- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582857238
感想・レビュー・書評
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古典であれ、近代であれ、もちろん、現代にしても、短歌なんてほとんど読むことはないのだけれど、確か春日井健という歌人の弟子で、水原紫苑という、ちょっと幻想的な短歌を詠む人がいるなあ、とか思って過ごしていて、ふと年齢を調べると、自分と大差ないことに驚きました。
わらふ狂女わらはぬ狂女うつくしき滝の左右に髪濡るるかも
白鳥はおのれが白き墓ならむ空ゆく群れに生者死者あり
なんていう作品は「いいなあ」と思ったことがありましたが、ちゃんと読んだわけではありません。
その歌人の「桜論」でした。新古典派らしく、万葉・平安から説き起こし、現代短歌、ひいては、現代歌謡まで、勉強になります。
コロナ騒ぎの中100日で100冊紹介するという遊びを、「#100days100bookcovers」としてフェイスブックでやってますが、そこで紹介した記事をブログにのせてます。覗いていただけると嬉しい。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202011300000/詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読んだ。「桜=美しい」にみられるような固定観念に興味があった。前半部は桜に対する印象の変化を追っており良いが、後半部は推測が多くなり話が逸れてる気がする。でも面白かったです!
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「ぱっと咲いて、ぱっと散る」ことから日本を代表する美意識の代名詞とされ、軍国主義の象徴にもされてきた桜。しかし、ナショナリズムの美学と桜との関係については問題提起にとどめられ、むしろ万葉集からさかのぼって、日本の文学の中で桜が何を象徴するものとして生成してきたのかを探求する、興味深い文学論となっている。
万葉集の当時においてはむしろ呪術性の象徴であり、美意識に関しては梅の脇役でしかなかった桜が、貴族社会の中で最も好んで謳われる主題となっていくことを、水原氏は「美の通貨となる」という言い方をしている。岩井克人氏の貨幣論の言い方を借りれば、桜は、美しいものだと多くの人に思われているからこそ美しくなるというわけだ。
多くの高名な歌人がすぐれた桜の歌を詠んでいるが、この本であらためて目を開かれたのは藤原定家の一連の作品である。桜という小さな窓から足元も定かならぬ世界へと誘い込まれるようなこの作品世界は鳥肌が立ちそうだ。
桜を通した文学ガイドはそれだけでも面白いのだが、水原氏の主眼は、美意識の通貨としての桜を流通させる共同体の欲望の方にある。ナショナリズムのために動員された桜インフレ時代を経て、穂村弘が詠む明るい空虚のバブルめいた桜の光景と、斎藤斎藤や永井祐が詠む荒涼とした桜という空疎な記号、そしてひたすらに優しい欲望を謳いあげる反知性的な桜ソングに、桜が良くも悪くも、たしかにこの社会を表象し続けていることを実感させられる。
ただ、桜を美意識の通貨として流通させる共同体論としては、水原氏の奥ゆかしさのせいなのか、ほのめかす程度にとどめられており、一定の共通した認識を根底にもたないと、一貫した論旨を読みとっていくのは困難かもしれない。ナショナリズムの美意識と桜の問題にしても、「桜ソング」に惹かれて手に取る若い世代もいることを考えれば、もうすこし丁寧に論じてもよかったのではあるまいか。そういう意味では不満が残る。 -
ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ
山部赤人
掲出歌は「新古今集」に収録。宮廷の人はヒマなのだなあ、桜の枝をかざして今日も遊んでいたよ、という歌意だ。
ところが、「万葉集」巻十にもよく似た歌がある「ももしきの大宮人はいとまあれや梅をかざしてここに集へる」。作者未詳だが、万葉集では「梅」だったものが、勅撰【ちょくせん】和歌集である新古今集では「桜」に変わっているのはなぜか。その謎を、大胆な仮説で解き明かしてゆく水原紫苑の新刊書が、たいへん興味深い。
天皇が撰を命じた最初の和歌集は、「古今集」である。当時の公的な文芸は漢詩であり、序文を書いた紀貫之は、漢詩以上の価値をいかに和歌に持たせるか、苦心した。漢詩は現実的だ。それを超える言葉の「呪力」を和歌に盛るには、「桜」の力を援用しよう。そこで、桜の文化が始まったとか。
桜は、古来呪力を持つ樹木だった。名所として吉野山があるが、かつての吉野山は、単に雪の名所だった。ところが、古今集では桜の名所として意味付けられてゆく。紀貫之はじめ名だたる歌人が吉野の桜を詠み、いつしか、桜が美の代表的な表象として定着し、そこに、文化表象としての天皇が重なる、という筋書きらしい。
桜は、本当に美しいものなのだろうか。その美が、王権を中心とする共同体の約束ごとであるとしたら―。近年、若者たちに人気の楽曲の歌詞に、桜が多く登場することも水原紫苑は検証している。今、時代は共同体に回帰する方向に動いているという指摘もあり、はっとさせられる。
(2014年4月20日掲載)-
「桜は、古来呪力を持つ樹木だった。」
桜の艶やかさに、何かを託しているのか、それとも春を体現する花として、梅よりピッタリ来るのか。。。
...「桜は、古来呪力を持つ樹木だった。」
桜の艶やかさに、何かを託しているのか、それとも春を体現する花として、梅よりピッタリ来るのか。。。
フと覗いた路地の隙間から見える満開の桜の華やかさは、一歩踏み出せば違う空間に誘って呉れそうなくらい。神秘的です。2014/04/23
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桜を美しいと感じるのは自然な情緒なのか。そのように刷り込まれただけではないのか。記紀・万葉から、21世紀の「桜ソング」までを考察し、桜が背負わされた人々の欲望の正体を明らかにする。【「TRC MARC」の商品解説】
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奥付を見ると2014年なのでもう6年も読み止しの状態であったのだと驚いた。
購入してすぐ第6章「和泉式部と桜への呪詛」までを読み、第7章「『新古今集』と桜の変容」に入る前に一端本を置き、そのままにしてしまった。それは新古今集、そして西行へと続く部分を読むのが楽しみにとっておきたくなったからだということを思い出した。読んでいたのは夏であった。だから、特に西行の部分は桜の季節になったら読もう、と思ったことを覚えている。そして、そのまま忘れてしまっていた。
どうも、宣長のあたりからページを繰る手が重くなった。つまらない、というよりも、どうでもよい、という感じであった。桜ソングについては、引用された歌詞を目で追うのが辛かった。
自分の興味関心の多寡による感想でしかないことは、レビューを書いている自身でよく分かっている。
小野小町の花は桜なのだな、と改めて思わされた。卒塔婆小町への思いがあるせいだと思うが、小野小町に桜の華やかさはふさわしく感じるが、その衰えに桜のスピード感が合わないように思っていた。小野小町には長雨にゆっくりとくたしていき花のイメージが、私にはある。
桜は西行までの桜、定家からの桜とするか、新古今集と花伝書の間に変化を見るか、考えてみたくなった本であった。 -
思索
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桜の咲き乱れる頃、タイトルにそそられて即買った。
内容や作者のことをもう少し調べてから買えばよかった。
私が期待していた内容と全くズレていて、しかも苦手な文語体で詠まれる短歌がずらり。そう、歌人である作者が問おうとしていたのは歌の中の桜だった。
短歌に興味がないと最後まで読むのはとても辛い。
それでも面白かったのは能の章と春雨物語の章。
桜が本当に美しいのか、その答えはわからないままである。 -
日本の美意識の代名詞ともいえ、戦時中には軍国主義の象徴、平安時代は桜より梅だったような気もするけれども、ある時から日本人はひたすら桜を愛してきた。
なぜ?
日本文学の中で桜は何を象徴してきたのか。
それを現代の歌人が取り上げた文学論。
面白そうだと思って…読んだらまた更新します。