- Amazon.co.jp ・本 (199ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582857726
感想・レビュー・書評
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思うことありて自動車図書館。
「ゴーストライター」という言葉には、なんだか後ろめたいような、声を潜めなければならないような響きがある。
ライターさんの中には、「わたしはゴーストライターです」と普通に言う人もいるけれど、自分自身は、「ゴーストじゃなくて口述筆記でしょ」と思う。
世間一般のたいがいの人は、「自分は文章が書ける」と思っている。だって日本語を話しているし。しかも、昨今はブログが盛んなのでなおさら。
だけど、論理立てて、わかりやすく、面白く、ところどころにヤマを作りつつ、オチもつけて書くのはなみたいていではない。しかもスピードも求められるし。だから、餅は餅屋。
著者は、「チームライティング」と称すべきと言うが、最近は「ブックライター」と呼ぶ動きもある。
p141
「クロイワ氏の経験的には、原稿を起こした時に、「これは自分の言葉ではないけれど面白いね」と喜んでくれる人の本のほうが、書店に流通しても売れるという。」
なぜなら、
「ゴーストライティングの魅力の一つは「著者が知らない自分を発見すること」なのだから、それを許容できるかどうかで、作品の質が変わってきてしまう。
p150
よく人は「この人の人生は一冊の本が書けるくらい面白い」というようなことを言うが、その人の話を聞いて本になると思ったことはあまりない。誰かが「書きたい」ものを本にしてもあまり面白く内。それよりも、多くの人が「読みたい」と思うテーマと著者を見つけることがポイントだ。
矢沢永吉『成り上がり』詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「ゴーストライティング」と呼ばれてきたビジネスモデルは、むしろ「チームライティング」と呼ばれるべきものだと私は考える。世の中に対してかけがえのない価値を持っている著者と、それを構成し内容を研ぎ澄ましてわかりやすく文章化することができるライター、そしてこのチームをしっかり支え、著者の主張を「商品化」することができる編集者。この三人のプロフェッショナルが力を出し合っていけば、唯一無二の価値が生まれる可能性がある。p154-155
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出版界における「ゴーストライター」の実状を当事者としての実体験を中心に明かしている。現実問題として、ゴーストライティングが完全に定着している以上、名義上の著者、編集者、実際のライターから成る「チームライティング」として社会的に認知させ、法的にも明確な位置付けが必要であることを示唆している。
本書では創作におけるゴーストライティングを倫理的に否定しているが(たとえば堀江貴文の「小説」でのゴーストライター使用への批判)、これも実際には過去に例があるし(たとえば川端康成「乙女の港」問題)、漫画やライトノベルなどではしばしば散見できる状況にある。本書の著者が暴露した「佐村河内事件」でも問題になったのは芸術音楽であったからで、匿名の代作が横行しているエンターテイメントであったならば問題にはなっていなかったであろう。どこで線引きするのか、どこまでゴーストライティングを許容するのか、そろそろ明文化しなければならないのではないか。私見では「協力」や「構成」などではなく「共著」として実際の執筆者は明記されるべきだと考えている(山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』が好例である)。 -
ゴーストラーターという存在が必要であることが、
本書では分かる。
矢沢永吉の名作「成り上がり」はコピーライターの
糸井重里がゴーストライターで書いた本。
糸井重里は最初で最後のゴーストライターだったという。
何故、書いたのか、
それは、糸井が矢沢のファンであり、生き方に共感できたから。
そういう関係で書いている本には魂が宿る。
だから、読んでいる人も本当に本人が書いているように読むし、
糸井が書いていたと知っていて読んでいるからいいのだ。
これからも、ゴーストライターからは目が離せない。
内容(「BOOK」データベースより)
出版界において、その存在なしには本づくりが成立しないともいわれる「ゴーストライター」。その実態はいかなるものなのか。佐村河内事件をスクープする一方で、多くの「ゴーストライティング」を手掛けてきた大宅賞作家が知られざる職人技の世界を描く。 -
ゴーストライターの仕事は設計者。そういうイメージはなかったので新鮮だった。また作家のうしろにゴーストライターがいてはいけないというのも納得。