建築のエロティシズム―世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命 (平凡社新書)

著者 :
  • 平凡社
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本棚登録 : 91
感想 : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582856118

作品紹介・あらすじ

一九世紀末から二〇世紀初頭のヴィーンを舞台に、装飾がそこで担った意味の分析を通じて、近代建築のエロティシズムを考察した意欲作。

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、建築家アドルフ・ロースのエッセイ『装飾と犯罪』で論じられている【装飾】という概念が19世紀末から20世紀初頭のヴィーンにおいてどのような意味を担っていたのかという問いを軸にして、世紀転換期ヴィーンの時代精神の一面を描く。考察の対象となる領域は、建築、芸術、精神分析、文学、哲学と多岐にわたっており、この時代のヴィーンで展開された思想潮流の多様さ(或いは混沌状況?)を反映している。主に取り上げられる人物は、ロース、オットー・ヴァーグナー、ヴァイニンガー、フロイト、ココシュカ、ヴィトゲンシュタイン。さらには、カフカ、カール・クラウス、クリムト、シーレ、デュシャン、ルー・ザロメ、ブルーノ・タウトなどの名前も登場する。

    世紀転換期のヴィーンでは、フロイトの精神分析理論に代表されるように、「あらゆる文化現象がセクシュアリティとの葛藤の色を帯び」ている。あらゆる思想が、強迫的な性的欲望の問題によって無意識理に突き動かされているかのようである。そこには、人間存在をその深部から駆動する「性的なるもの」の力が、文化的存在であると同時に動物的でもあるという人間存在の両義性、その不均衡からくる暗い力が、顔をのぞかせているように感じられる。



    本書が明らかにするのは、彼らの思想には、表面的な学説の参照関係があるだけでなく、無意識のうちに同じ論理構造を展開している部分がある、則ち彼らの思想は同型であるということである。そこに世紀転換期ヴィーンの同時代性というものが現れ出ているようで、興味深い。私見では、ロースのダンディズムにおける【装飾】概念と、フロイトのフェティシズム論における【ペニス】概念とは、その論理構造における位置付けという点では、どちらもダダに代表される20世紀アヴァンギャルドが否定しようとした【意味(=存在根拠=価値=当為)】の概念と等価であり、その意味で三者の思想は同型である。つまりこれらの思想は、いづれも【意味】の否定という20世紀のニヒリズムの根本的な志向性を、云わば時代精神として共有していると云えるのではないか。以下、その点を見ていきたい。

    ○ ロースのダンディズムと【装飾】概念

    ロースにおけるダンディズムとは何か。それは、人間の内面/外面を厳格に区別し、内部(欲望や感情など)が外部へと”あからさま”になることを峻拒する美意識であると云える。現代的なダンディは、内部の生々しさが外部へ剥き出しにされ臆面もなく垂れ流されることのないように、常に抑制と規律を自らに課す。ロースは文化を「人間の内面的なものと外面的なものとの間の均衡」と定義しているが、ここには彼のダンディズムの美意識がはっきり現れている。

    では、このダンディズムからなぜ【装飾】は批判されるのか。

    嘗て衣服とは、それを身に着ける者が何者であるかを表象する機能を担っていた。そしてその表象によって、その個人の存在が社会的に可視化され登録され管理された。則ち、社会の一員として主体化=【意味】付けされた。しかも、個人にはそこで刻印された役割以外の在り方が許されなかった。その意味で、個人の本質が外見に剥き出しになっていた。

    しかし、ロースによれば、「現代人は衣服を仮面として用いる。現代人の個性はきわめて強いため、もはや衣服で表わせるものではないのだ」。現代人にとっては「社会において或る固定化された何者かとして在る(べきである)」という社会的主体化の規範に従属して生を送ることは不可能である。現代人の実存は、社会が強要しようとするあらゆる卑小な【意味】付けを峻拒する。あらゆる概念的規定を否定し続け、遂には自己否定へと到る以外に在り得ない無限の否定運動の裡にある。「きわめて強い個性」の現代人は、もはや何者でも在り得ないのだ。よって、個性を衣服で以て殊更に誇示することなどせず、寧ろ外見的には目立った特徴の無い何者でもない存在たろうとする。絶対的な自由を求める実存は一切の【意味】付けを徹底的に拒否すべきなのである。

    よって、現代的な文化においては【装飾】は取り除かれるべきなのである。この点にこそ、20世紀アヴァンギャルドが志向した【意味】の否定に通ずる美意識がある。「文化の進化は実用品から装飾を取り除くことに等しい」と断言するロースの『装飾と犯罪』は、20世紀という時代精神を表現するテクストとして、トリスタン・ツァラの『ダダ宣言』と同時代性を共有していると云えるのではないか。【意味】の否定を志向するダダの美意識は、何者でもあろうとしないダンディズムの美意識と親和的であるのかもしれない。

    「泣くな! 見よ、新しい装飾を生み出すことができないということこそ、まさにわれわれの時代の偉大さをなしているのだ。われわれは装飾を乗り越えたのだ。われわれは無装飾へと突き進んだのだ」

    ここで【装飾】を【意味】と読み替えれば、ほぼ『ダダ宣言』と同じ時代精神が響いていると云っていい。

    最後に【装飾】と【意味】との対応関係を示す点をもうひとつ。【装飾】を志向するフェティシズムの否定が無装飾を志向する新たなフェティシズムに転化するというロースの内なる逆説と、【意味(=規範)】への志向を禁止することがそれ自体新たな【意味(=規範)】として機能してしまうという逆説とは、ともに自己関係的機制の裡にあるという点で同型的である。「無意味への志向」が「無意味という【意味】への志向」へと転化してしまうという逆説は、20世紀の様々な思想において見出されるのではないか。

    ○ フロイトのフェティシズム論と【ペニス】概念

    続いて、フロイトのフェティシズム論における【ペニス】概念について。まずは、フロイト精神分析で論じられるフェティシズムや超自我の発生において【ペニス】がどのように位置付けられているのかを確認しておく。

    幼児はある段階に達すると、男女の解剖学的差異に気づくようになる。男の子は母におけるペニスの不在を知覚する。そして、もし母に【ペニス】が無いとするならばそれはかつては自分と同じように有していた【ペニス】が去勢された結果に違いないと考え、自分も母と同じように去勢されてしまうかもしれないという強い不安に襲われる(去勢コンプレックス)。なぜなら、男の子にとって【ペニス】の喪失は幼児期の自己全能感(ナルシシズム)の喪失を意味することになるから。こうして、男の子は母の【ペニス】の不在という事実を否認しようと大きな心理的エネルギーを注ぐ。その結果、「母は本当は【ペニス】を有している。それが一見不在であるかのように見えるのは、実は別の何かに形を変えているからに過ぎない」と考えるに到る。母の【ペニス】への強い執着はその代理物に引き継がれ、フェティシズムが発生する。

    また男根期と呼ばれるこの時期に、男の子は、母と性的に結合したいという欲望(エディプス・コンプレックス)と、それにより父から去勢されるかもしれないという強烈な不安との間で、葛藤に陥る。この葛藤において、去勢コンプレックスがエディプス・コンプレックスを凌駕し、男の子は自らの【ペニス】を保持するために、母への性的欲望は断念する(エディプス・コンプレックスの崩壊)。この過程を通過して、「母と交わるべからず」という父の禁止命令が超自我として男の子に内面化され、それが規範=法=倫理=良心という観念の原型をなす。

    ではここで、【ペニス】=【意味=存在根拠】という読み替えをしてみるとどうか。このとき、フロイト精神分析で論じられる上述の概念は、次のように解釈できるのではないか。

    ・母の【ペニス】の不在=世界の無【意味=存在根拠】性への予感を惹起させるもの
    ・去勢コンプレックス=【意味=存在根拠】の不在への恐怖、ニヒリズムへの本能的恐怖
    ・フェティシズム=本来は無【意味=存在根拠】である世界において、【意味=存在根拠】の代理物(=フェティッシュ)を求めようとする志向
    ・超自我=無【意味】という無秩序への転落を回避し【意味】という秩序を維持しようとする機能

    このように、フロイトにおける【ペニス】概念は、ロースにおける【装飾=フェティッシュ】概念と同様に、ダダが断固拒否しようとした【意味】という強迫観念と等価物と云えるのではないか。これら三者の思想は互いに同型であり、それぞれ他の二者に則して読み直してみることができるのかもしれない。



    オットー・ヴァイニンガー『性と性格』について一言。そこで展開されるのは、女は性的存在であり、男は性を超越し得る存在であるという、現在でも根強く残っている典型的な性的二分論。

    女→即自的である→対自的でない→自己を対象化できない→抽象化できない(自己の思考や性質を)→普遍化できない→論理・倫理が成立しない→自我・魂が存在しない

    こうして「女は存在しない」という結論にまで到り、性の問題に対して"最終解決"が与えられる。強迫的なまでに性の問題を問い詰めずにはおれなかったこの時代のヴィーンの思潮を象徴しているようにも思われる。

  • さらっと再読。新書なのに癖が強い。とはいえいつもの田中純よりはもちろんさっぱりしていてわかりやすい。もっと濃厚で重厚なロース論など読んでみたい。

  • 新書文庫

  • 世紀末ヴィーンの、機能性、社会性、経済性に逆らう装飾の論理にエロティシズムが宿る。
    この「装飾」の論理が分野横断的に19世紀末から20世紀初頭にかけて検出できるという書き方で進む。

  • 面白い。再読中。

  •  高校生の頃から、オットー・ヴァーグナーが好きで、作品のポスターや写真集などを集めていた。
     
     ということで、結構気になる作品。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科教授

「2022年 『イメージの記憶(イメージのかげ)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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