新書875江戸の科学者 (平凡社新書 875)

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  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582858754

感想・レビュー・書評

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  • 〇大河ドラマ関係者、小説家、映画関連の人は、読んだほうがいい。というか読んでください。そして、史実に基づいたストーリーを私たちに。
    〇人選がユニーク
    〇明治から近代化が始まったと思っていたのだけど、江戸の時代に始まっていたんだなとびっくり。
    発明・発見、技術の数々もすごいけど、今も使われている自然科学用語、これらが日本語になっていなければ、近代化のスピードは遅れていたように思った。


    ◎日本近代科学技術の礎を作った十一人の波瀾万丈の人生

    ・江戸科学の興隆、彼らの生き方
    理論や実験を重んじた現代にも通じる江戸の科学者たち。専門分野だけでなく、物理・化学、生物学、天文・地学、芸術・文学と、
    興味のおもむくまま貪欲に知識を吸収した。研究は生活の糧ではなく、好事家として研究を進めるしか無かった。
    江戸のかぶきものたち。

    1:究理の学へ
    ●高橋至時 伊能忠敬を育てた「近代天文学の星」
    天文学者・麻田剛立の元で学び、間重富と改暦作業に取り組み「寛政歴」を完成させる。
    ケプラーの楕円運動論とコペルニクスの地動説を天文書を通して翻訳、師・麻田剛立の正しさ、弟子“推歩先生”の正しさを知る。
    年上の弟子・伊能忠敬の“子午線一度”への探究のために、根回しを行い意見もぶつけ合う。
    〇探究に身を捧げる人たちの激しさ。

    ●志築忠雄 西洋近代科学と初めて対した孤高のニュートン学者
    初めて西洋の科学に対峙する江戸の科学者たちにとって、概念さえもなかった語彙の翻訳作業は言葉の発明作業だった。
    引力や重力という言葉を発明し使いはじめたのが志築忠雄だ。
    「太陽系起源説」
    “鎖国”“植民”という言葉を翻訳作業の中でつくった。
    “コーヒー”という言語の紹介。
    〇この言葉がなければ、西洋科学への理解のスピードは鈍っていたかも。
    〇言葉の鬼。言葉が内包する思想や系譜、全てを知りたかった…イメージ。シャイ。

    ●橋本宗吉 日本電気学の祖
    医師でありながら手妻師。
    「百人赫」←人を集め手を握らせて電気を流した。エレキテル。
    小石元俊との出会い。大坂蘭学会を背負って江戸留学。
    江戸と大坂を結ぶ蘭学ネットワーク
    平賀源内への好奇心
    『エレキテル訳説』←電気学を志す
    弟子・喜久太が天の火を捕まえる
    VS 大塩平八郎・キリシタン嫌いの儒学者
     ←宗教弾圧・学問抑圧
    晩年、天游との交流
    孫弟子・緒方洪庵←日本洋学の発展途上
    〇大塩平八郎の生真面目で清廉潔白であるがゆえの別の一面。
    〇家族や弟子に囲まれての探究の時代は幸せであったろうと思う。

    2:江戸科学のスーパースター
    ●関孝和 江戸の数学を世界レベルにした天才
    円周率の計算、行列式、n次方程式の近似的な解を求める方法の考案、ベルヌーイ数の発見、円理の創始。
    当時の数学書『塵劫記』『算学啓蒙』などで数学に触れる。
    天元術では解けない計算→演弾法
     中国の数学から抜け出し、和算へ。
    数学を解法ではなく、根底の一般論の研究
    天文学、暦学、測量学、機械仕掛けにも関心を持つ
    改暦で渋川春海と競う
    『算額』の風習
    〇クールだけど勝負にも挑む。運が少し無かった。

    ●平賀源内 産業技術社会を先取りした自由人
    非常の人
    博物学者、鉱山技師、電気学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタント、日本初の西洋画家、作家、コピーライター、そして殺人者として獄中死する
    少年の頃「御神酒天神」を制作…お酒を供えると顔が赤くなるからくり
    本草学を学び、長崎へ留学。のち退役し江戸へ
    「薬品会(物産展)」
    杉田玄白との親交
    鉱山、石綿(火浣布)の発見
    エレキテルの修理・復元 ※原理を把握したわけではない
    『解体新書』の絵師の師匠
    田沼意次と源内
    〇科学者というよりは町内の発明家?ただ本来は、商業とかイベント的な方に才能があったっぽい気がする。

    ●宇田川榕菴 シーボルトを敬服させた「近代植物学の父」
    蘭学者、植物学者、化学者、実験化学者。
    シーボルトと榕菴 西洋植物学の最新知識↔日本の植物標本や情報
    義父・玄真は杉田玄白の婿養子だったがヤンチャが過ぎて放り出される。のち、改心、幕府の蕃書御用に任用される
    義父に連れられオランダ商館長ヘンドリック・ズーフ一行との出会い
    実用本位の本草学から、植物そのものを理論的に研究する西洋の植物学に興味を持つ
     …リンネ『自然の体系』植物分類学
    『菩多尼訶経』…お経仕立てでリンネ植物学のエッセンスを紹介
    義父の隠居により、宇田川家を継ぎ蕃書和解御用に任ぜられる
     …大槻父子と宇田川父子で最強の翻訳体制
      ショメール『日用家庭百科辞典』
    シーボルト事件
    『遠西医方名物考補遺』
     …元素、酸素、水素、窒素など「~素」という訳語を使用
      分析、親和、物質、流体、凝固、気化、酸化、還元、溶解、分析などの用語も初
    『植物啓原』全三巻
     …リンネの分類学を例に植物学の体系や方法を述べる
     …花粉、葉柄、気孔、花柱、柱頭、葯など、植物学用語を定着させる
     …訳者自ら観察・実験を行う
     …藩邸の焼失、義父・玄真の逝去、宇田川家の窮乏
    日本初の化学書・江戸期最大の自然科学書
    『舎密開宗』
     …ウィリアム・ヘンリーの化学入門書が底本
     …「舎密(セイミ)」←Chemie の発音シェミーから。しばらく使われたが、のちに“化学”に取って代わられる。
     …ラボアジエ(近代化学の父)の化学理論を体系的に紹介
     …実験・分析に裏づけられた翻訳
     …ボルタの電堆(電池)の製造と水の電気分解実験
    石鹸の製造、日本各地の温泉の分析
    「哥非乙説」コッヒイせつ
     …コーヒー紹介。
     …珈琲も榕菴が考案、蘭和対訳辞典で使用
    『西洋度量考』…オランダの度量衡に使用する単位
    西洋近代音楽の理解者、月琴の演奏者、戯作の稿本
    『大西楽律考』
    「蛮社の獄」…蘭学者の弾圧
          榕菴は逃れる(政治的発言をふだんからしていなかった為)
    〇榕菴先生のことは本書で初めて知った。これはかっこいい。もっと知りたい。
    〇「菩多尼訶経」をラップで聴きたい

    3:過渡期の異才たち
    ●司馬江漢 西洋絵画から近代を覗いた多才の人
    画家(美人画が得意な浮世絵師)であり、蘭学者
    紀州侯のまえで地動説を講じる
    平賀源内との交流…洋風画(蘭画)、蘭学
    エッチングの制作
     …酸や防食剤などの科学知識が必要
    油絵(鑞画)
    西洋画のリアリズムに傾倒する
    「画というものは…写真、つまり真を写していなければならない。」『西洋画談』
    天文地理に興味を持つ
    『輿地全図』…日本初の銅版画による世界地図
    『和蘭天説』…コペルニクスの地動説
    源内ゆずりのからくりの才
     のぞき眼鏡、補聴器。写生用写真鏡。コーヒー挽き。
     広告チラシ。補聴器を耳鏡と名付ける。
    晩年、弟子たちにどの分野でも才で抜かれ、皮肉屋でひねくれた性格が人を寄せ付けなかった。
    それでも、魅力ある江戸の綺羅星の1つである。
    〇興味のおもむくままに自身の探究の道を歩いた。

    ●国友一貫斎 反射望遠鏡をつくった鉄砲鍛冶
    努力の人。独学で、物理学、天文学、化学、博物学、軍学などを修め、技術的見聞を広めるため全国をまわった。
    人々に敬愛され、身分の上下関係なく協力を惜しまれなかった。
    間重新の反射望遠鏡を作った
    からくり細工の江戸を代表する名工
    「彦根事件」
     彦根藩から鉄砲の受注を年寄四家を通さずに承った
     …年寄たちの訴えは退けられ、一貫斎はおとがめ無し
      諸大名から直接受注できるようになった
      ←西洋の文物や情報に接する機会が増える
       ギルドからの解放
    『大小御鉄炮張立製作』…鉄砲製作マニュアル
    風砲(空気砲)の製作※気砲の名を一貫斎は好んだ
    国学者・平田篤胤との交流
    天狗寅吉…天狗の導きで異界と交流したと述べる少年
         『仙境異聞』←一貫斎も国友能当として登場
                様々な問答を交わしている
    オランダ製のグレゴリー式反射望遠鏡との出会い
     ←欲しい!高価すぎ!…からの俺作るわ!
      一貫斎54歳、10年かけての製作に取り組む
      “魔鏡”の製作体験の技術を生かす
      光学原理の理解の深さと研磨技術の高さ
      …当時の西洋の技術を凌駕する
      月の地形・クレーターの凹凸・影、土星の環、木星の縞模様・衛星、太陽黒点の観測
      …彦根城、上田市立博物館に現存
    照明器具の発明
     …玉灯、ねずみ短檠
    他、鋼鉄製の弩弓、距離測定器、懐中筆(万年筆)
    「阿鼻機流大鳥飛術」…羽ばたき飛行機の図面
    「天保の大飢饉」
     …天体望遠鏡を各地の大名に売り払って、村人たちの危難を救う。
      家族を大切にしていた
    子どもの回復祈願の参拝後、仏壇に報告している最中に座したまま亡くなる。
    鉄砲鍛冶でありながら、近代技術の祖であった。
    鉄砲鍛冶は刀工の伝統の上にあった。
    〇こちらも初めて知った。全ての技術も学問も、連綿と積み上げてきた叡智や努力や技術の継承があり、さらに天才を持つ人の一滴があって革新が推し進められていくのだなと感じました。

    4:明治科学をつくった人々
    ●緒方洪庵 医は仁術を実践した名教育者
    徹底した実力主義の適塾。
    素っ裸の塾生たち。
    天游の弟子。
     究理学…西洋科学の根幹。医学の基礎。
         実証精神。
    川本幸民…ライバルで親友
    宇田川玄真…薬学の師
    オランダ人商館長ヨハネス・ニーマン…西洋医学・自然科学の師
    妻・八重
    天然痘との闘い
     …種痘の普及に努めた「除痘館」
    コレラとの闘い
     …初期治療の大切さをとき、医師が立ちむかうべき伝染病と位置づけた。
    奧医師への出仕要請
     適塾塾生を招き、講義を行わせる
     ←東京大学医学部の前身
    日本初の病理学書『病学通論』健康を定義する
    洋学者教育
     …自分のもてる限りの洋学知識を塾生に授けた
     …福沢諭吉に受け継がれる
    「医は仁術」人のために医術を用いる
    〇洪庵せんせい。適塾、おもしろいな。
    〇種痘を広めるための努力、予防接種の現状と似ている。
    〇まず、漢学から。全ての学問に敬意を抱いている。

    ●田中久重 近代技術を開いた江戸の「からくり魂」
    からくり儀右衛門
    「万般の機械考案の依頼に応ず」
    西洋近代技術の開拓者
     佐賀藩の近代化事業:蒸気船、電信機
    見世物小屋でのからくり人形との出会い『機巧図彙』
    「茶酌娘」「雲切り人形」
    「弓曳童子」「文字書き人形」
    15歳のとき、井上伝の依頼:織物機械…絣を織る
    「無尽灯」
    「雲竜水」
    「万年自鳴鐘」和時計の最高峰
    肥後「精錬方」に配属。佐賀藩の技術集団。
     蒸気船を作る「凌風丸」
    久留米藩:近代化事業にも協力する
    明治政府にも召し抱えられる:70歳
     電信国産化
    息子「田中製造所」←東芝の前身
    〇何でも応じますというフットワークの軽さと確かな技術。町工場にこそ、その魂が受け継がれているように思う。

    ●川本幸民 信念の科学者、日本近代化学の父
    「近代化学の開拓者」
    秀才の評判高く、蘭学を学ばせるため藩が全額負担で江戸に留学する
    足立長雋、坪井信道が師
    緒方洪庵との交友
    26歳のとき、酒の席で上役に刃物を向ける
     江戸所払い、蟄居・謹慎
     蟄居中に、蛮社の獄が蘭学仲間たちに降りかかる。
    赦免
     イギリス・アメリカの台頭を浦賀奉行に説く
    『気海観瀾』の増補改訂
     物理学を中心に、化学、動物学、植物学、鉱物学、天文学など幅広い知識を網羅した書
    『遠西奇器術』西洋の先端技術の講義をまとめる
    『兵家須読舎密真源』
     …ドイツの化学書
    『化学の学校』
     …ドイツの化学入門書
    『化学新書』
     …上記に補注を加えたもの
      近代化学の礎となった
      “舎密”から“化学”へ
      「蛋白」「大気」「合成」科学用語
    蕃書調所(のち洋書調書→開成所→東京大学の源流のひとつ)の教授手伝に任命
    のち、教授職、藩士から幕府直参に
    理論だけでなく実践
    ビール造り
    写真術
     銀板写真
     幸民の銀板写真が日本初の写真撮影ではないか?という人もいる。
     湿板写真
     妻と自分の写真を撮る
    薩摩藩に移る
     島津斉彬のもとでの洋化事業
     事前に西洋の軍備や兵器、電信機、写真機、製塩法などの文献の翻訳を依頼される
     薩摩藩「雲行丸」建造
     …西洋の日本植民地化を断念させた?
     集成館事業
     弟子とともに
     電信機製作、写真、製糖、武器製造、蒸気機関、製塩、薩摩切子
     斉彬の死で事業は閉鎖される
    蕃書調書に戻る
    「安政の大獄」井伊直弼
     洋学の冬の時代
     攘夷論者に敵視される
    大政奉還後、三田に戻る
     英語と物理、化学を教える塾を開く
     ※息子の江戸出仕に一緒に上京するが長旅がこたえ、病に伏せる
    学問の探究と人間的な情愛
    ※好きなエピソード※
    ……
    西洋のマッチすごいでしょ!さすがに作れませんでしょ!
    や、仕組みがわかれば作れますよ
    ムリムリ!出来たら50両あげますわ!
    二言はありませんな?
    ←作り上げる。商人、半泣きで支払う。
    ……
    〇バイタリティがある。難しい時代にどの分野も手を抜くことなく駆け抜けた。

  • まえがき
    第一章 究理の学へ
           高橋至時
           志筑忠雄
           橋本宗吉
    第二章 江戸科学のスーパースター
           関孝和
           平賀源内
           宇田川榕菴
    第三章 過渡期の異才たち
           司馬江漢
           国友一貫斎
    第四章 明治科学をつくった人々
           緒方洪庵
           田中久重
           川中幸民
    あとがき
    参考文献

  • 図書館で借りた。
    江戸時代の科学者を11人ほど紹介している伝記もの。
    「江戸時代は鎖国していて、科学が遅れていたと思われているけど、実は世界より凄かったんだぞ!」な本。面白い。

  • 明治以降の発展は江戸時代の科学力に由来するところが大きかったと理解できる一冊。授業や講義では習わなかった人達も出ています。新しい理論を考え出したというより、やっぱり技術的に優れた人が今の日本につながっていると思う。

  • 11人の科学者について書かれている。知っていたのは、高橋至時、関孝和、平賀源内、緒方洪庵の4人だけ。


    江戸時代に、あれだけのことを成していたとは、とても驚きました。現代に比べれば、情報はかなり少なかったのに。

    彼らの情熱、探究心、諦めない心等そういったものもあると思うが、やはり天賦の才能が凡人とは違ったのではないかと思う。

    あと感じたのは、人との出会い、本の効力。

  •  志筑忠雄にとって翻訳とは単なる知識の置き換えや吸収ではなかった。陰陽五行説や気の思想を武器として、異質の思想と対峙したひとつの闘いだった。彼のニュートン力学や粒子論はこの各党の中でかちとられたものだった。
    西洋科学思想の受容というテーマは、本家があちらだけに知の西洋から無知の東洋へという一方的な議論に陥りやすい。受容する側にも独自の思想的伝統があり、自然観や物質観があったことはあまりかえりみられなかった。(p.50)

  • 先人の偉業は大切にしたい

  • 江戸時代の偉大な日本人科学者たち11人を紹介する一冊。本書は11人それぞれが短くまとめられていて読みやすく、入門書的な一冊と言えるでしょう。江戸時代も長崎を窓として中国・西洋の書物が日本に紹介されており、それらを読み解きかつ試し、独自に科学技術を育んでいたで人びとたちの努力があってこそ、明治維新とその後の日本があったということです。全然知らなかった読者には、こんな人びとがいたという知識を得るのには充分な一冊だと思いますが、細かいことはよく分からないし、紹介される人が生き生きと描かれているわけでもない。物足りなければ、広瀬隆の「文明開化は長崎から」を読むのをお薦めします。と言うより、本書を読んで「文明開化は長崎から」を読む方がよいでしょう。後者をいきなり読むのはしんどいので。

  • <目次>
    まえがき
    第1章  究理の学へ
    第2章  江戸科学のスーパースター
    第3章  過渡期の異才たち
    第4章  明治科学をつくった人々

    <内容>
    江戸時代の科学者の苦労とその偉業を読みやすい文章で紹介したもの。もとは学研の「大人の科学.net」連載の記事が元だそう。杉田玄白や平賀源内など有名人もいますが、宇田川榕庵や川本幸民、国友一貫斎など、まずは知らない人も。学校で教える際にもあまり出てこないが、重要な努力や橋渡しをしていたことがわかります。文化史は教えにくいのですが、この辺からまた詳細に伝えられたら、と思います。

  • 726

    伊能孝忠、門仲に住んでたらしい。結構知らない人多かったなあ。海外の科学者の話ばかり読んでたから。関孝和とか伊能忠敬とかは知ってたけど。

    新戸雅章
    1948年、神奈川県生まれ。横浜市立大学文理学部卒。テスラ研究所所長、テスラ記念協会会員。ニコラ・テスラ、チャールズ・バベッジなど、知られざる天才の発掘に情熱を注ぐとともに、その発想を現代にいかす道を探る著作活動を続けている


    高橋至時 たかはし よしとき・・・江戸時代後期の天文学者。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。

    しづき‐ただお【志筑忠雄】・・・江戸中期の蘭学者。本姓中野。号柳圃。長崎生まれ。オランダ通詞志筑家の養子となり、本木良永に天文学を学ぶ。語学力に優れ、「和蘭詞品考」「助字考」の文法書を著したほか、イギリス人ケールの物理学書を解訳して「暦象新書」三編を著し、地動説、ニュートン力学を紹介した。また、ドイツの医学者ケンペルの「日本誌」中から「鎖国論」を訳出した。宝暦一〇~文化三年(一七六〇‐一八〇六)

    橋本宗吉・・・(はしもと そうきち、宝暦13年(1763年) - 天保7年5月1日(1836年6月14日))または橋本 鄭(はしもと てい)[7]は日本の蘭方医、蘭学者である。曇斎(どんさい)、絲漢堂とも号した[8]。医学、天文学、本草学の翻訳を手がけた。また蘭学書を読み解いてエレキテルを自作し、エレキテルおよび数々の実験についての記述を残している。これらの業績より、日本の電気学の学術的研究の祖であるとも評される[5][9][10]。

    平賀源内・・・(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫くにとも[1]、字は子彝しい。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓きゅうけい、俳号の李山りざんや、戯作者としては風来山人ふうらいさんじん[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外ふくうちきがい[1] の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人てんじくろうにん、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内ひんかぜにない[2] などといった別名も使っていた。

    宇田川榕菴・・・(うだがわ ようあん、1798年4月24日(寛政10年3月9日) - 1846年8月13日(弘化3年6月22日)[1])は、津山藩(岡山県津山市)の藩医で蘭学者。名は榕、緑舫とも号した。宇田川榕庵とも表記される。それまで日本になかった植物学、化学等を初めて書物にして紹介した人物である。元服前の14歳の時、江戸詰めの大垣藩医の家から養子に出され藩医となる。宇田川家は蘭学の名門として知られ、養父である宇田川玄真、また玄真の養父である宇田川玄随、榕菴の養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られる。

    司馬江漢・・・(しば こうかん、延享4年〈1747年〉- 文政元年10月21日〈1818年11月19日〉)は、江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木 春重(すずき はるしげ)を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。本名は安藤吉次郎[1]、安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼(しゅんぱろう)[1]、桃言、無言道人、西洋道人と号す。

    緒方洪庵・・・(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

    田中久重・・・(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

    川本幸民・・・(かわもと こうみん、1810年(文化7年) - 1871年7月18日(明治4年6月1日) )は、幕末・明治維新期の医師および蘭学者。名は裕(ゆたか)、号は裕軒(ゆうけん)。父は三田藩侍医の川本周安[1][2]。その業績から、日本化学の祖とも言われる[3][4]。幸民は化学新書をはじめとする科学技術分野の多数の書物を執筆した。専門性を基礎として、白砂糖[注釈 1][5]、マッチ[6][7]、銀板写真[6]の試作をし、日本における技術の発展に貢献した。 幸民は日本で初めてビールを醸造したと推定されている[注釈 2][1][5][3][6]。また当時用いられていた「舎密」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いたことでも知られている[13]。

    「伊能忠敬を育てた男」高橋至時が生まれたのは明和元年(一七六四年)。父は大坂 定番同心、すなわち町奉行の同心だった。至時は一五歳で父を継ぎ、公務のかたわら 子供の時分から興味のあった数学や暦学の研究に励んだ。その後、麻田離立のもとに 弟子入りした。

    大坂に天文暦学の塾「先事館」を開いていた麻田剛立は、わが国天文学の開祖とも 言うべき傑物である。もともと豊後(大分県)柿築藩の藩医で名を綾部妥彰と言った。 幼い頃から星や空に興味を抱いて天文の研究に取り組んだ妥彰は、三〇代後半で研究 に専念するため脱藩を決意した。大坂に出ると名を麻田剛立と改め、町医者を開業し ながら天文研究に励むようになった。

    忠雄の科学以外の訳業に日を向けてみると、一番有名なのは、享和元年(一八〇一 年)に刊行したエンゲルベルト・ケンペルの『鎖国論』(一七二七年)の翻訳だろう。 ケンペルはドイツの博物学者・医師で、元禄時代に来日し、二年間にわたって日本 研究に取り組んだ。帰国後、その体験をもとに日本紹介の書『廻国奇観』(一七一二 年)を刊行した。さらにその死後、遺稿を集めて刊行されたのが『日本誌』で、当時 のヨーロッパで広く愛読された。『鎖国論』はその巻末付録として、当時の日本が とっていた外交政策について論じた一文である。 「鎖国」については明治以降、ほぼ一貫して否定的価値観でとらえられてきたた め、ケンペルの書も鎖国批判の書と誤解されがちである。しかしケンペルの論はそれ とは真逆で、鎖国肯定論であり、「鎖国のすすめ」だった。 彼は幕府がとっている鎖国政策は、決して問違っていないとする。その政策は一般 的には好ましくないが、日本の場合は内外の状況から考えて適切な選択だというので ある。
    外国との交易には戦争や侵略などの危険がともなう。日本には自立した経済とすぐ れた文化があるのだから、あえてそのような危険を冒す必要はない。これがケンペル の論の骨子である。西洋の植民地主義と日本の事情を知悉するケンペルならではの見 識と言えるだろう。

    人と交わるのが苦手な忠雄は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、名利や栄達を求 めず、文字どおり書に埋もれて蘭学の研究に没頭した。他の学者とほとんど交流をも たなかったため、その名が知られるのは遅かった。

    孝和の新しい数学は彼の弟子や理解者からは崇拝されたが、出 る杭は打たれるのたとえもある。その擡を苦々しく思う和算家 たちは、孝和の解法はでたらめで、答えは間違いばかりだと非難 した。また、その業績は中国の数学書の丸写しであり、しかも、 それを他人に知られないよう書籍は焼却してしまったのだと指弾 した。

    た。その理由は、公理から説き起こして、抽象的な思考を厳密に進めるという思考ス タイルが、日本人には適さないからだと言われてきた。また日本ではソロバンが発達 し、計算に重きが置かれたため、数学が理論的に発展しなかったという説もあった。 しかしこれらの議論は偏っているのみならず、前提からして間違っている。 日本には関孝和も、建部賢弘もいた。ほかにも優れた和算家を輩出した。江戸期に は庶民のための数学入門書がベストセラーになり、全国に数学塾が開かれ、西洋とほ ぼ同等の記号による数学が隆盛をきわめた。 日本人は決して数学が嫌いなわけでも、数学的思考が苦手なわけでもなかったので ある。むしろ世界的に見れば、インド人やアラブ人に劣らず数学好きな国民だった。 こうした認識は、今後の数学教育を考えるうえでも大きなヒントになるのではないだ ろうか。

    「非常の人」、源内をあらわすにこれほどふさわしい呼び名はなかっただろう。 博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプラン ナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説 『風流志遣報伝』や人気戯作『秘霊矢日渡』の作者であり、「本日型の日」で知られる日本最初のコピーライターでもあった。

    私生活では生涯妻をとらなかった。当代一の文化人で、人気者。肖像画を見るかぎ り、顔立ちも悪くない。とくれば、女性が放っておかないはずだが、なぜ独り身を通 したのか。理由ははっきりしないが、一説には男色家だったからだという。男色を提 供する陰間紫屋のガイドブック『男色細見』などを著わしていることや、歌舞伎役者 を愛人にしたのがその証拠とされている。そう言えば同じ独身者のレオナルド・ダ・ヴィンチにも男色家説があり、その性癖 と創造性が結びつけられて論じられることがよくある。さては源内先生も、と言いた いところだが、その詮索は本書の任ではないだろう。

    「なに、わからない世間が悪いのさ」 そう信じて不思議でない才能であり、活躍ぶりだった。しかしエレキテルの製作を手伝っていた者を偽造で訴えだしたあたりから、時代の寵児もどうも世の中とかみ合わなくなってきた。 やることなすことボタンの掛け違え。それを見て、一時はあれほどもてはやしていた世問も、大風呂敷、山師とそ しる始末。さすがの源内も己の才能に対する満々たる自信と現実の落差に苛立つことが増えていった。それに例用 「仕官御構」がきいて、仕官もかなわない身では、金銭的な苦労も多かった。 彼の人生の不幸な結末も、そんな鬱積が引き金になったのだろうか。 常に新奇なものを求めて、日本全国をかけめぐった時代の寵児を、天は畳の上で死なせてはくれなかった。

    安永八年(一七七九年)一一月、源内は奉行所に白ら出頭し、驚くべき申し立てを行った。酒の上のあやまちから 人を斬り殺したというのである。この頃の源内は、江戸で知らない者がないほどの有名人だった。その名士が引き起 こした殺人事件は、江戸市中を騒然とさせた。 この大事件の詳細については、斬った相手も、動機にも不明な点が多い。 ある資料によれば、斬ったのはさる大名の庭に関する普請を請け負った町人だという。町人から相談を受けた源内 は、自分なら費用を大幅に圧縮できると豪語し、その話し合いのために役人も交えて源内宅で酒宴をもうけた。 町人と源内は最後まで飲み明かし、泥酔してそのまま寝てしまった。翌朝、設計や見積りの書類がないのに気づいた源内が、町人に盗みの嫌疑をかけ、口論の末、かっとなって斬りかかったというのである。 今のところこれが有力視されているが、異なる資料もあって、それ以上くわしいことはわかっていない。 白首から一カ月後、源内は小伝馬町の牢内で獄中死した。死因についても不明の点が多い。牢内で患った破傷風に よる病死という説が有力だが、絶食して餓死したとかの説もあって定まっていない。いずれにしても、鬼面人を驚か す非常の人は、最期まで世間を驚かせ続けて世を去ったのだった。

    江漢の洋風画への関心は、蘭学への情熱と重なっていた。西洋の知識を吸収してい くうちに、ますます洋風画の魅力に惹かれた江漢は、ついに自ら腐食銅版画(エッチン グ)の製作に着手することにした。

    酒づくりには化学知識の結品という側面がある。酵母、酵素、アルコール、発酵技 術⋯⋯。幸民のチャレンジにはこうしたビールに対する化学的興味に加えて、未知の 酒を試したいという酒好きの性もあったかもしれない。数カ月かけてようやく醸造に 成功した幸民は、蘭学者を招いて盛大な試飲会を開催したというわけである。 西洋の酒をつくって皆で飲む。それはまさに西洋を飲みほす洋学者の気概を示すよ うだった。この試醸によって幸民はビール醸造の始祖という栄誉も担うことになっ その化学知識を活かして、彼がもうひとつ挑んだのが写真術である。 一八三九年、フランスの画家ルイ・ジャック・ダゲールは保存可能な写真を発明 し、「ダゲレオタイプ」と名づけた。これが写真術の始まりとされている。

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著者プロフィール

1948年、神奈川県生まれ。横浜市立大学文理学部卒。テスラ研究所所長、テスラ記念協会会員。ニコラ・テスラ、チャールズ・バベッジなど、知られざる天才の発掘に情熱を注ぐとともに、その発想を現代にいかす道を探る著作活動を続けている。主著に 『発明超人ニコラ・テスラ』ちくま文庫、『ニコラ・テスラ未来伝説』マガジンハウス、『逆立ちしたフランケンシュタイン - 科学仕掛けの神秘主義』筑摩書房、『知られざる天才 ニコラ・テスラ - エジソンが恐れた発明家』平凡社新書、『江戸の科学者 -西洋に挑んだ異才列伝 』平凡社新書、他多数。

「2019年 『天才ニコラ・テスラのことば』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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