- Amazon.co.jp ・本 (195ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582852721
感想・レビュー・書評
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日本史好きを自認している私ですが、恥ずかしいことに古代史については殆ど知識がありません。歴史の授業をうけて30年も過ぎてしまい何も残っていません。どこから古代史に手を付けてよいか分からない私にとって、有名な古代における重要な9つの重要戦乱を取り上げて解説してくれているこの本との出会いは嬉しいものでした。
今後は、自分の興味のある戦い等を明確してテーマを絞って、楽しみながら古代史にも触れていこうと思いました。
以下は気になったポイントです。
・保元平治の乱で皇室の内紛に武士が関与したのをきっかけに、武士が国政の場に進出した。そして彼等が起こした源平争乱をきっかけに中世という新たな時代が訪れる(p13)
・弓術を身につけた戦死同士の戦いが行われ、弓矢の射程距離ぎりぎりに相当する距離にて対決し、弱者が強者に降伏する形で戦いの決着がついた、接近戦はまず行われなかった(p14)
・武士どうしの勢力争いのなかから、新たな武器の改良、合戦の作法がつくられた、弓術と馬術に磨きをかけ、流鏑馬の行事のような形で受け継がれているものもある(p15)
・大和朝廷は、三世紀半ばにおいて、纏向(奈良県桜井市)の地に興った、そして4世紀初めに三輪山の神を大王の守り神とする信仰が生まれた(p50)
・大和の守り神である三輪山の大物主神では全国の神々への押さえがきかないので、朝廷は太陽神である天照大神を大王の祖先神とした(p54)
・蘇我入鹿暗殺の翌々日の6/14日に、皇極天皇に変わって孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となって大化の改新を推し進めた、中臣鎌足は皇子の補佐役にあたる内臣2に任命(p67)
・大化の改新により、王家が上に立ち、豪族連合(蘇我、阿部、大伴、巨勢、紀等)がそれを補佐をする形となった(p69)
・農耕民である弥生人にとって、動物や魚介類は重要でない、稲を育ててくれる雨や太陽の恵みが大事、山奥や耕地のない島では、縄文時代と異ならない生活を送っており、大和朝廷とは異なる精霊崇拝を行っていた(p80)
・白村江の戦いは、日本の半島からの後退を決定づけたが、これをきっかけに内政が整備、文化が進展した(p103)
・672年、宮廷勢力を二分した壬申の乱がおきた、これは古代最大の内乱、大友皇子と大海人皇子との王位争いであるが、当時の豪族の多くがいずれかについて戦闘した(p106)
・蘇我赤兄が壬申の乱の敗者の側についた意味は大きい、それは蘇我氏及びその同族(巨勢、紀、平群、葛城、羽田等)の中央政界からの後退を意味した(p128)
・前九年の役と後三年の役(1051-1062,1083-1087)は、一面ではこの時代にみられた受領と有力武士との紛争として捉えられるが、東北地方の争乱には、1)武士の多くが、かつて朝廷に反抗した蝦夷の系譜をひく、2)東北地方の有力武士が豊かな富(黄金と良馬)を持っていたのが特徴(p147)
・保元、平治の乱は、宮廷内の小さなクーデターに過ぎないし、参加した武士も少ないにもかかわらず大事件として扱われた、その理由は、最高の武技(馬術、弓術、剣術)が披露されたから(p176)
・応仁の乱(1467-77)では、足軽戦法が登場して、名のある大将が囲まれて討たれることもあるが、それまでの一騎打ちによる戦いは、一人の勇者の力が勝負の流れを変えることも多かった(p178)
・近衛大将は最上位の武官であり、大将の経験のない大臣は、大将を兼ねる大納言より低く見られた(p188)
・平治の乱に勝った平清盛は1167年に太政大臣となったが、宮廷での力はまだまだであった、清盛の上には、摂関家の長者である藤原基房がいたし、院近臣にも有力者が多くいた、平氏政権が確立したのは後白河法皇を幽閉してから(p195)
2013年6月2日作成詳細をみるコメント0件をすべて表示