芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

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  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582766455

作品紹介・あらすじ

芸術作品は、日常生活に回収される道具と異なり、世界と大地との亀裂の狭間に真実を顕現させる。哲学の「別の原初」を指し示し、ハイデッガー後期思想への「転回」を予示した記念碑的作品。

感想・レビュー・書評

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  • 今の自分にとっては難解だった。数年後に読んだ時は理解できるように勉強しておきたい。

  • 芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー (645))
    (和書)2012年04月28日 18:14
    マルティン・ハイデッガー, 関口 浩 平凡社 2008年7月


    実存主義の理解を深めたい。

    いろいろ実存主義者といわれる人の本を読み込んでいこうと思っています。

    そこの姿勢がとても面白いのだろうと思う。

    解説の蘊蓄は蛇足のように感じることが多い。

  • こうしてハイデガーの芸術の根源に関する主論を読むとそれは創作者自身の人格の統合的なプロセスとの連関なしにはありえないのだということをつくづく感じる。

    芸術作品との対峙は、<世界>の「タガ」をはずし、「大地」へと屹立することを意味するのだろうか。大地には「存在」していても、それが個々の「世界」に統合されているとは限らない。

    芸術家の条件があるとすれば、それは無防備性に収束されるのではないかと思う。

    ハイデガーのさす、<真理>は、リルケの<世界内部空間>を示すと考えられる。ハイデガーの記述を読んでいくと、作品の数だけ<真理>が存在すると考えられてしますが、おそらく彼の言う<真理>というのは、<ある空間>を示しているのではないだろうか。その<空間>に人間が身を置くということを、彼は<真理>と呼んでいるということが考えられるのではないか。それは東洋で言う所の絶対無であり、熊谷の言う<いのち>に他ならないであろう。

    <存在>というのは、果たしてなんだろうか。体験を経験と出来たことだろうか。ダビンチを見たのは、<神>を体験したということだろうか。

    投企が<原初>に由来するというのは充分に感得出来るところであれ、しかしそれが民族の記憶に関係してくるというのはいったいどういうことだろうか。ここでいう<民族>というのは何であろうか。民族の発展というものが、土地性との融合に由来するとすれば、芸術というのは生活なしにはありえないということになる。しかし私はゴッホに確かに感動したのだ。これをどう説明しようというのか。その土地における民族の<原初>とは、いのちの、すなわち暮らしのリズムであり、そこに宿る植生のリズムであろうが。わからないことだらけだこと。そうすると、個の<真理>、即ち命のリズムというのは、すでに生まれたときに規定されているということになる。


    〇以下引用

    作品は、別のもののことを公表し、別のものを明らかにする。つまり、作品とはアレゴリー(寓意)なのである。作品において、製造された物と、さらになお何か別のものとが、結びつきへともたらされる。作品はシンボルである。

    物についての(伝統的な)見解および陳述として、物とわれわれとの間に現れようとする一切が、あらかじめ除去されなければならない。そのようにしてはじめて、われわれは物の偽装されざる現前に身を委ねるのである。

    純然たる騒音を聴くためには、われわれは物から離れて聞かねばならず、われわれの耳を物からそらさなければならない。言い換えれば、抽象的に聴かなければならないのである。

    芸術作品が、靴という道具が真実のところ何であるかを知るようにうながした。われわれが、自分たちの記述は主観的な行為の一種であってすべてのものに尾ひれをつけ、そしてありもしないものを読み取ったのだ、と考えようとするなら、それは最悪の自己欺瞞であろう。

    芸術の本質は、このこと、すなわち存在するものの真理がそれ自体を―作品のー内へとー据えることであろう。

    ゴッホのあの絵画は眼の前にある一足の農夫靴を模写しているのであり、このことにこの絵画が成功しているからそれはすぐれた作品などと考えているのだろうか。

    作品においてはそのつど目の前にある個々の存在するものの再現が問題なのではなく、それに対して、さまざまな物の一般的な本質の際限が問題なのである。

    芸術作品は、そのものなりの仕方で、存在するものの存在を開示する。作品においてはこの開示が、すなわち存在するものの露開が、すなわち存在するものの真理が生起する。芸術作品においては存在するものの真理がそれ自体を作品の内へと据える。

    芸術家によって作品は、純粋に<そのもの自体の内に立つこと>へと解放されるべきなのだ。芸術家は、創作にさいして作品の発現のために自己自身を根絶する通路のようなものとほとんど同じである。

    神殿によって神は神殿の内に現前する。神がこのように現前することは、それ自体において、この区域を聖なる区域として展開し、境界画定することである。

    神殿作品は、誕生と死、災難と天恵、勝利と屈辱、忍耐と退廃―が人間本質にとってその命運という形態を獲得するあの諸軌道と諸関連との統一をはじめて接合し、同時にその統一をそれ自体のまわりに収集する。これらの開いた諸連関を支配する広がりこそが、この歴史的な民族の世界である。この世界から、そしてこの世界の内で、この民族ははじめて自己自身へと立ち返り、彼らの使命を完遂するに至るのである。

    大地とは、立ち現れることが立ち現れるもの一切を、しかも立ち現れるものとして、それの内に返還し保護するものである。大地は、保蔵するものとして、立ち現れるものの内で、その本質を発揮するのである。

    神殿作品は、そこに立ちながら、一つの世界を開示し、そして同時にその世界を大地の上へと立て返す。大地はそのようにしてそれ自体はじめて故郷の土地として出来するのである

    作品が美術館に収められ、あるいは展覧会に展示されるとき、ひとは、<それは陳列されている>とも言う。しかしこの陳列は、建築作品の建立、立像の設立、祝祭における悲劇の上演という意味での立てることとは本質的に異なる。そのような立てること、は神への奉献と讃美という意味での祝祭的に立てることである。立てることは、この場合には、もはや単なる展示を意味するのではない。奉献とは、作品的な建立にさして聖なるものが聖なるものとして開示され、そして神が神自身の現前性の開けたとことの内へと呼びこまれるという意味で、聖化することを言う。

    作品が存在することとは、すんわり、一つの世界を開けて立てることを意味する。

    世界は、われわれの前に立っていて直観されうるような何らかの対象ではけっしてない。世界はいつも非対象的なものであるが、誕生と死、祝福と神罰の軌道が、われわれが存在の内へと連れ去られるのをそのままにしておくかぎり、われわれはこの世界の支配下にある。

    色彩をわれわれが悟性的に計測し周波数に分解するならば、それは無くなってしまう。

    色彩は露開されず説明されないままにとどまるときにだけ、それ自体を示すのである。

    作品は、作品それ自体を大地の内へと立て返すことによって、大地をこちらへと立てることを成し遂げる。しかし大地の自己閉鎖は、画一的で硬直した、覆われたままにとどまることではなく、それはそれ自体を単純な諸様式と諸形態とにおける汲みつくせない充実へと展開する。

    存在するものは、この空け開けの空け開かれたところの内へと立ち現れ、そして立ち去る場合にのみ、存在するものとして存在することができる。ただこの空け開けのみが、われわれ人間に、われわれ自身ではない存在するものへの通路と、われわれ自身である存在するものへの到達を贈り与え、保証する。

    テクネーという語は、むしろひとつの知の在り方を名付けている。知とは、見てしまっているということを意味する。それは現前するものを現前するものとして受容するという、見るの広い意味において、見てしまっていることを意味する。ギリシア的な思索にとって知の本質はアレーティアに、すなわち存在するものの露開にある。それが存在するものに対するあらゆる態度を担い、導いている。

    創作の本質は作品の本質によって規定されている。

    真理には、潜伏蔵という意味で未だー露開されていーないものという由来領域が不可欠である。そのかぎりでは、真理は非ー真理である。

    真理とは原闘争である。この原闘争においてそのつど何らかの仕方で開けたとことが戦い獲られる。存在するものとして顕れまた逃れ去るすべてのものは、この開けたとことの内へと立ち現れたり、またそこから引き籠ったりするのである。いつ、どのように、この闘争が勃発し生起しても、闘争しあうもの、はこの闘争によって相互に離れ行く。

    この開けたところに開け、即ち真理が、まさにそれにほかならないもの、つまりこの真理の開けでありうるのは、この開けがそれ自体をその開けたところの内へと整えいれる場合だけであり、ただその限りである。

    存在そのものは、その本質からして開けの遊動空間を生起させ、そしてこの遊動空間を、あらゆる存在するものがそれぞれの仕方で立ち現れるところの遊動空間として持ち込むのである。

    作品の内へと真理を整いいれることは、それ以前にはまだ存在せず、それ以後にはもはや生じないだろうような、そのような存在するものを生み出すことである。生み出すことはこのような存在するものを開けたところの内に立てるのであるが、それは、もたらされるべきものがはじめて開けたところの開けを空け開いて、その開けたところの内へとその当のもたらされるべきものが表れてくる。

    真理はそれ自体を作品の内へと整えいれる。ただ世界と大地との対向性という在り方での、空け開けと伏蔵との間の闘争としてのみ、真理はその本質を発揮する。真理は世界と大地とのこの闘争として作品の内へと整えいれられることを欲する。

    この存在するものはそれ自体において闘争の本質動向をもたざるをえない。この闘争において世界と大地との統一が闘い獲られる。世界は、それ自体を開くことによって、或る歴史的な人間存在に対し、勝利と敗北、加護と天罰、支配と隷属を決定する。立ち現れる世界はいまだ決定されないものと尺度をもたないものとを輝き現れることへともたらし、そのようにして尺度と決定性との伏蔵された必然性を開示する。

    しかし、一つの世界がそれ自体を開くことによって、大地がそびえるに至るのである。大地はすべてのものを担うものとして、それ自体の法則の内に保蔵されたものであるととともに、恒常的にそれ自体を閉鎖するものとして現れる。

    闘争は、単なる溝を裂開することとしての亀裂ではなく、それは闘争しあうものたちの相互帰属の親密さなのである。このような親密さとしての亀裂は、対向的なものたちを、一致した根底からのそれらの統一の由来の内へと共に拉しさる。

    亀裂の内にもたらされ、そしてそのようにして大地の内に立て返され、その結果として確立された闘争が、形態である。作品が創作されているということは、真理が形態の内へと確立されているということを意味する。形態とはいわば、亀裂がそのようなものとしてそれ自体を組み立てる結構である。

    作品がこのような作品として存在するそれ自体の内に安らうことの存立性をなす。芸術家と、作品の成立過程、成立状況とが知らぬままにとどまるところで、この衝撃が、創作されているという事実が、もっとも純粋に作品から際立ってくる。

    作品がいっそう孤独に形態の内に確立されてそれ自体の内に立てばたつほど、そして、作品がいっそう純粋に人間い対するすべての連関から解き放たれているかに見えれば見えるほど、それだけいっそう単純に、そのような作品が存在するという衝撃が開けたところに侵入し、そしてそれだけいっそう本質的に、不気味で途方もないものが衝撃的にうち開かれ、これまで安心できると思われてきたものが衝撃的に打倒される。

    いっそう純粋に作品そのものが、作品それ自体によって開示される、存在するものの開けの内に連れ去られれば連れ去られるほど、それだけいっそう単純にその作品はわれわれをこの開けの内に引き込み、そのようにして同時に日常的なものから連れ出すからである。

    世界と大地に対する日常的な諸関連を変更し、それ以後は通俗的な行為と評価、識別と洞察とのすべてを抑制し、作品に於いて生起している真理の内に滞在するということ

    創作されることなしには作品はほとんど存在しえないが、作品はそれほど本質的に創作する者たちを必要としているのである。同様に、創作されるものそれ自体は、見守る者たちなしにはほとんど存在するものとなることはできない。

    作品を見守ることは、作品に於いて生起している存在するものの開けの内に立つことを意味する。見守ることの内立的態度は一種の知である。

    存在するもののことを真に知る者は、彼自身が存在するもののただ中で意欲しているものが何であるかを知っている。

    開―鎖性(覚悟性)とは、何らかの主観によって決断された行為ではなく、存在するものにとらわれている在り方から存在の開けへと現存在を開けることなのである。

    実存の本質は、存在するものの空け開けの本質的な対抗関係にさらされながら、その内に立つことである。自己自身を目標として設定し、その達成に努めるような
    主観の遂行や行為のことが考えられているのではない。

    意欲とは実存しつつ、<自己自身を超え出ていく>冷静な開ー鎖性である。この自己超越は、作品の内に据えられたものとしての、存在するものの開けに自己をさらす。そのようにして、内立することは自己を法則へともたらす。作品を見守ることは、知としては、作品において生起している真理の不気味で途方もないものの内に冷静に内立することである。

    見守るという仕方での知は、作品における外形的なことを、すなわちその特質や魅力そのものを、単に趣味的に識別することとはまったく異なる。<見てしまっていること>としての知は、決然としていることであり、すなわちそれは、作品が亀裂の内へと組み入れた闘争の内において内立することなのである。

    すなわち、問いに際して作品を作品として存在させることなく、作品をむしろ我々の内になんらかの状態を引き起こす対象として表象するような、そういうわれわれかたして問うているのである。

    大地が作品の内へとそびえるのは、作品が、そこに於いて真理が活動しているところのものとして、その本質を発揮するからであり、真理が、なんらかの存在するものの内にそれ自体を整えいれることによってのみ、その本質を発揮する

    何ものにもせき立てられることなく担いつつ、―それ自体を閉鎖するものとしての大地の本質は、ただ世界の内へと聳え立つことにおいてのみ、つまり大地と世界との両者の対向性においてのみ、暴露される。この闘争が作品の形態の内に確立され、作品を通じて明らかになるのである。

    この自然のなかにある芸術は作品によってはじめて明らかにされる。というのも、芸術は根源的には作品の内に潜んでいるのだから。

    作品の創作されていることに、創作する者と同様に、見守る者もまた属するのである。しかし作品とは、創作する者を彼らの本質において可能にするものであり、そしてその本質からして見守る者を必要とするものである。

    芸術が作品の根源であるなら、そのことはすなわち、芸術が作品において本質的に共に属しあうもの、創作する者と見守る者とを、その本質において発源させるということを意味する。

    芸術は、作品において真理を創作しつつ見守ること、である。その場合、芸術とは真理の生成であり生起である。

    存在するものの空け開けと伏蔵(との闘争)としての真理は、詩作されることによって生起する。すべての芸術は、存在するものそれ自体の真理の到来を生起させることとして、その本質においては詩作である。

    芸術が存在するもののただ中で或る開け広げるということが生起する。この開けたなしょの開けの内では、すべてのものがそれまでとは別様に存在する。それ自体をわれわれに対して投げ―与えている存在するものの不伏蔵性を投げ返すことによって、しかも作品の内へと据えられた投げ返しによって、作品を通じて日常的なものと従来のものとの一切が、非存在的なものとなる。

    作品の本質を、そしてこの本質と存在するものの真理の生起との連関を、本質的に洞察するとき、思索の本質が、すなわちそれは同時に投げ返しの本質でもあるが、それが想像力と構想力から十分に思索されうるかどうかは疑わしい。

    すべての芸術はその本質において詩作であるのだから、建築芸術も、造形芸術も、音響芸術も、詩に還元されなければならない。詩は、真理を開け広げながら投機すること

    言葉は存在するものをまさに存在するものとして、はじめて開けたところへともたらすのである。石、植物、動物の存在の場合がそうであるように、言葉がその本質を発揮しないところでは、存在するものの開けはなく、したがって存在しないものや空虚なものの開けも存在しない。

    投企する発言は詩作である。すなわちそれは、世界と大地との言であり、それら両者の遊動空間の言であり、それとともに神々のあらゆる近さと遠さとの場所の言である。詩作とは存在するものの不伏蔵性の言である。

    投企しつつの発現は、言えることを準備しながら同時に言えないことを言えないこととして世界にもたらすこと。

    いまや言葉はそれの内で人間によってそのたびごとにはじめて存在するものが存在するものとして開示されるような生起であるのだから、詩、つまり狭い意味での詩作は、本質的な意味でもっとも根源的な施策である。

    作品を見守ることも、ただその固有な仕方においてではあるが、詩作的である。というのも、作品が作品として現実的であるのは、われわれが自分自身をわれわれの日常性から連れ出し、そして作品によって開かれたところへと連れ込み、そのようにしてわれわれの本質それ自身を存在するものの真理のうちに立たせる場合だけだからである。

    芸術の本質は詩作である。そして、思索の本質は真理の樹立である。

    真理を作品のー内へとー据えることは、不気味で途方もないものを衝撃的に打ち開き、同時に安心できるものと、人々が安心できると見なすものとを、衝撃的に打ち崩す。作品の内でそれ自体を開示する真理は、従来のものからは決して証明されえず、導出されえない。

    真に詩作的な投企とは、歴史的なものとしての現存性がそでに投げ入れられているあの場所を開示することである。そこは大地であり、歴史的な民族にとっては彼らの大地、それ自体を閉鎖する根底である。この根底の上に、そのような民族は、彼ら自身にとってなお伏蔵されながらも、すでにまさにその民族にほかならないもののすべてと共に安らっている。しかし、存在の不伏蔵性の連関に基づいて支配するのは、彼らの世界である。だから、その人間たちに元来備わっているすべてのものは、この閉鎖された根底から投企することによって取り出さなければならず、そしてことさらにその根底の上に据えられなければならない。

    われわれが原初と名付けるものの媒介されざるものをもっている。だが、この原初のこの媒介されざるもの、すなわち媒介されえないものからの跳躍という特有なものは、原初がきわめて長い間、目立たずに準備されるということを排除するのではなく、むしろそのことを含んでいる。

    芸術が生起するとき、すなわち原初が存在するときには、いつでも、或る衝撃が歴史の内に到来し、歴史がはじめて、あるいは再び原初する。ここで言う歴史とは、それがそれほど重大なものであれ、時間の内で生じる何らかの事件の連続ではない。歴史とは、或る民族を、その民族に備わっているものの内へと移し入れることとして、その民族に課せられたものの内へと連れだすことである。

    <存在と時間>の中で、一個の実存が自分の置かれた状況を背負い受けるのを決断することを通じて、民族の共同体が歴史生起すとして成就する。

    その投企によって投げ与えられたものが、むしろ歴史的な現存性自身の留保された使命であるという点からすれば、試作的な投企は無から到来するのではない。

  • ガダマーの解説すごい。
    後でまとめる。

  • ハイデッガーの芸術論ということで、あまり期待していなかったが、意外と深く、面白かった。
    この本の中でハイデッガーは芸術の本質を<真理を作品の-内へと-据えること>と規定した。これはむしろ古くさくて、オーソドックスな考え方だ。この場合「真理」という概念は、ヘーゲル的な、いや、古代ギリシャ哲学以来の伝統的な意味で使われている。
    この本で取り上げられている「芸術作品」はゴッホの「一組の靴」という、農夫靴をえがいた静物画である。ゴッホにしては古典的な写実画で、あの「病い爆発」という感じの作品ではない。つまりハイデッガーは古典的な絵画をモデルとして用いている。
    「真理」という語をあまり厳格な哲学用語としてとらえず、漠然としたイメージと見るならば、「真理を作品の内へと据える」あるいは「(作品において)真理が生起する」という表現は、だいたいわかるし、共感もできる。
    ただ、例の「道具」概念を持ってくる辺りはやはり腑に落ちないのだが、存在論的コンテクストで古典的な芸術論が語られた、という点で、この本はなかなか面白いし、一読で汲みきれなかった部分はもう一度読み返してみたいという気持ちもある。
    私としては、広義の「芸術」というものはもっと多面的で、このハイデッガーの理論だけでは説明しきれないような気がする。しかし「芸術とは何か」という問いに、私はいまだ答えきれない。「芸術」という概念じたいが各文化、各コンテクストにおいて異なったものでありうる、という事実が、私を沈黙させるのだが。
    とりあえず、芸術をめぐる思考を深めるという意味で、良い読書体験だった。

  • 「オシャレ」のの対象である芸術作品が、いかに人々の生活に関わるものであるか、まさに生成の根源に近づくようにして語られて、読後、作品を見る目と日常の風景が一変します。
    英米系の哲学流行りですが、ハイデガー一流の現象学的解釈であらゆるものが語られていき、なおかつ納得させられるという、スリリングなパフォーマンスを楽しむと、難しい哲学がサスペンスのように読めて良いか、と。

    世の中について考えちゃう時、読みます

  • もっと、他のハイデッガーの本を読み終わるとすぐにレヴューの内容は変わりそうな予感がする。そういう思想としての途上感は本書を読み終わって感じられた。

    芸術作品の根源 著:マルティン・ハイデッガー レヴュー


    芸術とはなにか?それと考えるためにある
    と言うよりは、ハイデッガーの後期の思想を理解する端緒として
    の書物という趣が強い。
    単なる美学に関しての書物ではない。
    本を読む上でまず鑑賞者、創作者の主観性に基づく芸術の捉え方がどのような歴史の中にあったかを知っておくことは有益である。それらは後ろに付与されたガダマーの文章にある。

    美学を心の諸力の主観性に基礎づけることは、危険な主観化の始まりを意味した。カント自身にとってはたしかになお、自然の美と判断する主観の主観性との間に成立する神秘に満ちた一致が決定的であった。それどころか、あらゆる規則を凌駕して芸術作品の奇跡を成就する創造的天才は、カントによって自然の寵児と理解される。このことはしかし、全体としては自然の秩序が疑いなく妥当するということを前提としているが、この妥当性の最終的な基礎は神学的な創造思想なのである。この[神学的な]地平が消滅すると同時に、美学のこのような基礎付けは徹底的な主観化に立ち至らざるをえなかった。天才の無規則性の教説がますます進展していかざるをえなかったのである。もはや存在秩序という包括的全体に引き戻されて関連付けられることのない芸術は、現実に対して、すなわち人生という無味乾燥な散文に対して、[そうした現実を]浄化する詩の力として対置される。そのような力はただ芸術の美学的な領域内でしか理念と現実との和解に成功しない。シラーによって初めて語られ、その後ヘーゲルの大規模な美学として完成された観念論的美学はそのようなものなのである。
    p.160


    本文は最初の物の物性の根源的規定に関しての熟考から始まる。
    一般的属性としての物、感覚的なものとしての物、質量と形相を持つものとしての物、それらを否定する。一般化という平準化を避け、感覚的な主観性もまた避け、消費物としての道具としての質量と形相という形もまた避ける。

    物そのものはそれの<それ自体のうちに安らうこと>のままに放置され続けなければならない。物そのものは物に固有な常立性において受け取られるべきである。
    p.28

    ここで言う固有な常立性とはなにか?
    その問いはゴッホの靴の絵とギリシア神殿を通して展開していく。

    そこに立ちながら、この建築作品は岩の土台の上に安らう。作品のこのような安らいは、岩からそれの不従順で、しかも何ものにも急き立てられることのない、担うことの暗さを取り出す。そこに立ちながら、この建築作品は、その上で荒れ狂う嵐に耐え、そのようにしてはじめて嵐そのものをその威力において示す。岩石の光沢と光輝とは、それ自体ただ太陽の恩恵によるとしか見えないが、実は昼の明るさ、天空の広さ、夜の闇をはじめて輝き-現れることへともたらす。このように確然とそびえることは大気という目に見えない空間を見えるようにする。作品の不動なることが、海の波浪の波立ちに対して張り出し、その静けさからして海の荒れ狂いを出現させる。樹木と草、鷲と雄牛、蛇とこおろぎとは、はじめてそれら自体の際立った形態のうちへと達し、そのようにしてそれらがそれであるところのものとして輝き現れることへ至る。
    p.61

    そこに神殿が立つことによって、これらの世界が開かれ現れる。神殿があることで、これらの世界に持続性が与えられるのである。このような持続性を与える「作品」と「道具」の違いはなにか?


    道具は、有用性と使用可能性によって規定されているので、その存立が基づくもの、すなわち素材を、それ自体の役に立てる。石は、道具、たとえば斧の製造においては、消費され、使い果たされてしまう。石は有用性のうちに消滅する。素材は、それが道具の道具存在の中に埋没して抵抗がなくなればなくなるほど、それだけ優れているのであり適材となる。それに対して、神殿-作品は、一つの世界を開けて立てることによって、素材を消滅させず、むしろまず第一に、しかも作品の世界という開けたところの中で、素材を現れてくるようにさせる。
    p.68


    その違いに素材、物の消滅と出現に見る。そして出現させるものを大地と名付け、局面は大地と世界との関係に向けて進んでいく。


    世界は、大地の上に安らいつつ、大地をいっそう浮き立たせようとする。世界は、それ自体を開けるものとして、どのような閉ざされたものをも容認しないのである。しかし、台地は、保蔵するものとして、世界をそれ自体の内に引き入れ、留保する傾向がある。
    p.74


    大地が持つ保蔵するものとしての傾向は「作品」を考える上で重要な点となってくる。それを考える上でガダマーの文章が参考になると思われる。


    存在するもの一切の完全な不伏蔵性(その完成態において考えられた表象による)一切のものが全的な対象化、それは存在するものの<それ自体の内に存在すること>を止場[廃棄]してしまうだろうし、全的な平準化を意味するだろう。そのように全的に対象化されたものとして現れるだろうものは、むしろ、存在するものすべてにおいて同等のもの、すなわち、それの利用可能性の機会であろう。
    p.174


    「作品」に保蔵する傾向があるが故に「作品」は道具のような消費から免れる。現代はますます全てを開き、隠されたものを掘り出し、その有用性と全体の合理性のもと消費し尽くす傾向にある。私たちはこの保蔵という性質を十分に考えていく必要がある。


    世界は単に空け開けに対応した開けたところではないし、大地も[単に]伏蔵に対応した閉鎖されたところなのではない。むしろ世界は、あらゆる決定が従っているもろもろの本質的な指図の軌道の空け開けなのである。しかしあらゆる決定は、自由に処理できないもの、伏蔵されたもの、惑わすものに基づいている。
    p.86


    あらゆる決定は自由に処理できないもの、伏蔵されたもの、惑わすものに基づいている。伏蔵されたものは引き籠もることで、また偽装することで二重に拒むと言われる。その籠り、偽装する、ある種の矛盾と渾沌を含んだもののが、新たな世界の開けの原初となるのである。


    原初はすでに伏蔵された仕方で終焉を含んでいる。真正な原初はもちろん原始的なものの未熟さなど、断じて持っていない。原始的なものは、贈り、根拠づける跳躍、すなわち先んじての跳躍を持たないのだから、いつも将来を欠いているのである。原始的なものは、それ自体からは何も解き放つことが出来ない。というのは、原始的なものは、それが縛り付けられているもの以外の何ものをも含んでいないからである。
    p.126


    原初は決して原始ではないことが明確に書かれる。二つの違いは「解き放つ」ことである。


    芸術の本質は詩作である。そして、詩作の本質は真理の樹立である。われわれは樹立するということをここでは三重の意味で理解している。すなわち、贈ることとしての樹立すること、根拠づけることとしての樹立すること、開始することとしての樹立すること、である。だが、樹立は見守りにおいてのみ現実的である。
    p.123-124

    試作としての芸術は、真理の闘争を引き起こすことと言う第三の意味での樹立であり、原初としての樹立なのである。
    p.127



    芸術の本質としての試作はこのように原初に結び付けられる。そしてその原初は歴史と結びつく。そして歴史とは「或る民族を、その民族に備わっているものの内へと移し入れることとして、その民族に課せられたものの内へと連れ出すことである」と書かれる。芸術が歴史に結び付くのはそれが歴史を根拠づけるという意味においてなのである。



    芸術は真理を発現させる。芸術は樹立しつつ見守ることとして作品のなかで存在者の真理を跳び出させる。何かを跳び出させること、本質の由来から樹立しつつ跳躍することによって存在へともたらすこと、このことこそが根源という語の意味するところである。
    p.129


    本文は最後にしてタイトルにある「根源」がなにであるかを明らかにする。そして芸術作品の根源とは



    芸術作品の根源、すなわち同時に、或る民族の歴史的現存在を意味する、創作し見守るものたちの根源は、芸術なのである。そうであるのは、芸術がその本質において根源だから、つまり真理が存在するようになり、歴史的になる或る卓越した在り方だからである。
    p.129


    と記される。
    創作し見守るものたちの根源
    この見守るものがなければ、芸術も、また真理も現実的とはならない。後記に描かれる体験に対しての恐れとはそのような部分から発しているように思える。


    体験は、芸術鑑賞だけでなく、芸術創作にとっても同様に基準となる源泉である。すべてが体験なのである。それにもかかわらず、もしかすると体験は、芸術がそこで死んでしまうような境域なのかもしれない。この死は、数世紀を要するほど、ゆっくりと進行する。
    p.131


    最後にガダマーの文章にも書かれているが、この芸術に対しての考えはハイデッガーの後期の考え方を理解する上で重要な点となってくる。本書は芸術がなにかという単なる美学的な側面から読まれるものではない、もっと広い、そして深さを持ったハイデッガーの哲学自身に触れるための一つの入り口として読まれるべきものである。


    芸術作品の真理は、意味が平板に公然と開かれていることではなく、むしろ、その意味のはかりがたさと深さなのである。そのようにして、芸術作品は、その本質にしたがって、世界と大地の間、立ち現れと保蔵することの間の闘争なのである。
    p.173

    芸術作品において立証されたことは、しかし存在一般の本質をなすのである。露開と伏蔵の闘いは、ただ作品の真理であるにとどまらず、存在するもの一切の真理なのである。というのも、真理は不伏蔵性としてつねにそのような露開と伏蔵の相互対抗だからだ。
    p.173

  • いとも回りくどい常識。だけど見える景色はまったく違う。

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マルティン・ハイデッガーの作品

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