マクルーハン理論 (平凡社ライブラリー)

著者 :
制作 : M.マクルーハン  E.カーペンター 
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (331ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582764611

作品紹介・あらすじ

「メディアはメッセージである」メディアが発したメッセージ以上に、まさに電子メディアそれ自体が現代人の知覚を広げ、価値観を変えた。「メディアはマッサージである」この冗句も日々の生活で体感される。先駆者として甦るマクルーハンの理論を多彩な視角から浮き彫りにする。

感想・レビュー・書評

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  • インターネット登場以前の話であるが、じゅうぶん今でも通用する部分はあった。
    新しいメディアによりわれわれの感覚は変容するし、それにたいする向きあい方も、従来のままではいけないということ。

  • 共著:J・M・カルキン、ローレンス・K・フランク、レイ・L・バードウィステル、S・ギィーディオン、ジャクリーヌ・タイアウィット、フェルナン・レジェ、デイビッド・リースマン、H・J・チェイター、ギルバート・セルデス、鈴木大拙、訳:大前正臣、後藤和彦、解説:服部桂、原書名:Explorations in Communication(McLuhan,Marshall;Carpenter,Edmund)

  • 1134円購入2011-06-28

  • <目次>
    日本の読者へのメッセージ M.マクルーハン 9
    テレビ時代の人間像ー新版に寄せて 後藤和彦 11
    マクルーハン理論のエッセンスー訳者まえがき 大前正臣 16
    マクルーハン理論とは何かーJ.M.カルキン 23
    メディアの文法 M.マクルーハン 50

    1部 マクルーハニズム
    1 聴覚的空間 58
    2 言語に与えた印刷物の影響 71
    3 メディアの履歴書 94
    4 メディア・アフォリズム 101
    5 壁のない教室 105
    6 テレビとは何か 110

    2部 コミュニケーションの新しい探求
    1 新しい言語 E.カーペンター 150
    2 触覚的なコミュニケーション L.K.フランク 186
    3 キネシクスとコミュニケーション R.L.バードウィステル 202
    4 先史芸術の空間概念 S.ギーディオン 217
    5 動く目 J.タイアウィット 247
    6 純粋な色 F.レジェ 259
    7 口頭と文字のコミュニケーション D.リースマン 266
    8 読むことと書くこと H.J.チェイター 282
    9 コミュニケーション革命 G.セルデス 298
    10 仏教における象徴主義 鈴木大拙 306

    平凡社ライブラリー版 訳者あとがき 319
    解説 マクルーハン理論の源流 服部 桂 322


    <hr>
    <メモ>
    マクルーハン理論とは何かーJ.M.カルキン 23
    023 私たちは「子供」についてあまりよく知らない。「ものをおぼえる」ことについてはもっと知らない。「もの」については、知りたくない以上に知っている。
    025 未探求の世界が現在の世界である。マクルーハンは、現在を現在の目でもって見る人がほとんどおらず、たといえたとしても現在をバックミラーでのぞいて過去に還元し、それによって現在を見失っていると考える。
    029 「メディアはメッセージである」
     第一 (内容やコンテンツではなく)メディアこそ調査すべきであり、メディアこそ人びとが忘れているものだ
     第二 メディアと内容の関係。コミュニケーションのそれぞれの形式は、特定の種類のメッセージに適している。
     第三 メディアと人々との心の関係。メディアはそれを使う人間の知覚習慣を変える。
     第四 メディアと社会との関係。ホワイトヘッド「文明の大きな進歩は、その進歩が起きる社会をほとんど粉々にこわすような過程である」
    032 マクルーハンの5つの定理
     (1)紀元前1967年ー全感覚が行動に参加した。
    033 エスキモーはすばらしい記憶力をもっている。目じるしは何もないのに、白一色の世界を旅し、移り変わる海岸線の地図を学問的にも正確にスケッチすることができる。”雪”を40〜50もの違った言い方で呼ぶ。そして線的な性質のない、音響的空間に住んでいる。
     (2)技術は人生を模倣する
    034 あらゆる技術とテクノロジーは人間のなんらかの肉体的ないし心理的要素の延長だという命題をあげている。
     (3)生命は技術を模倣する
    035 私たちは道具を形作り、次に道具が私たちを形作る。私たちの感覚のこうした延長は私たちの感覚と相互作用を始める。これらのメディアはマッサージとなる。
    036 解像度が高いメディア”ホット”、解像度が低いメディア”クール”
       ホット=映画、ラジオ、講演
       クール=テレビ、電話、セミナー
     (4)人間がアルファベットを形作り、アルファベットが人間を形作った
     (5)1967年(現在)−全感覚が行動に加わることを望む
    038 活字は視覚をえこひいきして大部分の感覚生活を圧迫した。活字の独占の終わりはまた視覚独占の終わりでもある。
    040 コミュニケーションとはものをいうことにあるのではなくて、いったことを聞かせることにある。
    042 今日では6歳の子供が小学校の校門をくぐる日にはとっくに多くのものごとを知っている。小学校入学までに3000〜4000時間テレビを見ている。高校卒業のころまでには15000時間テレビを見るが、学校での授業時間はそれより少ない10800時間である。
    045 新しい学習者は「すべてのことが同時に起こる」電子環境の産物なので、線的な「一時点には一つのものごと」という学校環境ではしばしば途方に暮れる。
    047 知識の爆発的拡大が各課目間の壁を吹き飛ばしたので、各学問間の交流と理解はますます前進しよう。ものごとの間におかれたカテゴリーの壁の多くは、印刷包装物時代の細工の残り物である。

    メディアの文法 M.マクルーハン 50
    051 文字教養の既得権益はひどい根深いので、文字教養そのものが調べられたことはかつてなかったのである。
    051 アメリカでは印刷物(本・新聞・その延長の工業等)のあらゆる成果を発展させ、その成果を敏速に応用できた。というのも、その前に解体しなければならない時代遅れのテクノロジーの屑の山がなにもなかったからである。
    055 文字人の電子メディアは、世界を一つの村ないし部族に縮小する。
    056 この本のねらいは、印刷物とコミュニケーションの新テクノロジーにたいする認識を発展させ、これら相互のフラストレーションと衝突を最小限にくいとめ、諸メディアを合奏させ、教育の過程において各メディアから最大のものを引き出せるようにすることである。

    1 聴覚的空間 58
    059 「聞く人」と「見る人」
      はじめに言葉があった。これは話し言葉であって、文字を知っている人の使う、目に見える言葉ではない。
      一方、私たちの社会では、現実的であるがためには、ものごとは目に見えなくてはならず、できるならば恒久的でなくてはならない。私たちは目を信じ、耳を信じない。

    2 言語に与えた印刷物の影響 71
    077 しかし交通量が激しい場合には、乗物であれ原語であれ、きびしい規制が必要なのである。
    080 印刷以前には、言葉の定義という観念自身、意味をもたなかった。
    080 印刷術の登場が意味したことは、必要なだけ大勢の人々に視覚的に提示される画一的なテキスト、文字、辞書、ということであった。我々が今日いうところの教室は、まったく印刷物の副産物だったのである。
    081 18世紀にいたるまでには、読書は作者が文章の進行を制御し、速やかでスムーズなドライブにさそってくれるのにまかせっきりになることができたのである。
    086 書字法で明確になりえないものは、急速に姿を消してしまった。印刷で視覚的に明確になしえない聴覚的な屈折や関係は、方言や俗語を除いては、間もなく姿を消してしまった。こうした変化の結果、英語には主格から与格あるいは対格を区別するものとしてはわずか6つの形(me,us,him,them,her,whom)しか残っていない。

    4 メディア・アフォリズム 101
    101 ラジオ・テレビが同時的に地球をカバーすることなったので、都市という形式は意味を失い、機能を失っている。
    103 グーテンベルグは全歴史を同時的なものにした。持ち運びのできる書物は、死者の世界を紳士の書斎の空間にもちこんだ。電信は全世界の労働者の朝食のテーブルにもちこんだ。印刷物は口でしゃべるスピーチと書かれたスピーチとのバランスを壊した。写真は耳と目のバランスを壊した。

    5 壁のない教室 105
    105 (中世では)授業はほとんど全面的に口頭で、かつ集団的に行われた。一人だけでの勉強ができるのは程度の高い学者の場合に限られた。

    6 テレビとは何か 110
    116 テレビが登場するとテレビは映画軽視のまわりを取り囲んでしまったので、結果として映画は一つの芸術形式となった。映画はそれまではきわめて卑俗なものであった。およそ新しい環境が古い環境のまわりに登場すると、古い環境は芸術形式となる。馬車のランプ、馬車の車輪、T型フォード、なんでもそうである。
    117 いつでも新しい環境が現れると、それは堕落であり、極悪非道のものであると非難され、それまで堕落であり極悪非道とされてきていた古い環境の方が芸術になるのである。118 西洋世界は結合的で画一的な空間によって視覚的に自らを組織している。これと対照的に、東洋世界はすべてのものを結合によってではなくて空間によって、音と対象との間の距離によって組織するのである。
    118 東洋的なものは、結合によってではなく、間によって作用するのであり、だからこそわれわれは東洋人がわからないと考えるのである。
    122 テレビとはメディアとしては映画の全面的なアンチテーゼである。映画の場合、我々は座ってスクリーンを眺める。我々がカメラの目なのである。テレビでは我々がスクリーンなのである。
    131 印刷術はきわめて強力的なテクニックであったために、公衆を成立させた。手書きの写本は公衆、読者公衆、商品市場を生み出すことはできなかったのである。画一的に生産される反復可能な印刷物が登場してはじめて、決まった値段のついた商品が生まれたのである。
    136 人間は一万年、あるいはそれ以上の昔に、新石器時代、あるいは各人が専門化した定住時代に入った。人間は座って、専門化し、カゴを作り、壺を作り、穀物を育て、動物を飼うようになった。それ以前の長い時代には、人間は狩猟の民だった。エレクトロニクス・テクノロジーのおかげで人間は再び狩人になるのである。
    141 エレクトロニクスの社会の仕事はパターン認識である。
    141 教えるというビジネスは、生活の時間を節約してやることであって、指導することではない。人は時間さえあればなんでも学習することができる。医者とても同じである。医者の仕事は、人を治療することではない。その仕事は、自分で治すよりもはるかに速やかに治るようにしてやることである。つまり患者の時間を節約してやることである。
    142 西海岸地方の人々は、18世紀から20世紀へ、19世紀を飛び越えてきたのだともいえるだろう。

    1 新しい言語 E.カーペンター 150
    151 書き言葉は話し言葉を記録したものではなかった。それは新しい言語であった。話しことがのちに模倣するようになった新しい言語であった。字を書くことによって分析的な思考形式が発達した。それは線的な性質に重きをおいたものであった。
    152 言葉はいまや客観的世界のものとなった。目に見えるものとなった。
    172 読書では、精神は他の人間のアイデアの運動場にすぎない。いつも車に乗っている人が歩くことを忘れるように、一生の大部分を読書に費やす人はえてして考える能力を失う。
    175 新しいメディアの出現はしばしば古いメディアを解放して創造的努力に向わせる。古いメディアはもはや権力と儲けの権益に奉仕する必要がないからである。
    178 教育手段としての各メディアの実験(教室・映画・印刷物)
    179 メディアは手紙をなかにいれて運ぶ単なる封筒ではない。メディアそのものがメッセージの主要な部分である。
    180 教室とテレビ講義のいちばんのちがいは、テレビ講義の方が短いことであった。
    181 次にわかった大きなちがいは、印刷物をはじめとして、各メディアがものごとを省略する機能がちがうことであった。
    181 ハーバード大学エドマンド・M・モーガン教授「記録だけを読んで自分の意見をつくるものは、誤りをおかしやすい。というのは、印刷文は話し言葉が生み出す印象を生み出すことができず、話し言葉が伝える考えを伝えることができないからである(中略)筆者は、判事が前に口頭でもっとも卑劣な偽証だと極めつけた証言を、控訴裁判所が厳粛に”とりわけ明確で説得力がある”と宣言したのを見たことがある。」
    182 ラジオ用に時間を合わせた講義の台本はテレビには長すぎるとわかった。理想的なラジオの話し方は、視覚性の欠如を埋め合わせるためにピッチとイントネーションを強調したものである。
    183 テストの結果、テレビ>スタジオの講義>ラジオ>印刷物
    183 前の実験では、各メディアをできるだけ中立化させたが、今度は所定のテーマについて各媒体の力をできるだけ発揮させるよう苦心が払われた」
    184 テストの結果、ラジオ>テレビ>講義>印刷物
    185 印刷物は他のいかなるメディアよりも何がうまくできるか、それはやるだけの価値があるか。

    2 触覚的なコミュニケーション L.K.フランク 186
    186 皮膚はある程度文化による規程を受けるが、メッセージの受容器であり、またメッセージを中継器でもある。皮膚には鋭い感覚があるために点字の解読のような複雑なことができるのである。
    191 触覚は、おそらくは最初に機能する感覚過程として胎児の初期にあらわれる。胎児は羊膜の中の液に浮かんで、母親の心臓の鼓動のリズムある刺激を受け取っている。鼓動はこの羊水によって拡大されて胎児の全皮膚に伝えられる。
    191 哺乳動物の新生児は、母親によりそわれ、抱かれ、なめられることが生理的に必要なのである。
    194 赤ん坊の環境世界の知覚は、触覚経験のうえに形成されているのである。しかし、そうした経験はやがて他の象徴パターンにとってかわられていくために、指かき絵、粘土細工、水遊びといった経験によってしか再現しえないほどにまでなる。
    195 赤ん坊は自分の届くところのものすべてをさぐることから出発するが、やがて人でも物でも触れることが禁止される対象のあることを知る。さらに子供は、触覚的な手段によって、「自分」と「自分ではないもの」との間の区別を学ぶ。
    195 いちような体験が欠如すると、成長してからの学習、ことに話し言葉、さらにもっと成熟した触覚的なコミュニケーションも含めてのすべての象徴的な系列のコミュニケーションの学習が困難になるだろう。
    196 触覚的経験が欠如すると代理経験を求めるようになる。自慰、指しゃぶり、鼻、耳、毛をいじることなどである。

    7 口頭と文字のコミュニケーション D.リースマン 266
    272 砂漠のようなところでの貯蔵に便利な軽いパピルスのおかげでエジプトの聖職者たちは暦を支配し、権威主義国家におけるように社会的な記憶を左右することができた。
    274 多くの歴史家は、聖書の印刷が、ローマ教会の権威に対する挑戦となったことを一般の人々に教えた。
    274 プロテスタンティズムのさまざまの宗派をみてもわかるように、書物というものは権威を弱める傾向をもつのである。
    275 印刷物は中産階級ー時間に気を配り、将来を志向し、移動性の高い階級ーの勃興と影響力の増大の時期を画すものといえよう。読書と教育は、大植民地時代においてこの階級の人々が社会で昇進し、移動するのに利用した大道(ハイ・ロード)だったのである。

    8 読むことと書くこと H.J.チェイター 282
    282 中世の世界では読み書きのできる人は少なく、ほとんどの人たちは今のわれわれのような方法や、われわれのような手軽さでは読み書きができなかったと思われる。
    286 われわれは書かれたもの、あるいは印刷されたものを参照しなければ、言葉というものを考えることができなくなってしまった。
    288 音と視界、話と印刷物、眼と耳、これらに共通点はなにもない。人間の頭脳は、二つの形の言葉(視覚と聴覚による)を結びつけるアイデアの融合という複雑きわまりない作用を行ってきた。
    288 子供はおとなよりも容易に言葉を覚えることができる。子供は聞くことに注意を集中し、視覚に頼る習慣に邪魔されないからである。
    290 考えると言うことは厳密な意味でいえば、言葉では不可能である。いろいろなアイデアが識閾に浮かんだとき、それらのアイデアは、心の中の言葉によって形成される。
    293 普通の現代人ならば、中世の学者が1年間に読んでいた量より多くのものを、わずか1週間で読んでいるにちがいない。
    293 反対に現代人にとっては、包容力の大きい中世の記憶はまったく縁遠いものである。彼らは印刷物とのかかわり合いから解放されて、目新しい言葉を幼児流の方法でたやすく覚えることができたし、それを記憶としてたくわえ、長文の叙事詩を作り出し、抒情詩をも生み出すことができた。
    294 中世の人は、少数の例外を除いて、いまのわれわれのように文章を読めたわけではないということ。彼らは、今の子供がなにかをつぶやきながら勉強している程度の段階であったと思えばよい(中略)もう一つの点は、文章を読める人が少数で、聞く人が多かったということ、したがって、当時の文字は主として、一般の人が暗唱するために生まれたものであり、それゆえ、性格的には文学というよりも修辞学的なものであった。しかも修辞学の規則が構文を支配していた。
    295 彼ら(中世の人々)は文字に接するときでも、きれいな印刷物にお目にかかれるわけではなく、クセのある省略法の多い書き文字を見なければならなかった。その原稿を判読するとき、彼が本能的に考えたことは、そこにある単語を以前に見たことがあるかないかということではなく、それらを以前に聞いたことがあるかどうかということであった。

    9 コミュニケーション革命 G.セルデス 298
    298 (印刷技術の発明は)文字を知らない者を劣等な位置に追いやり、読み書きという新しい能力を台頭させたばかりでなく、我々の生活のほとんどあらゆる分野に変化をもたらした。
    298 映画、ラジオ、テレビに対するもっとも一般的な批判の一つは、それらが教科書になりえないというものだが、何世紀か前に書物があらわれたときには、教師が直接生徒に話しかけるという権威が損なわれる、と非難されたものだった。
    299 <印刷メディア>
    (1)読む能力を要求する。
    (2)通常、個人単位で体験する。
    (3)一度に少量しか吸収されない
    (4)伝播が遅い
    (5)再読、再点検が可能
    (6)制作費は比較的安いが、読者の負担が大きい
    (7)各種の少数集団のためにつくられる
    <電子メディア>(ラジオ・テレビ)
    (1)とくに訓練を必要としない
    (2)通常、大勢で体験する
    (3)大量に吸収される
    (4)伝播が早い
    (5)通常、二度見聞きすることができない
    (6)制作には莫大な費用がかかるが、視聴者の負担が比較的少ない
    (7)大多数のためにつくられる

    解説 マクルーハン理論の源流 服部 桂 322
    323 テレビで育った若い世代のカウンターカルチャーに古い世代は混乱し、戦後世界が大きく揺れていた。
    326 イニスが、ある文明がコミュニケーションの基本として石や粘土などの固定的で長く残るメディアを用いるのか、パピルスなどの運搬しやすいものを用いるかで、その国の文化が時間によらず保守的になるか、空間的に広がり非宗教的になるかを論じたことに強く動かされ、テクノロジー、ひいては原語というメディアがどう扱われるかが、文明の性格を決定すると考えるようになっていった。

  •  電子メディアの登場でメディアやコミュニケーション、教育がどのように変化してくかを考察している。旧来のメディアには無いインタラクティブ性やリアリティ、拡散性によりコミュニケーションのあり方が変わりつつあることを旧来のメディアとの対比で示し、新たな時代の到来を告げている。さて、ここで議論されている電子メディアはテレビやラジオでありインターネットではない。しかしインターネットとテレビの関係に当てはめても違和感がなく、まるで現在のメディアを考察しているように感じた。本質を見抜いた考察だからこそ時代を超えても訴えかけてくるものがある。

  • マクルーハン理論―メディアの理解 (1981年) サイマル出版会と、全く同じ。
    「新しい葡萄酒は新しい革袋に」とは言われるが、
    「古い葡萄酒を新しい革袋に」とは。
    また、騙された感あり。

  • 《マクルーハン理論とは何か? by ジョン・M・カルキン》

    【「メディアはメッセージである」の4つの定理】p29
    ①メディアこそ調査すべきであり、メディアこそ人びとが忘れているものだ。
    人びとはみな内容にひっかかっている。しかし、形式、構造、フレーム、すなわちメディアに注意を払え、ということ。駄じゃれこそ本当のものである。メディアこそ本当のものである。マクルーハンは注意をひくため、真理を逆立ちさせた。
    ②コミュニケーションの形式は内容を変えるだけでなく、それぞれの形式はまた特定の種類のメッセージに適している。内容はいつもなんらかの形式で存在し、したがってある程度までその形式の力学によって支配される。メディアを知らなければ、メッセージもわからない。
    ③メディアはそれを使う人間の知覚習慣を変える。内容と関わりなく、メディア自体はなかに入っていく。文字がなかった時代の文化(前文字時代)、文字文化、文字後の文化は、それぞれ世界をちがった色眼鏡で見る。

    Cf. 「メディアはマッサージである」:これはメディアが中立的なものでなく、人びとになにかをするものだという事実に注意を向けさせたかったものである。事実、メディアは人びとをつかみ、揺さぶり、転がしまわし、マッサージする。メディアは人びとの心の窓を開いたり、閉じたりする。
    eg. 外を覗いてテレビ世代を見てみたらいい。彼らは部族的人間に戻るにつれ、ものの生地と動きと色彩と音を再発見しつつある。テレビは本当につかみかかる。テレビは使われずに鈍くなった感覚を本当にマッサージする。

    ④ホワイトヘッド「文明の大きな進歩は、その進歩が起きる社会をほとんど粉々にこわすような過程である」
    メディアは人間だけではなく、社会もマッサージする。
    メディアもしくはそこに関連するプロセスを理解することがメディアを制御する鍵なのである。
    eg. あるロシアの労働者が毎日工場を出るとき、手押し車を検査されたが、実際には手押し車そのものを盗んでいたという話がある。メディアはメッセージなのに、人びとが内容だけを調べていたら、たとえば手押し車のように、たくさんのものを見落とすことになる。見落とされていたものは絵でなく額縁なのである。中身でなく箱なのである。真っ白いページは中立ではない。教室も中立ではない。

    【マクルーハンの5つの定理】p32
    ①紀元前1967年―全感覚が行動に参加した
    前文字人(プレリテレイト)は"すべてのものが一時に"の感覚の世界に住んでいることが知られる。あらゆる方向からおそいかかる現実は、視覚と聴覚と臭覚と味覚の多方向性のアンテナによってキャッチされる。
    eg. エスキモーは絵や地図をあらゆる角度から同じようにみる。彼らはすばらしい記憶力を持っている。目印もないのに、白一色の世界を旅し、移り変わる海岸線の地図を学問的にも正確にスケッチすることができる。"雪"を40,50もの違った言い方で呼ぶ。そして線的な性質のない、音響的空間に住んでいる。彼らはエスキモーである。彼らが世界を知覚する自然なやり方は私たちが世界を知覚する自然なやり方とは違うのである。

    それぞれの文化は、環境の要求に応じてそれ自身の感覚のバランスを発達させる。きわめて一般的にいえば、人間の認識と知覚の形式は、自分が属している文化、自分達が喋っている言葉、自分達が接しているメディアによって影響を受ける。

    ②技術は人生を模倣する
    エドワード・ホールは『沈黙の言葉』で、あらゆる技術とテクノロジーは人間のなんらかの肉体的ないし心理的要素の延長だという命題を掲げる。
    今日、人間はかつて肉体でやっていたほとんどあらゆることをものに延長した。手の代わりに石斧、足の代わりに車輪、目の代わりに眼鏡、声と耳の代わりにラジオ、金銭はエネルギーの貯蔵法というように。
    このような個々の専門的機能の外延化は定義上からいうと今日最高度に進んでいる。電信、電話、ラジオ、テレビのような電子メディアによって人間はいまや自分自身の体内にあるのと同じような神経組織を世界に強く張り巡らせるにいたった。
    ケネディ大統領が撃たれたとき、世界は一瞬、弾丸の衝撃によろめいた。空間と時間は電子状況のもとで解消した。

    ③生命は技術を模倣する
    私たちは道具を形づくり、次に道具が私たちを形づくる。環境における新しい変化は諸感覚間の新しいバランスをつくり出す。孤立して作用する感覚は一つもない。
    マクルーハンは物理的信号の質ないし解像度によってメディアを分類している。映画はホットであり、テレビはクール。ラジオはホットであり、電話はクール。クールなメディアないし人間は人々に参加と"インボルブメント"(関わり合い)を求める。人々が反応する余地が残っているからである。
    講演はホットで、セミナーはクール。

    ④人間がアルファベットを形づくり、アルファベットが人間を形づくった
    eg. シカゴの代表的なホテルで、ある高名な教授が多数の聴衆を前にして講演をしている途中、コブラに足を噛まれた。3秒間の出来事だった。コブラに噛まれ、聴衆がアッと驚き、目の前がどよめいたのに教授はびっくりした。記憶と想像と感情が緊急行動に入った。たくさんのことが3秒間に起きた。2週間後、教授は治癒し、同僚に手紙で知らせようと思った。
    ところがこの経験を文字でコミュニケートするには、最初に各部分に分け、次に目薬をさすときのように、一時に一つずつ、抽象的で線的で断片化した連続的やり方で仲介しなくてはならない。
    これがプリントの根本的な構造である。
    マクルーハンによるといままで数世紀にわたり、直線は無意識に、しかし冷徹にものごとの尺度として使われた。注意されることもなく、疑われることもなく、そうなっていた。自然で普遍的なものだと思われていた。
    だが電子メディアが活字の独占を破った。電子メディアは聴覚、触覚、運動感覚に対する意識を高めることによって、私たちの感覚のプロフィールを変えたのである。

    ⑤1967年(現在)―全感覚が行動に加わることを望む
    1900年以来たくさんのことが起きたが、そのほとんどは大したことはなかった。しかし今日では6歳の子どもが小学校の校門をくぐる日にはとっくに多くの物事を知っている。へその緒を切って間もなく、おとなしくさせておくためにテレビの前に置かれ、小学校入学までに3千ないし4千時間テレビを見ている。
    高校卒業の頃までには1万5千時間テレビを見るが、学校での授業時間はそれより少ない1万8百時間である。
    子どもたちは学校という情報機関にやってくるが、そのときすでに頭は情報で溢れている。

    ■1部 マクルーハニズム

    《メディアの履歴書 by マクルーハン》p94

    【新しいメディアによる世界再編成】p96
    新聞も含めたすべての新しいメディアは、詩と同じように、それ自身の仮定を人に押し付ける力を持った芸術形式である。新しいメディアは、われわれを古い「リアルな」世界に関連付ける手段となるものではない。それ自身がリアルな世界なのである。それは残っている古い世界を意のままに再編成するのである。

    《メディア・アフォリズム by マクルーハン》p101
    ラジオ・テレビが同時的に地球をカバーすることになったので、都市という形式は意味を失い、機能を失っている。

    書くことを超えることによってわれわれは、一国あるいは一文化のではなく、宇宙の、地球の全体性を再び獲得したのである。われわれは高度に文明化した準原始的な人間を喚起したのである。
    われわれは聴覚的空間に戻ったのである。われわれは三千年の文字教養の歴史によって引き離された原初の感情と情緒を、再び自分のものにしはじめているのである。「手は流すべき涙をもたない」p104

    《5. 壁のない教室》p105

    《6. テレビとは何か》p110
    「あらゆるものが同時に存在する世界」(all at once world)p112

    【古い環境は芸術】p114
    エレクトロニクス回路が登場すると、それは機械的世界を取り巻いて、機械的世界を芸術形式に変えた。いつでも新しい環境が現れると、それは堕落であり、極悪非道のものであると非難され、それまで堕落であり極悪非道とされていた古い環境の方が芸術となる。
    テレビが芸術形式になるのはいつのことだろうか。テレビはまだ環境的である。

    【エレクトロニクス的世界のルール】p126
    トルーマン・カポーティ『冷血』:あらゆる人が殺人犯であり、著者自身も逃れられないという深い相互関与の世界を描いている。
    エレクトロニクスによる情報流通の条件下では、「やったのはあいつだ」とはいえない。これは19世紀的な古い分類と断片化の条件下ではありえたことである。しかし、あらゆるものが同時に生起するエレクトロニクス的世界においては、それは実際上、不可能になるのである。

    【「パブリック」と「マス」の違い】p127
    パブリック:あらゆる人が小さな視点(point of view)を持ち、自分だけのプライベートな空間の小さな断片を持っている世界。
    マス:すべてのほかの人に関わりを持ち、そこには断片化も視点もなくなる。⇒アイデンティティの喪失

    ■2部 コミュニケーションの新しい探求

    <3. キネシクスとコミュニケーション by レイ・L・バードウィステル>p202
    キネシクスとは、人と人との非言語なコミュニケーションの視覚的側面について研究する学問分野である。

    <9. コミュニケーション革命 by ギルバート・セルデス>p298

    <10. 仏教における象徴主義 by 鈴木大拙>p306
    松尾芭蕉「古池や蛙とび込む水の音」

    【古池は全宇宙、全宇宙は古池】p309
    芭蕉の古池は仏教哲学の華厳の体系における法界なのである。その古池は全宇宙を内に含み、全宇宙はその古池に収められているのである。

    【一が多、多が一】p311

    【事物の無我を損なう知的作用】p312

    【花の超越的な美】p314
    加賀千代「朝顔に釣瓶とられて貰い水」

    【仏教哲学の象徴主義】p316
    メモ:rose is a rose is a rose.

  • うーん、半世紀近く以前の本だが,今も生きている感じがしました。

  • 映像が新たな世界認識を作ったらしい。なんでも歴史を学ぶのは楽しいですね〜。テレビがリアルタイム性なら、ネットは時間の概念を自在にできるようにした気がします。最近フェイス部苦で時間差でタグづけされて若干、嫌な気分になりますから。

  • マクルーハンはやはり刺激的で、おもしろい。ただそれを全肯定するつもりはないが。
    この本はマクルーハンとエドマンド・カーペンター(人類学者)が発行していた雑誌に寄せられた論文を集めたもので、1960年に刊行されている。
    前半にはマクルーハン本人の短い文章が並び、後半はカーペンターから鈴木大拙まで、さまざまな寄稿者の文章が収められている。
    マクルーハンの「メディアの履歴書」では、エドガー・アラン・ポーのスタイルについて、「結末から発端に逆の方向へ書く」という、「新聞」に由来する「同時存在性」の方法論であると指摘されており、これはなるほどと思った。探偵小説とは、既に物語の発端から結末に至るまで、すべてのものが最初から同時に存在しているのであって、単に「効果」を導き出すために、叙述がつづられているわけだ。そしてこの「同時存在性」はポーの大鴉やアッシャー家の崩壊、詩論にも指摘できる。
    「新聞」もまた、世界各国の事件を同時にずらりと並べ、隙間には広告も含められる。
    この同時性は、テレビというメディアによってさらに混然としたものとなるだろう。
    カーペンターが書いた「新しい言語」も面白かった。彼の考え方はマクルーハンとほとんど同じである。

    この本で言われている「電子メディア」とは、ラジオやテレビのことである。1980年に死んだマクルーハンは、その後に嵐のようにやってきたインターネットの時代を知らなかった。そして携帯電話、スマートフォン、ゲーム機のことも。
    各端末をとおして、あたかも各人のニューロンがそのままデジタルな記号作用の情報網に接続されている状況を知ったら、マクルーハンはどれだけ興奮したことだろう。

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