滑稽な巨人: 坪内逍遥の夢

著者 :
  • 平凡社
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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (315ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582831375

作品紹介・あらすじ

彼の「成功」ではなく「失敗」こそが、今の私たちには、よくわかる-「近代文学の先駆者」というイメージを超え、新しい逍遙像を描く、傑作評伝。

感想・レビュー・書評

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  • 逍遥はヘビースモーカー→後に禁煙に成功

  • 逍遥の評伝。常に己の価値観を信じて活動し続けた逍遥の人生をザックリ理解できた。
    飄々とした風貌だったり、二葉亭他友人達や教え子への思いやりエピソードが沢山知られている人ではありますが、真面目で頑固で打たれ強いところがあるんですね。

    項立てが学校、演劇、家庭…と分けて書かれているので、テーマ毎に理解が捗る。逍遥本人が自分の著作で「自分の人生は7年区切りで次の事業に着手してる」って述べてる通り、こういうテーマ区切りでもだいたい年代を追っていけるのが面白い。
    豊富な引用とエピソードからの考察、巻末の参考文献の量も凄くて、これら元資料にあたって、もっと詳しく読んで調べてみたくなる面白さでした。

  • 湯島境内でお蔦と力が泣く泣く別れたのは、お蔦が芸妓であったからである。将来のある若者が芸妓と一緒になることは立身出世の邪魔になる、そういう考え方が当時の世間の大勢を占めていたからこそ、『婦系図』は新派の狂言として一世を風靡することになった。ところが、である。東京大学出の文学博士がこともあろうに芸妓どころか娼妓と一緒になり、所帯を持つに至っては、世間は放っておかないだろう。しかもそれがシェイクスピアの個人全訳という前人未踏の偉業を成し遂げた坪内逍遙博士であったとしたら、なおのことである。

    では、なぜ、逍遙はそんなことをしたのか。実は逍遙という人、このことに限らず、時代の趨勢とはズレていたところがある。有名な『沙翁全集』にしたところで、漱石や鴎外などの留学経験者たちには、その時代がかった訳を軽んじられていたという。どうやら江戸通人文学に精通していた逍遙は、「近代日本にとりついた『個人』と『国家』という二つの憑き物のどちらに対しても、『こんな物を支えに暮らしてゆくわけにはいかない、自分が生きる拠りどころとしてはこれでは不十分だ』と感じていたらしいのである。」

    普通の人なら、自分のズレにあわてて、修正を図ろうとするものだが、逍遙はちがった。「国家」と「個人」という憑き物に目もくれず、自分の生きる拠りどころを自分で作ろうとする。もっともそのいずれもが残念ながら失敗に終わってはいるのだが、著者はその失敗の原因を逍遙に何かが足りなかったのでなく逆に過剰であったからではないかと考える。「逍遙の多すぎる夢を読みとく枠ぐみを近代日本は持っていなかった」ために、かれは周囲から浮き上がり「滑稽な巨人」として生涯を閉じるしかなかったのだ、と。

    逍遙の夢の一つは、新しい日本の演劇を作ることであった。能や歌舞伎という伝統的な所作事中心の音楽劇を洗練し、思想的に高めた「新舞踊劇(新楽劇)論」がそれである。旧態依然とした旧劇でもなく、かといって西洋の翻訳劇でもない独自路線というところが眼目である。しかも、それを自分の数人の養子を教育することによって実現させようとしていた。逍遙にとって家庭は単なる団欒の場ではなく芸術運動の拠点でもあった。

    夢の二つ目は学校である。国家と個人という「強力な利己主義の磁場」を離れて、逍遙が倫理の基準を求めたのが「社会」であった。「大小広狭に拘わらず、習慣的に協同する人間の集合」をできるだけ気持ちよくたもつことを考え実践することを自分の「領分」と考えた逍遙にとって、若い人を家に集め、そこで講義をしたり演劇を練習したりする「家塾」や「自宅学校」というかたちこそ理想の学校であったろう。それは、近代の制度化された学校とは対極にある。逍遙が校長をしていた間、早稲田中学では「教育勅語」の奉読はなかったという。

    三つ目は「戸外劇」である。中世イギリスの都市の祭りには魚屋とか仕立屋とかのギルドのメンバーが車舞台に寓意劇を仕込んで広場を華やかにパレードする風習があった。逍遙が最後に試みたのはクロウトの俳優や舞踊家でなく、シロウトの俳優が自分たちの住む町で行うページェントであった。そこには「民衆芸術」や「市民演劇」という視点の萌芽がある。

    三つの試みに共通するのは、国家や個人という近代の二つの憑き物に対する徹底した異議申し立てである。イデオロギー装置としての国家に対しては、事ある毎に違和を感じるものの、個人という概念には疑念を感じたことがなかっただけに、「習慣的に協同する人間の集合」を基礎に据えた倫理という考え方には虚をつかれた思いがした。『舞姫』の太田豊太郎に近代的自我を発見したつもりで得々としていたのだが、娼妓を妻とし、世間の風評被害を受けながら最後まで添い遂げた逍遙の自己の倫理観に忠実な生き方の前では、いかにもそれが薄っぺらなもののように思えてくるのだった。

  • まず、タイトルがすばらしい。逍遥そのもの。しかし、決してばかにしているわけではない。「滑稽な巨人」だからこそ魅力的だったわけ。

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著者プロフィール

1938年、福岡県生まれ。評論家・元編集者。早稲田大学文学部を卒業後、演劇と出版の両分野で活動。劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任する。植草甚一やリチャード・ブローティガンらの著作の刊行、雑誌『ワンダーランド』やミニコミ『水牛』『水牛通信』への参加、本とコンピュータ文化の関係性の模索など、編集者として多くの功績を残す。2003年『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』で新田次郎文学賞、09年『ジェローム・ロビンスが死んだ』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『最後の読書』で読売文学賞を受賞。他の著書に、『したくないことはしない 植草甚一の青春』『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』など。

「2022年 『編集の提案』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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