- Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582831214
感想・レビュー・書評
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―2002年12月-
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昨年図書館で借りたものの読み進めず返却したら、年末実家にあるのを発見、読み直しました。
白川静と梅原猛の対談ということで読み応えあり。
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図書館で見つけて、二人の対談というだけで読まない訳にはいかないと思いすぐに借りてきた。
さすがの梅原も白川相手には少し控えめ。
でも時々自説が出る。そしてそれを温かく聞いている白川。
底知れぬ素養を元に確固たる世界を持っている者同士が話す内容は気軽に話しているようでもとても奥が深い。
両者がそれをお互いに楽しみながら、若者のように嬉々として語る姿が心地よい。 -
白川静の著書にいきなり触れるのがハードル高いと感じる人はこの辺の対談本からスタート。目から鱗の話が充分聞ける。
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詞はもとより、文字ひとつにも、思いや願いがこめられている。
言霊です。普段ぞんざいに、話したり書いていることを猛省。ゆっくりとかみしめるように、ことばを紡ごうと思います。 -
内田樹さんの推薦。
白川先生は、立命館で学生運動のときにも、窓にいつまでも電気がついていて、高橋和己など他の学生がおそれていたというエピソードがある。
大先生だなと自分が思うのは、井筒俊彦先生と白川静先生。学識の幅は人間わざではない。
(1)中国では、祖先をまつる器物に文字をいれて祖先に告げる。そういうことを殷代にはやっています。(p29)
人と人との交流に文字が使われるようになったのは、ずっとくだって、竹簡、木簡の時代になってから。
(2)孔子は、弟子たちをつかっていろいろな政治活動を行うのですが、孔子は政治家ではありませんので、ことごとく失敗するのです。しかし、失敗するたびに、人間的理解が深くなり、その教えは広くなっていくのです。(p105)
孔子は、理想主義的な革命家というのが白川先生の分析。孔子伝が有名。
(3)ある土地で何か行事をする。儀礼を行うという場合にね、この「同」という盃にお酒をいれてみんなでお酒を降り注いでね、地霊を慰めるのです。そうすると地霊はめざめて「興」というのはね。目がさめる、起きあがるという意味があるでしょ。目覚めてね。自分たちにこたえてくれるようになる。(p206)
白川先生は入門書があまりないが、漢字が自分がよめることに感謝する。神と交流する文字として、一つ一つおそれをもって使っていく必要がある。 -
「呪」という漢字は、左は祝詞で右は祝詞を唱える人を表している。神と交信する人間の姿がそこにはある。そして文字は神と人とをつなぐための媒介だった。もはやコンテクストは失われたが、漢字の原型の多くは神と関係があるものであったのだ。
万葉に
明日よりは若菜採まむし標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
という歌がある。これは、特定の場所の、そこにある草を時間内に籠いっぱいに摘みますと神様に誓いを立てる歌だ。これは誓約といって、成功すれば自分の願いがかなうとされていた。呪的な行為をするためのもの。すなわち呪歌である。こうした呪歌は初期万葉、詩経に多く見られる。どちらも興の精神に支えられている両作品の間には絶対年代に千数百年の差があるにもかかわらず、共通した性格をもつのは、置かれていた社会的状況が殆ど一緒だったからであるという説は大変「興」味深かった。
ちなみに「興」という漢字の成り立ちはどういったものかというと、中の同という字はお酒をいれる筒、それを両手で持つ、捧げる様子を表している。これもまた地霊を慰めるための儀式である。土地の呼び起こすという意味、つまり主題を呼び起こすという意味があるのだ。
白川静と梅原猛。二人の知の巨人の対談は、漢字ものがたりから、孔子の生き方、詩経に籠められた興の精神へと展開し、まるで壮大な交響曲を聴いているようで、刺激的で心地よく、気持ちのよいものであった。 -
日本語に対する知識、興味が全て変革された。
日本語のみならず、漢字という文字、表記、表示法に大いに
納得感の高い内容だった。