- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582854497
作品紹介・あらすじ
明治四年、日本最初の女子留学生として渡米した五人の少女たちがいた。六歳の津田梅子をはじめ、山川捨松、永井繁子らが体験した十年余のアメリカ生活とはどのようなものだったのか。そして日本語も忘れて帰国した後、近代化の荒波の中で、彼女たちはどう生き抜いたのか。初の帰国子女としての波瀾万丈の生涯と、女性として果たした偉業を明らかにする。
感想・レビュー・書評
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明治4年に岩倉遣外使節団に同行してアメリカに渡った5人の女子留学生の活躍をまとめたもの。
アメリカの大学で音楽教育を履修し、西洋音楽の理論と実技を習得した永井繁子は、帰国4か月後に文部省直轄の音楽取調掛(後に東京音楽学校を経て、戦後に東京芸術大学音楽学部)のピアノ教師に採用され、明治35年まで勤めた。
明治18年、学習院が宮内省所管になるのを機に宮内省所管の華族女学校が設立されると、大山捨松はその設立準備委員に指名され、津田梅子も教授補として中学科の英語を担当した。
明治22年、梅子は再度渡米し、ブリンマー・カレッジに入学して生物学を専攻し、明治25年に帰国すると華族女学校に復帰した。
明治32年、高等女学校令と私立学校令が公布され、高等女学校の卒業生を受け入れる学校の存在意義が高まった。翌年、梅子は女子英学塾を開校し、捨松は顧問を務めた。アメリカ留学中に捨松が寄宿したベーコン家で、姉妹のように過ごしたアリス・ベーコンも教師を勤めた。
大正8年、2年近く病気が続いていた梅子は塾長を辞任し、捨松はスペイン風邪による肺炎によって死去した。梅子は、兄弟たちがお金を寄せ合って御殿山の高台に建てた新家屋に移った。昭和4年、梅子は鎌倉極楽寺の別荘で脳溢血のため死去した。昭和7年、小平の新校舎落成後、墓所を築いて梅子の遺骨が改葬された。校名は翌年に津田英学塾に替えた後、津田塾専門学校を経て、戦後に津田塾大学となった。
梅子の伝記は、本人の校閲を得た吉川利一によるものが昭和5年に、山崎孝子によるものが昭和37年にそれぞれ上梓されている。1984年、津田塾大学本館の屋根裏の物置で、梅子がランマン夫人に宛てた500通の手紙と、ランマン夫人が梅子に宛てた百数十通の書簡が発見された。1993年に「津田梅子」を著した大庭みな子は、これらの資料をこの場所に収蔵したのはアンナ・ハーツホンであろうと、平田康子が述べたと記している。アンナ・ハーツホンは、昭和15年にアメリカに一時帰国した後、太平洋戦争が始まったため日本に戻る機会を失い、昭和32年に97歳で祖国の地に没した。
1ヶ月ほど前にテレビで放送された「津田梅子ものがたり」を見て興味を持ち、この本を読んだが、さらに関心が強くなった。確か、津田塾大学に彼女を紹介する展示があって、申し込めば見学できると、どこかで読んだ記憶があるが、ネットで調べてもよくわからない。そもそも、これだけの活躍をした人物の一般向けの展示施設がないことが不思議。やがて発行される新札の肖像画に採用されたことで、にわかに脚光を浴びているが、彼女の評価が低すぎるように感じる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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明治4年、岩倉使節団の一員としてアメリカへ留学した5人の少女たちの留学生活とその後の人生。
あの時代に子どもを、しかも嫁入り前の少女を海外へ送り出そうとした人々の強さと先見性に恐れ入る。
アメリカでのびのびと学んできた少女たち(残念ながら、治事情により早々に帰国したものもいたが)だったが、帰国後の生活は苦労があったようだ。彼女たちの存在は、当時の日本にはやはり「早すぎた」のかもしれない。けれども、「早すぎた」彼女たちの存在は、今の日本女性の素地を作る一助となったことは間違いない。 -
1871(明治4)年、岩倉使節団の一員としてアメリカへ留学した5人の女性を紹介した本なのですが、その人生は余計な脚色を加えなくとも十分に物語として成立していて、思わず「リアル朝の連続テレビ小説」と呼びたくなるほどのドラマです。上田悌子、吉益亮子、永井(瓜生)繁子、山川(大山)捨松、津田梅子、彼女たちのそれぞれの生涯は長い時間を経た今もなお、私たちに女性としての生き方を示してくれていると思います。小説作品ではないのに、感動する本でした。
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本書は明治4年(1871年)に行われた「岩倉海外使節団」と共に留学した5人の女子留学生の生涯を詳細に追いかけたものであるが、小説「坂の上の雲」が明治の上昇し続ける空気を描いたと同じような雰囲気を感じる興味深い書であると思った。
明治維新で新たな国を作り出した日本は、国家を上げて西洋文明を学ぶために総勢100人以上の「岩倉海外使節団」を送り出したことは知ってはいたが、その中に6歳から16歳の5人の少女が留学のために参加していたことには驚く。
「女性」の社会的地位が低いこの時代の「留学」が相当な冒険であったことは容易に想像がつく。
「五人の別離とアメリカでの新しい生活」「帰国女子留学生の困惑と苦悩」「捨松の結婚と梅子の孤愁」等の本書の詳細な内容は、明治という時代をよく知ることができる「物語」のように読んで面白かった。
また、「米国派遣を発案したのは誰か」では、「黒田清隆と森有礼」が登場するし、女子留学生「山川捨松」の結婚相手は「大山巌」である。本書の節々に明治期の著名人が登場することは、「明治という時代」を立体的に知ることができる興味深い内容に思えた。
それにしても、明治の少女のたくましさには驚嘆する。わずか6歳や10歳ではるばるアメリカにまで留学し、帰国後も「国家の負担で留学した以上は国家に尽くさなければならない」と苦闘・苦悩する姿は実に美しい。
おそらくこの「時代の雰囲気」が「明治という時代」をつくっていたのだろう。
本書は、「力を振り絞って生きる明治の女性」の姿を知るとともに「明治というひとつの時代」を知ることができる良書であると思う。本書を高く評価したい。 -
今の女子教育は売られてる本をみると相当屈折してる印象をうける。
「誰からも好かれる子に育てる方法」とか「優しく愛される子に育てる方法」とか。
女性はもう自立しなくても良い時代になったみたいだ。津田梅子の時代から何百年たっても日本の女子の根幹は変わらない。ほんとうに不思議だが、それが日本の文化なのかもしれない。
もちろん津田梅子の目指していた「女性の経済的自立」は叶えられている。頑張ればそれだけついてくる時代になったのだから。
でも社会のなかでの女子の立場はつまらないものにとどまってる。そういう社会状況を思い出させてくれる一冊だった。 -
津田梅子については多少の知識はあったものの、他に4名もの留学生が一緒に海を渡っていたとは知りませんでした(2名はすぐに帰国)。その彼女たちも帰国後は、結果的にはそれぞれの役割を果たしたわけですが、そこへ至るまでの各自の葛藤、悩み、紆余曲折。当時の時代背景を考えると読みやすい新書の形では伝えきれないほどのものがあったのだろうと思います。それにしても、こういう質問は愚問なのかもしれませんが、津田梅子さんは女としての幸せを見つけることができたのでしょうか? 女子の本懐は遂げられたと思いますが。
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初めての留学生ということで 日本に帰ってきてからも 初めての道を切り開いていくことを 自分で選んだわけではなく 小さいときに 決められてしまった訳なので 大変だったんだなぁ と しみじみ思いました。