物の影響 71
3 メディアの履歴書 94
4 メディア・アフォリズム 101
5 壁のない教室 105
6 テレビとは何か 110
2部 コミュニケーションの新しい探求
1 新しい言語 E.カーペンター 150
2 触覚的なコミュニケーション L.K.フランク 186
3 キネシクスとコミュニケーション R.L.バードウィステル 202
4 先史芸術の空間概念 S.ギーディオン 217
5 動く目 J.タイアウィット 247
6 純粋な色 F.レジェ 259
7 口頭と文字のコミュニケーション D.リースマン 266
8 読むことと書くこと H.J.チェイター 282
9 コミュニケーション革命 G.セルデス 298
10 仏教における象徴主義 鈴木大拙 306
平凡社ライブラリー版 訳者あとがき 319
解説 マクルーハン理論の源流 服部 桂 322
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<メモ>
マクルーハン理論とは何かーJ.M.カルキン 23
023 私たちは「子供」についてあまりよく知らない。「ものをおぼえる」ことについてはもっと知らない。「もの」については、知りたくない以上に知っている。
025 未探求の世界が現在の世界である。マクルーハンは、現在を現在の目でもって見る人がほとんどおらず、たといえたとしても現在をバックミラーでのぞいて過去に還元し、それによって現在を見失っていると考える。
029 「メディアはメッセージである」
第一 (内容やコンテンツではなく)メディアこそ調査すべきであり、メディアこそ人びとが忘れているものだ
第二 メディアと内容の関係。コミュニケーションのそれぞれの形式は、特定の種類のメッセージに適している。
第三 メディアと人々との心の関係。メディアはそれを使う人間の知覚習慣を変える。
第四 メディアと社会との関係。ホワイトヘッド「文明の大きな進歩は、その進歩が起きる社会をほとんど粉々にこわすような過程である」
032 マクルーハンの5つの定理
(1)紀元前1967年ー全感覚が行動に参加した。
033 エスキモーはすばらしい記憶力をもっている。目じるしは何もないのに、白一色の世界を旅し、移り変わる海岸線の地図を学問的にも正確にスケッチすることができる。”雪”を40〜50もの違った言い方で呼ぶ。そして線的な性質のない、音響的空間に住んでいる。
(2)技術は人生を模倣する
034 あらゆる技術とテクノロジーは人間のなんらかの肉体的ないし心理的要素の延長だという命題をあげている。
(3)生命は技術を模倣する
035 私たちは道具を形作り、次に道具が私たちを形作る。私たちの感覚のこうした延長は私たちの感覚と相互作用を始める。これらのメディアはマッサージとなる。
036 解像度が高いメディア”ホット”、解像度が低いメディア”クール”
ホット=映画、ラジオ、講演
クール=テレビ、電話、セミナー
(4)人間がアルファベットを形作り、アルファベットが人間を形作った
(5)1967年(現在)−全感覚が行動に加わることを望む
038 活字は視覚をえこひいきして大部分の感覚生活を圧迫した。活字の独占の終わりはまた視覚独占の終わりでもある。
040 コミュニケーションとはものをいうことにあるのではなくて、いったことを聞かせることにある。
042 今日では6歳の子供が小学校の校門をくぐる日にはとっくに多くのものごとを知っている。小学校入学までに3000〜4000時間テレビを見ている。高校卒業のころまでには15000時間テレビを見るが、学校での授業時間はそれより少ない10800時間である。
045 新しい学習者は「すべてのことが同時に起こる」電子環境の産物なので、線的な「一時点には一つのものごと」という学校環境ではしばしば途方に暮れる。
047 知識の爆発的拡大が各課目間の壁を吹き飛ばしたので、各学問間の交流と理解はますます前進しよう。ものごとの間におかれたカテゴリーの壁の多くは、印刷包装物時代の細工の残り物である。
メディアの文法 M.マクルーハン 50
051 文字教養の既得権益はひどい根深いので、文字教養そのものが調べられたことはかつてなかったのである。
051 アメリカでは印刷物(本・新聞・その延長の工業等)のあらゆる成果を発展させ、その成果を敏速に応用できた。というのも、その前に解体しなければならない時代遅れのテクノロジーの屑の山がなにもなかったからである。
055 文字人の電子メディアは、世界を一つの村ないし部族に縮小する。
056 この本のねらいは、印刷物とコミュニケーションの新テクノロジーにたいする認識を発展させ、これら相互のフラストレーションと衝突を最小限にくいとめ、諸メディアを合奏させ、教育の過程において各メディアから最大のものを引き出せるようにすることである。
1 聴覚的空間 58
059 「聞く人」と「見る人」
はじめに言葉があった。これは話し言葉であって、文字を知っている人の使う、目に見える言葉ではない。
一方、私たちの社会では、現実的であるがためには、ものごとは目に見えなくてはならず、できるならば恒久的でなくてはならない。私たちは目を信じ、耳を信じない。
2 言語に与えた印刷物の影響 71
077 しかし交通量が激しい場合には、乗物であれ原語であれ、きびしい規制が必要なのである。
080 印刷以前には、言葉の定義という観念自身、意味をもたなかった。
080 印刷術の登場が意味したことは、必要なだけ大勢の人々に視覚的に提示される画一的なテキスト、文字、辞書、ということであった。我々が今日いうところの教室は、まったく印刷物の副産物だったのである。
081 18世紀にいたるまでには、読書は作者が文章の進行を制御し、速やかでスムーズなドライブにさそってくれるのにまかせっきりになることができたのである。
086 書字法で明確になりえないものは、急速に姿を消してしまった。印刷で視覚的に明確になしえない聴覚的な屈折や関係は、方言や俗語を除いては、間もなく姿を消してしまった。こうした変化の結果、英語には主格から与格あるいは対格を区別するものとしてはわずか6つの形(me,us,him,them,her,whom)しか残っていない。
4 メディア・アフォリズム 101
101 ラジオ・テレビが同時的に地球をカバーすることなったので、都市という形式は意味を失い、機能を失っている。
103 グーテンベルグは全歴史を同時的なものにした。持ち運びのできる書物は、死者の世界を紳士の書斎の空間にもちこんだ。電信は全世界の労働者の朝食のテーブルにもちこんだ。印刷物は口でしゃべるスピーチと書かれたスピーチとのバランスを壊した。写真は耳と目のバランスを壊した。
5 壁のない教室 105
105 (中世では)授業はほとんど全面的に口頭で、かつ集団的に行われた。一人だけでの勉強ができるのは程度の高い学者の場合に限られた。
6 テレビとは何か 110
116 テレビが登場するとテレビは映画軽視のまわりを取り囲んでしまったので、結果として映画は一つの芸術形式となった。映画はそれまではきわめて卑俗なものであった。およそ新しい環境が古い環境のまわりに登場すると、古い環境は芸術形式となる。馬車のランプ、馬車の車輪、T型フォード、なんでもそうである。
117 いつでも新しい環境が現れると、それは堕落であり、極悪非道のものであると非難され、それまで堕落であり極悪非道とされてきていた古い環境の方が芸術になるのである。118 西洋世界は結合的で画一的な空間によって視覚的に自らを組織している。これと対照的に、東洋世界はすべてのものを結合によってではなくて空間によって、音と対象との間の距離によって組織するのである。
118 東洋的なものは、結合によってではなく、間によって作用するのであり、だからこそわれわれは東洋人がわからないと考えるのである。
122 テレビとはメディアとしては映画の全面的なアンチテーゼである。映画の場合、我々は座ってスクリーンを眺める。我々がカメラの目なのである。テレビでは我々がスクリーンなのである。
131 印刷術はきわめて強力的なテクニックであったために、公衆を成立させた。手書きの写本は公衆、読者公衆、商品市場を生み出すことはできなかったのである。画一的に生産される反復可能な印刷物が登場してはじめて、決まった値段のついた商品が生まれたのである。
136 人間は一万年、あるいはそれ以上の昔に、新石器時代、あるいは各人が専門化した定住時代に入った。人間は座って、専門化し、カゴを作り、壺を作り、穀物を育て、動物を飼うようになった。それ以前の長い時代には、人間は狩猟の民だった。エレクトロニクス・テクノロジーのおかげで人間は再び狩人になるのである。
141 エレクトロニクスの社会の仕事はパターン認識である。
141 教えるというビジネスは、生活の時間を節約してやることであって、指導することではない。人は時間さえあればなんでも学習することができる。医者とても同じである。医者の仕事は、人を治療することではない。その仕事は、自分で治すよりもはるかに速やかに治るようにしてやることである。つまり患者の時間を節約してやることである。
142 西海岸地方の人々は、18世紀から20世紀へ、19世紀を飛び越えてきたのだともいえるだろう。
1 新しい言語 E.カーペンター 150
151 書き言葉は話し言葉を記録したものではなかった。それは新しい言語であった。話しことがのちに模倣するようになった新しい言語であった。字を書くことによって分析的な思考形式が発達した。それは線的な性質に重きをおいたものであった。
152 言葉はいまや客観的世界のものとなった。目に見えるものとなった。
172 読書では、精神は他の人間のアイデアの運動場にすぎない。いつも車に乗っている人が歩くことを忘れるように、一生の大部分を読書に費やす人はえてして考える能力を失う。
175 新しいメディアの出現はしばしば古いメディアを解放して創造的努力に向わせる。古いメディアはもはや権力と儲けの権益に奉仕する必要がないからである。
178 教育手段としての各メディアの実験(教室・映画・印刷物)
179 メディアは手紙をなかにいれて運ぶ単なる封筒ではない。メディアそのものがメッセージの主要な部分である。
180 教室とテレビ講義のいちばんのちがいは、テレビ講義の方が短いことであった。
181 次にわかった大きなちがいは、印刷物をはじめとして、各メディアがものごとを省略する機能がちがうことであった。
181 ハーバード大学エドマンド・M・モーガン教授「記録だけを読んで自分の意見をつくるものは、誤りをおかしやすい。というのは、印刷文は話し言葉が生み出す印象を生み出すことができず、話し言葉が伝える考えを伝えることができないからである(中略)筆者は、判事が前に口頭でもっとも卑劣な偽証だと極めつけた証言を、控訴裁判所が厳粛に”とりわけ明確で説得力がある”と宣言したのを見たことがある。」
182 ラジオ用に時間を合わせた講義の台本はテレビには長すぎるとわかった。理想的なラジオの話し方は、視覚性の欠如を埋め合わせるためにピッチとイントネーションを強調したものである。
183 テストの結果、テレビ>スタジオの講義>ラジオ>印刷物
183 前の実験では、各メディアをできるだけ中立化させたが、今度は所定のテーマについて各媒体の力をできるだけ発揮させるよう苦心が払われた」
184 テストの結果、ラジオ>テレビ>講義>印刷物
185 印刷物は他のいかなるメディアよりも何がうまくできるか、それはやるだけの価値があるか。
2 触覚的なコミュニケーション L.K.フランク 186
186 皮膚はある程度文化による規程を受けるが、メッセージの受容器であり、またメッセージを中継器でもある。皮膚には鋭い感覚があるために点字の解読のような複雑なことができるのである。
191 触覚は、おそらくは最初に機能する感覚過程として胎児の初期にあらわれる。胎児は羊膜の中の液に浮かんで、母親の心臓の鼓動のリズムある刺激を受け取っている。鼓動はこの羊水によって拡大されて胎児の全皮膚に伝えられる。
191 哺乳動物の新生児は、母親によりそわれ、抱かれ、なめられることが生理的に必要なのである。
194 赤ん坊の環境世界の知覚は、触覚経験のうえに形成されているのである。しかし、そうした経験はやがて他の象徴パターンにとってかわられていくために、指かき絵、粘土細工、水遊びといった経験によってしか再現しえないほどにまでなる。
195 赤ん坊は自分の届くところのものすべてをさぐることから出発するが、やがて人でも物でも触れることが禁止される対象のあることを知る。さらに子供は、触覚的な手段によって、「自分」と「自分ではないもの」との間の区別を学ぶ。
195 いちような体験が欠如すると、成長してからの学習、ことに話し言葉、さらにもっと成熟した触覚的なコミュニケーションも含めてのすべての象徴的な系列のコミュニケーションの学習が困難になるだろう。
196 触覚的経験が欠如すると代理経験を求めるようになる。自慰、指しゃぶり、鼻、耳、毛をいじることなどである。
7 口頭と文字のコミュニケーション D.リースマン 266
272 砂漠のようなところでの貯蔵に便利な軽いパピルスのおかげでエジプトの聖職者たちは暦を支配し、権威主義国家におけるように社会的な記憶を左右することができた。
274 多くの歴史家は、聖書の印刷が、ローマ教会の権威に対する挑戦となったことを一般の人々に教えた。
274 プロテスタンティズムのさまざまの宗派をみてもわかるように、書物というものは権威を弱める傾向をもつのである。
275 印刷物は中産階級ー時間に気を配り、将来を志向し、移動性の高い階級ーの勃興と影響力の増大の時期を画すものといえよう。読書と教育は、大植民地時代においてこの階級の人々が社会で昇進し、移動するのに利用した大道(ハイ・ロード)だったのである。
8 読むことと書くこと H.J.チェイター 282
282 中世の世界では読み書きのできる人は少なく、ほとんどの人たちは今のわれわれのような方法や、われわれのような手軽さでは読み書きができなかったと思われる。
286 われわれは書かれたもの、あるいは印刷されたものを参照しなければ、言葉というものを考えることができなくなってしまった。
288 音と視界、話と印刷物、眼と耳、これらに共通点はなにもない。人間の頭脳は、二つの形の言葉(視覚と聴覚による)を結びつけるアイデアの融合という複雑きわまりない作用を行ってきた。
288 子供はおとなよりも容易に言葉を覚えることができる。子供は聞くことに注意を集中し、視覚に頼る習慣に邪魔されないからである。
290 考えると言うことは厳密な意味でいえば、言葉では不可能である。いろいろなアイデアが識閾に浮かんだとき、それらのアイデアは、心の中の言葉によって形成される。
293 普通の現代人ならば、中世の学者が1年間に読んでいた量より多くのものを、わずか1週間で読んでいるにちがいない。
293 反対に現代人にとっては、包容力の大きい中世の記憶はまったく縁遠いものである。彼らは印刷物とのかかわり合いから解放されて、目新しい言葉を幼児流の方法でたやすく覚えることができたし、それを記憶としてたくわえ、長文の叙事詩を作り出し、抒情詩をも生み出すことができた。
294 中世の人は、少数の例外を除いて、いまのわれわれのように文章を読めたわけではないということ。彼らは、今の子供がなにかをつぶやきながら勉強している程度の段階であったと思えばよい(中略)もう一つの点は、文章を読める人が少数で、聞く人が多かったということ、したがって、当時の文字は主として、一般の人が暗唱するために生まれたものであり、それゆえ、性格的には文学というよりも修辞学的なものであった。しかも修辞学の規則が構文を支配していた。
295 彼ら(中世の人々)は文字に接するときでも、きれいな印刷物にお目にかかれるわけではなく、クセのある省略法の多い書き文字を見なければならなかった。その原稿を判読するとき、彼が本能的に考えたことは、そこにある単語を以前に見たことがあるかないかということではなく、それらを以前に聞いたことがあるかどうかということであった。
9 コミュニケーション革命 G.セルデス 298
298 (印刷技術の発明は)文字を知らない者を劣等な位置に追いやり、読み書きという新しい能力を台頭させたばかりでなく、我々の生活のほとんどあらゆる分野に変化をもたらした。
298 映画、ラジオ、テレビに対するもっとも一般的な批判の一つは、それらが教科書になりえないというものだが、何世紀か前に書物があらわれたときには、教師が直接生徒に話しかけるという権威が損なわれる、と非難されたものだった。
299 <印刷メディア>
(1)読む能力を要求する。
(2)通常、個人単位で体験する。
(3)一度に少量しか吸収されない
(4)伝播が遅い
(5)再読、再点検が可能
(6)制作費は比較的安いが、読者の負担が大きい
(7)各種の少数集団のためにつくられる
<電子メディア>(ラジオ・テレビ)
(1)とくに訓練を必要としない
(2)通常、大勢で体験する
(3)大量に吸収される
(4)伝播が早い
(5)通常、二度見聞きすることができない
(6)制作には莫大な費用がかかるが、視聴者の負担が比較的少ない
(7)大多数のためにつくられる
解説 マクルーハン理論の源流 服部 桂 322
323 テレビで育った若い世代のカウンターカルチャーに古い世代は混乱し、戦後世界が大きく揺れていた。
326 イニスが、ある文明がコミュニケーションの基本として石や粘土などの固定的で長く残るメディアを用いるのか、パピルスなどの運搬しやすいものを用いるかで、その国の文化が時間によらず保守的になるか、空間的に広がり非宗教的になるかを論じたことに強く動かされ、テクノロジー、ひいては原語というメディアがどう扱われるかが、文明の性格を決定すると考えるようになっていった。 -
電子メディアの登場でメディアやコミュニケーション、教育がどのように変化してくかを考察している。旧来のメディアには無いインタラクティブ性やリアリティ、拡散性によりコミュニケーションのあり方が変わりつつあることを旧来のメディアとの対比で示し、新たな時代の到来を告げている。さて、ここで議論されている電子メディアはテレビやラジオでありインターネットではない。しかしインターネットとテレビの関係に当てはめても違和感がなく、まるで現在のメディアを考察しているように感じた。本質を見抜いた考察だからこそ時代を超えても訴えかけてくるものがある。
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マクルーハン理論―メディアの理解 (1981年) サイマル出版会と、全く同じ。
「新しい葡萄酒は新しい革袋に」とは言われるが、
「古い葡萄酒を新しい革袋に」とは。
また、騙された感あり。 -
うーん、半世紀近く以前の本だが,今も生きている感じがしました。
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映像が新たな世界認識を作ったらしい。なんでも歴史を学ぶのは楽しいですね〜。テレビがリアルタイム性なら、ネットは時間の概念を自在にできるようにした気がします。最近フェイス部苦で時間差でタグづけされて若干、嫌な気分になりますから。
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マクルーハンはやはり刺激的で、おもしろい。ただそれを全肯定するつもりはないが。
この本はマクルーハンとエドマンド・カーペンター(人類学者)が発行していた雑誌に寄せられた論文を集めたもので、1960年に刊行されている。
前半にはマクルーハン本人の短い文章が並び、後半はカーペンターから鈴木大拙まで、さまざまな寄稿者の文章が収められている。
マクルーハンの「メディアの履歴書」では、エドガー・アラン・ポーのスタイルについて、「結末から発端に逆の方向へ書く」という、「新聞」に由来する「同時存在性」の方法論であると指摘されており、これはなるほどと思った。探偵小説とは、既に物語の発端から結末に至るまで、すべてのものが最初から同時に存在しているのであって、単に「効果」を導き出すために、叙述がつづられているわけだ。そしてこの「同時存在性」はポーの大鴉やアッシャー家の崩壊、詩論にも指摘できる。
「新聞」もまた、世界各国の事件を同時にずらりと並べ、隙間には広告も含められる。
この同時性は、テレビというメディアによってさらに混然としたものとなるだろう。
カーペンターが書いた「新しい言語」も面白かった。彼の考え方はマクルーハンとほとんど同じである。
この本で言われている「電子メディア」とは、ラジオやテレビのことである。1980年に死んだマクルーハンは、その後に嵐のようにやってきたインターネットの時代を知らなかった。そして携帯電話、スマートフォン、ゲーム機のことも。
各端末をとおして、あたかも各人のニューロンがそのままデジタルな記号作用の情報網に接続されている状況を知ったら、マクルーハンはどれだけ興奮したことだろう。