史記 (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582767100

作品紹介・あらすじ

中国文学の第一人者が読み解く、司馬遷『史記』の世界。前漢の時代背景、司馬遷の生涯、成り立ちの経緯から、「項羽と虞美人」「李広と李陵」「伍子胥と白公勝」など、全百三十巻より、八か所の読みどころを精選、原文・読み下し・訳と解説、さらに独自の視点を通してその普遍的な魅力に迫る。また小説「李陵」を増補し、半世紀を超える著者の"史記史"をあとがきで述懐。究極の史書から学ぶ、人間と歴史の真実。

感想・レビュー・書評

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  • 今年の5月は『史記』に出逢った月でもあった。
    司馬遷、前漢の人。紀元前145年生まれ、紀元前86年没が定説。47歳の時、将軍李陵を擁護した為に武帝の逆鱗に触れ、死刑の判決を受け獄につながれる。刑を免れる為に自らすすんで去勢の刑を受ける。二年後、50歳の時に出獄、「史記」執筆に専念する。

    この事件によって、司馬遷の胸の奥深くに、一つの結ばれてとけぬものが根付いた。懐疑である。
    「老子」は「天の道にえこひいきはなく、常に善人に味方する」とあるが、果たしてそうだろうか。
    (略)
    「伯夷列伝」の中で、彼はこの懐疑論を展開する。「天道は、はたして是か非か」。
    この矛盾が、根源的には支配階級の生む矛盾であること、天の意志などとは全く無縁であることに、人々が明確に気付く為には、なお二千年近い歳月が必要であった。しかし司馬遷は、この懐疑をあくまでも捨てず、この懐疑をバネにして、「史記」を書いた。矛盾を矛盾として、事実を事実として、人々の前につきつける、という手法を通じて。(36p)

    しかし、一海知義は第一章の処で鮮やかに「史記」の特徴を述べたあとに、平凡社ライブラリーに収めるにあたり「あとがき」でこの客観主義に「疑義」を述べる。

    司馬遷は、冷徹な客観主義者、リアリスト、或いは忠実な記録者として、そうしたのか。それとも、時代の批判者として、ある意図をもって、ある立場から、どうしても記録しておかねばならぬ一条として、記録したのか。司馬遷が武帝の治世に対する批判者であったことは、よく知られているし、史記をよめばそれは明らかである。しかしその批判はどこまで貫徹されていたか。司馬遷の中に、その点でなお矛盾撞着するものがあったようにも、私には思える。だが、その矛盾の質が、もう一つよくわからぬ。(346p)

    一海先生にわからぬものは、私にはもちろんわからぬ。しかし、この本により、私は初めて「史記」に出会った気がする。「項羽と虞美人」「李広と李陵」「伍子胥と白公勝」など、全百三十巻より、八か所の読みどころを精選、原文・読み下し・訳と解説を展開している。北方謙三が『史記』の小説化を試みているが、それは『武帝記』にすぎない。もちろん、長編小説なので、司馬遷の半生はおろか、李陵、蘇無等の人生も縦横に描いているのだろうが、私は司馬遷の若い頃、諸国を回っていたころのエピソードが気になる。そこで、彼はのちの資料や伝説、或いは諸国の歴史の決着を知ったはずである。想像がそっちの方が広がる。

    私の残りの人生で「史記」をどれだけ読めるか、疑問はある。しかし、読んでいきたいと思う。
    2012年5月9日読了

    北方謙三「史記」と並行して、その登場人物の原文を読んでゆく第二弾です。北方「史記」第二巻ではまだ李広は、一度リタイアしたあとにまた呼び戻されて50代にして大将軍衛青の下で働き始めるまでだった。

    司馬遷は同時代人の華々しい戦果を挙げた衛青や霍去病よりも「李将軍列伝」に於いて詳しくかつ好意的に記している。もちろん、司馬遷は事実を列挙するだけである、が。

    李広は三代に渡って王に仕え、その弓の巧みさにより、戦果を次々と挙げる。しかし、様々な不運が重なり李広は大きく評価されることはなかった。という風に司馬遷は描く。文帝自ら「時がときなら一万戸の大名になっただろうに」と言ったというし、景帝のときには上司が「李広は才気天下無双なり。これを亡わんことを恐る」と評価したにもかかわらず、である。所々非常に詳細な描写で李広の名将ぶりを示す。

    李広は清廉潔白、また温情に溢れた軍人ではあったが、戦場での失敗により野に下っていたときに恥辱を与えた下級役人に対して改めて将軍になったときに連行して部隊に着くと切り捨て復讐をした、というエピソードも挟む。野放図なスケールをもった人物ではなかったことも司馬遷は示している。

    これらの細かいエピソードの一つ一つを北方「史記」は殆ど採っていない。

    やがて読むだろう北方「史記」第三巻に於いて、前119年(60歳代)「李広再三の希望により前将軍となるが、衛青により迂回路出撃を命じられる。李広、本隊との合流に遅れた責任をとって自殺する」という事件が起きるだろう。

    ‥‥行くこと回りて遠く、しかも又た迷いて道を失えり。あに天に非ずや。かつ広は年六十余なり。ついにまた刀筆の吏に対するあたわず」と。ついに刀を引きて自頸す。
    (道は遠回りだし、それにまた、迷うて道をまちがえた。天命と云うものだろうか。その上にそのう、わしも六十をこえた。小役人の前に引きずり出されるのは、絶対にごめんだ」そういうと、刀を引き寄せて、おのれの首をはねた。)

    これを聞いて国中の百姓たちが、広を見たことがある者もない者も、老人も若者も、みな彼のために涙を流した。と、司馬遷は書く。破格である。ホントに其れほど優れた将軍だったのだろうか。

    北方「史記」を読む限りでは、優秀な将軍であったことは確かだが、匈奴を撃つということに関しては戦いの戦略自体が間違っていたと李広自身が衛青と比べ自分の弱さを自覚している。第三巻においてどう描かれるかは、まだわからない。私は、李広の自殺にしても「二度と小役人にバカにされるのはごめんだ」という小さなプライドに拘って決心したのだと想像する。

    司馬遷が「悲劇の将軍李広」を詳しく描いたのは、この列伝にオマケとして書かれている「李陵(司馬遷が宮刑に至った原因)」の伝記を詳しく書くわけにはいかなかったためである。李陵は李広の孫だ。

    最後に司馬遷は書く。(李広が死んで国中が悲しんだということは)彼れそれ忠実の心は、誠に士大夫に信ぜられしなり。諺にいわく、「桃李、言わざれども、下、自ずから蹊(けい)を成す」と。この言、小なりといえども、以て大に喩うべきなり。(それこそ彼の誠実な心が、世の有識者からホントに信用されていたためである。諺に「桃やスモモはものをいわぬが、その下には自然に小道が出来上がる」という。このことばは、小さなことのたとえだが、大きなことのたとえにもなり得るのだ。)

    司馬遷は昔からの諺を引用して書いているが、「自ずから蹊を成す」の出典はほぼすべての辞書では史記のこの「李将軍列伝」になっている。「史記」の中には現代の諺の源になる言葉が数多くあるが、この李将軍列伝もその一つである。

    李広が死んだとき、司馬遷27歳。司馬遷の世界はまだ狭かったからこのような偏った印象だけで文章を書いたのか。それとも、特に李陵に関係する人物だから、「評価」ということを巡って司馬遷の目は明確な意思をもって確信犯的に恣意的な「事実」を選んでいったのか。おそらく後者だろう。そういう目でこの「李将軍列伝」をみると、文章がイキイキとしているだけに、司馬遷、空恐ろしい。

    悲劇の将軍はホントに悲劇の将軍だったのだろうか。イキイキとした司馬遷の叩き台があるからこそ、後世の読書家たる我々は様々に議論することが出来る。司馬遷は確かに当時の1番正確な歴史的事実を記した。しかし、歴史的「真実」までは描いてはいないだろう。それらをあれやこれやと論じる、また、愉しからずや。
    2013年8月23日読了

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