かなづかい入門: 歴史的仮名遣VS現代仮名遣 (平凡社新書 426)

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  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582854268

作品紹介・あらすじ

旧かな愛好者たちが言うように、いまや定着した「現代仮名遣」は日本語の伝統を破壊する蛮行なのか?けれども、定家にはじまり、契沖が大きくすすめた「仮名遣」の歴史をふりかえってみれば、貫之だって空海だって、紫式部の兼好も西鶴も、「歴史的仮名遣」で書いているわけではない。「仮名遣」は表記の規則-あたりまえの立場から「かなづかひ」をめぐる誤解と幻想のもやをはらう。

感想・レビュー・書評

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  • 卒論用参考文献。
    主観的ではあるが、問題点が明確

  • 歴史的仮名遣いというと一番先に思い出すのは「ゐ、ゑ、を」そしてあいうえおと読む「はひふへほ」です。
    日本の国語の歴史から奈良時代には48文字の発音があり、や行にも別の「え」があったのが、消滅。そして「ゐ、ゑ、を」も実際には藤原定家の時代には発音が消滅し、「い、え、お」に一本化していたにも関わらず、たとえば「い」音の表記が「い」「ゐ」「ひ」の3種類に分かれていた。それが当時も混乱を招いていた!というのは驚きの歴史です。そして定家の時代に分かっていなかったことが契沖の時代には判明していたことから、定家・契沖の間にはコペルニクス転回があった!歴史的仮名遣いに対しては著者は厳しいように感じますが、私自身も長い間、古文に接してきてそれが優れたもののような郷愁を感じていました。仮名遣いは表記の原則であり、発音の原則ではない、という著者の主張には納得です。それにしても現代仮名遣いもまだまだ表記の例外があり、(助詞の「は」、「へ」など)外国人には難しい言語でしょうね。いつのまにかマスターしている日本人の教育水準の高さは凄いと改めて感じました。

  • 仮名遣い,特に規範としての仮名遣いの歴史が概観できる書。
    副題が『歴史的仮名遣vs現代仮名遣』となっているとおりこの二つの優劣に関する論争が強く意識されている。『はじめに』で著者は「どちらかに肩入れしようとするつもりは,ない」(p15)と書いてはいるが,実際には歴史的仮名遣い支持の論調に対する批判が随所に見られる。これが歴史的仮名遣いにノスタルジックな幻想を持つ層から無用な反発を生んでいるようだ。文部科学省で国語教科書の検定を行ってきた著者の経験上敏感な話題なのかもしれないが,読後感が損なわれるのが残念。現代仮名遣いが圧倒的に優勢な今,両者の論争も歴史としてより客観的に書くこともできたのではないか。大量の日本語がパソコン上でローマ字入力やかな入力という“よみ”を経由して書かれる現在,相当の教養がなければその“よみ”すら判らない歴史的仮名遣いに回帰することはないだろう。特に字音仮名遣いは致命的であり,その分余裕を持った記述も可能だったように思う。
    上記の問題点を除けば,わたしのような素人でも仮名遣いの発展が容易に把握できる良書。仮名成立後の発音変化による仮名表記の混乱,藤原定家を嚆矢とする規範仮名遣いの成立,契沖の発見とその後継による研究の充実など日本の知識階層が,いかに仮名遣いに取り組んできたかが平明に描かれる。
    次に明治以降の歴史的仮名遣いが孕む規範としての問題点が指摘される。契沖の研究はあくまで和語の仮名遣いであって漢字音の仮名遣いは含まれていない。この契沖の仮名遣いが国語仮名遣いと呼ばれ,漢字音に対する字音仮名遣いと区別される。この字音仮名遣いが相当に厄介だ。なにしろ「『応』は『おう』であるが,『央』は『あう』,『押』は『あふ』,『王』は『わう』」(p114)といった調子で手掛りもなく丸暗記するしかないと聞けば,たいていは歴史的仮名遣いを学ぶ時代に生まれなかった僥倖に感謝したくなるだろう。
    このほか現代仮名遣いの問題点や“現代仮名遣い批判”批判などが展開され現代に至る。
    残念だったのは『歴史的仮名遣vs現代仮名遣』とあるとおり話題が規範仮名遣いに終始したことだ。江戸期文芸など規範でない仮名遣いへの言及があれば,さらに網羅的な入門書になっただろう。すでに時代が結論を出した論争に費やした紙幅を,一部でもそちらに振り向けて欲しかった。

  • 今後読むことはないと思います。

    導入と思われる第二章まで読みましたが、学者批判が多くて読む気が削がれました。
    地動説とかコペルニクスとかも多少くどいです。

    また、なんの説明も無しに上代特殊仮名遣を出すのはどうかと。
    このタイトルに惹かれて読む人の、何割が「キ(傍線)」を理解出来るか。

    以下斜め読みですが、使えるなぁと思ったのは、
    「仮名遣の種類」「長音開合」「四つ仮名」くらい。

  • 09/1/10 
    09/1/6 『かなづかい入門』 白石良夫 平凡社新書 08/6/13 参考文献あり。 
    203p 五十音図の正体は、日本語の音節の表だったのである。
    21p 「仮名」という語は、狭義にはこの平仮名・片仮名のことをさしていうが、この仮名には、真仮名にあった濁音専用仮名がなかった。濁音符(濁点)がなったわけではないが、普通の文字生活やとくに文学作品では普及しなかった。
    29p 「故」(ユヱ)は平安時代を通じて「ゆへ」の表記が優勢なのだが、これは間違ったあと慣習化したのである。慣習化とは、すなわち、社会の明確な規範ではないが、無意識のうちに意識化される規範といえよう。
    30p 撥音以外はそれ専用の音節文字(仮名)をついに持たなかった。撥音にしても、その専用仮名として「ん」が生まれ使われはじめたのは、ようやく平安末から鎌倉時代にかけてであった。われわれが促音・拗音を「つ」「や」「ゆ」「よ」で表記するのは、既存の音節文字を借りているにすぎない。長音符号「−」が文字と言いがたいことは明白であろう。「う」を添えるとか「お」を添えるとかいうのも、表記上の工夫である。
    32p 定家によってなんとかされたのが、仮名の表記の規則、すなわち「仮名遣」であった。したがって、仮名遣の歴史は定家から始まる。定家以前に「仮名遣」はなかった。
    33p 仮名表記研究に画期をもたらした江戸時代の契沖の研究だとて、かれの目前に用意されていた知識の蓄積は、江戸時代初期の段階のそれであった。
    定家も契沖も、仮名の混乱が発音の変化に起因していることを知らなかった。知らなかったことを責めても意味はない。それどころか、問題の本質を見失うことにもなりかねない。
    41p 〔仮名遣の種類〕
    記述仮名遣(特定の時代や文献や書き手における仮名のつかわれざま)
    ・上代特殊仮名遣・西鶴の仮名遣・古文書の仮名遣・平安仮名遣など
    規範仮名遣(仮名のつかい方の規範または規則)
    ・定家仮名遣・契沖仮名遣・歴史的仮名遣(旧仮名遣)/国語仮名遣・字音仮名遣/現代仮名遣(新仮名遣)・純粋表音仮名遣
    42p 規範仮名遣は人工的につくられたルールである。/多くの規範(規則)がそうであるように,規範仮名遣も,社会の約束事として人工的に作られたものである。われわれの日常生活に定着している現代仮名遣も,しかり。
    44p 「規範というものは,学問的に正しくなければならない,というものではない」  規範としての仮名遣問題を定義するなら,それは,発音と仮名表記とのあいだにあるずれ,それによって引き起こされる仮名のつかい方の混乱を,いかに社会的な約束で調整するか,ということに尽きる。
    規範仮名遣のなかった九世紀の日本人が歴史的仮名遣を念頭において仮名をつかっていたわけではない。この時代の仮名のつかい方(記述仮名遣)をもとにして定めたのが歴史的仮名遣(規範)であるから,結果的に表記が一致するだけの話である。……空海や紀貫之の仮名表記をさして歴史的仮名遣といったら,思考の方向として逆を向いていることになる。……学術用語としての「歴史的仮名遣」は,現代仮名遣が施行されるまえに日本人の規範であった仮名遣をさして言うのが普通である。
    46p 仮名遣の創始者が藤原定家だといったが、定家が仮名遣の必要を痛感したのも、じつは、われわれとおなじ環境におかれていたためであった。発音どおりに仮名がつかわれていない、おなじ発音なのに違う仮名で書かれている。定家とわれわれの決定的な違いは、われわれには出来あがったルールがあってそれに従っているのに、定家にはそのつかい方のルールがまだなかったことである。だから、定家は自分がそのルールを作らねばならないと考えた。仮名遣問題を論じるとき、したがって、この定家を避けて通れない。「仮名遣とは何か」という本質的な問いと答えは、定家の仮名遣のなかにこそ隠れているといっても過言ではない。
    54p 大野晋「仮名遣の起源について」『国語と国文学』昭和25年12月。
    「を」=高いアクセント。「お」=低いアクセント。/イ音とエ音の書き分けは、古い仮名書き草子を見て理解せよ。
    57p わたしは先に、仮名遣とは仮名のつかい方の混乱を社会的な約束で調整するものだといった。だが、定家の想定した「社会」と契沖仮名遣にとっての「社会」、歴史的仮名遣にとっての「社会」、現代仮名遣にとっての「社会」、これらが同質の社会であるとは言っていない。これらの仮名遣は、それぞれの「社会」が固有に要求するものに応えて生まれた。仮名遣が社会的な約束であるかぎり、それぞれの「社会」の仮名遣は、それぞれの「社会」固有の事情があってしかるべきであろう。/「社会」から仮名遣は自由ではありえなかったはずである。
    P68 効率主義・機能主義の精神:『下官集』に書き留められた諸条が,和歌や草子を書き写すときの,定家の創始した作法であったことは明白である。
    p82 南北朝時代の和学者、行阿(俗名源知行、生没年未詳)は、定家のさだめた仮名遣を完備した規則集・規準書、『仮名文字遣』を著した。 83p一般に「定家文字遣」の規則といえば、この行阿作成の語例集『仮名文字遣』にあるものをいう。
    p85 仮名遣にとって大事なのは、どれを選ぶかではない。選んだもので押し通すということ、これが仮名遣の本当の意味なのである。
    p88 元禄時代の学問僧、契沖(1640〜1701)は、万葉集研究の過程で、古代(10世紀以前)の真仮名文献においては、後世に見られるようなつかい方の混乱がない、という事実に気がついた(精撰本『万葉代匠記』)。……古代文献から用例を採集して、一語一語についての仮名のつかい方(「つかわれ方」といったほうが正確)を整理して、『和字正濫鈔』を元禄8年(1695)に刊行。
    p91 以後、契沖仮名遣は、楫取魚彦(かとりなひこ・『古言梯』)・村田春海(はるみ)・清水浜臣・本居宣長・山田常典など後続の古学者によって改訂され増補されて、より正確になってゆく。 /「半切」は「反切」の誤字か?91頁、100頁
    103p 現代仮名遣がおこなわれる以前に学校で教えられ、社会で通用していた仮名遣を、歴史的仮名遣という。歴史的金津使いの原理は、契沖仮名遣のそれを引き継いだものであった。つまり仮名の用法に混乱のなかった平安初中期以前の仮名表記を正しかるべき表記として、それを規範とするというやり方である。
    104p 契沖は、自分の発見した古代仮名表記のありかたが和歌や和文を書くときの規準となると考えたのであり、そのほかの文章のことは念頭になかった。その後の古学者たちも、契沖仮名遣を、和歌・和文を書くときの規範にしたのであって、日記や手紙などといった日常的な文章まで、それを運用したわけではない。
    105p 古典語(平安中期以前)のための仮名のつかい方(規範仮名遣)を、俳諧や浮世草子・浄瑠璃といった現代語の文章にあてはめようとするのは、どだい無理がある。
    111p 契沖仮名遣は、はるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、そもそも現実のコミュニケーションのためのものではなかったのだ。
    112p 歴史的仮名遣は、古代人との心の感応の道具だった契沖仮名遣を近代の実生活の場に復活させた、時代錯誤の代物だった。現実の生活には不向きな言語だったのである。
    p126 字音の仮名表記の軌範化に本格的にのりだしたのは,江戸時代中期の本居宣長であった。その成果として『字音仮字用格(かなづかい)』『漢字三音考』などを著した。国語仮名遣の先駆者が定家とするなら,字音仮名遣の創始者は宣長ということになる。
    p128 宣長の時代,日本語古代文献における字音表記の確実な用例は極端に乏しかった。帰納するだけの材料がなかった。そこで,とりあえず,古代中国の韻書類をつかい,理論的な類推によって考訂するという方法をとった。/以後,字音仮名遣の研究は,宣長のこの方法によってすすめられることになる。つまり,平安時代中期以前の仮名表記を規範とする和語の仮名遣とは別の道を行ったのであった。そして,明治以後はそれが規範として採用された。だが,それは外国語である古代中国字音を日本語専用の仮名で表記することでしかない。
      字音仮名遣と漢字学者の領分 ギヨエテとはおれのことかとゲーテ言い
     132 近代の日本の学校では,国語仮名遣も字音仮名遣も一緒にして,正式な規範仮名遣として教育された。前述したように,この仮名遣に不便をかこっていた人は多かった。なにしろ,千年以上も前の方式を現代語に適用しようというのだから。字音にいたっては,架空の古代外来語なのだから。専門家はそれがわかっていたので,もっと便利な仮名遣への改訂に苦心した。だが,学問的に裏付けられて合理的なものだという幻想に支配された中途半端な日本語論者は,頑固にそれに抵抗した。
     167 文化人たちの思い込み 現代仮名遣の効率主義を批判しながら,古典学習の遠回り(非効率主義)をも批判していることになる。だが,古典学習や古典教育に効率をもめてはならない。なぜなら,この遠回りこそが,日本人の思索と感性とを鍛えるべく期待されている古典教育の意義であるのだから。/現代仮名遣にたつする批判で,もっともらしくて,しかしノスタルジックで情緒的で間が抜けているとわたしが感じるのは,歴史的仮名遣のうえに構築された文法の記述を混乱させているというたぐいの批判である。これは,昔はよかった式の,歴史的仮名遣を勝手に美化して,それをいかにも学問的に装うとしている,本末転倒の論理でしかない。/なぜそれが本末転倒なのか。文法の記述というものは,規範仮名遣のうえに構築されるものではないからである。
     169 歴史上も理論上も,さらには机上でさえも,「かんがへる」などというのはありえない架空の表記である。歴史的仮名遣は,おおくの架空の表記をせざるをえなかった。このことは,第五章ですでに証明済みである。架空の表記をいくら試みたところで,そのことばの本当の姿は見えてこない。
     174 発音と表記は密に関係している。……いや,そうだからこそ,発音と表記とは別なのだ,とわたしは言うのである。両者が密接であるからこそ,発音の法則(規則ではない)と表記の規則(法則ではない)とは,混同してはいけないのだ。/強調したい,「われわれの身近な歴史的仮名遣とか現代仮名遣といったものは,仮名のつかい方の規則であって発音の規則ではない」と。
     p182 古文あるいは文語文は歴史的仮名遣で表記される、というふうな書き方、これは間違いというわけではないが、不正確で誤解をあたえやすい。なぜなら、古文の表記に歴史的仮名遣がつかわれるのは、教育の世界のこれも約束ごとにすぎないからである。……だが、この慣習はあくまでも運用上の慣習であって、仮名遣の本質にかかわるものではない。
    p183 そもそも万葉集の歌には、仮名では表記できない音節があった。仮名の誕生前に消滅した音節である(第一章)。奈良時代の万葉集を歴史的仮名遣で表記するということは、平安時代初期の現代仮名遣で書いていることを意味する。ならば、20世紀の現代仮名遣をつかって万葉集を書いて、どこが間違っているというのか。/ まとめ
    万葉集……仮名文字では全音節が表記できない。歴史的仮名遣は次善の策。
    古今集……歴史的仮名遣が適用できる。発音と仮名文字が正確に対応していた。
    源氏物語……「ジ・ヂ」「ズ・ヅ」以外は現代仮名遣で書くほうが歴史的仮名遣よりも実体に近く、かつ合理的。
    芭蕉・西鶴……現代仮名遣がこの時代の発音にもっとも近似の表記。
     「実体に近い」とか「もっとも近似」といった中途半端な言い方になったのは、現代仮名遣といえども、純粋な表音仮名遣でないから。……もし古今集時代のような、発音と仮名が正確に対応している表記法が理想だというなら、源氏も枕草子も芭蕉も西鶴も、助詞のワやヲやエを「わ」「お」「え」と表記しなければならなくなる。
     p185 「仮名遣」は、それが定家のであれ契沖のであれ、表記の便宜上、あたとになって人工的に作られたものである。……歴史的仮名遣は、明治政府によって政策的につくられ、教育で叩きこまれたものである。百年ちょっとの歴史しかもっていない。……ようするに、新仮名遣が文章表記に馴染まなかったのではなく、年寄りが新しいものに馴染めなかっただけである。
      あとがき  p211 歴史的仮名遣は、適用範囲や理念のうえで契沖仮名遣とは異質であり、国民が共有する正書法、という役割しか担わされていなかった。だが、国民が共有するにはいささか過激で不便であったので、現代仮名遣に取って替えられた。/現代仮名遣に取って替えられたそのときから、歴史的仮名遣は、不幸にも、文化や伝統の継承者という幻想を、一部の声高なひとたちによって背負わされたのである。それを「伝統の捏造」とおとなしく言ってみた。
     p213 たしかに歴史的仮名遣は、日本語表記の歴史的研究(すなわち学問)の成果のうえに構築される規範仮名遣である。学問で明らかにされる成果そのものは合理的であるだろう。だが、それを現実に運用するうえで合理的(すなわち学問的)であるかどうかは、また別問題である。 

  • 現在、読書中。

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著者プロフィール

元佐賀大学教授 国語国文学
著書『注釈・考証・読解の方法』(文学通信 2019年)

「2023年 『和学知辺草【翻刻・注釈・現代語訳】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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