聖と俗: 宗教的なるものの本質について (叢書・ウニベルシタス)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (273ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588000140

作品紹介・あらすじ

聖なるものの現象形態全般と,その中での宗教的人間の生存状況,精神的宇宙をあざやかに照射しつつ,俗化した現代社会における我々の在りかたに疑問をなげかける。

感想・レビュー・書評

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  • 原始宗教の起源。祭りの普遍性・永遠性が分かる。場所に宿る神々ととどまる時間。
    日本の祭り、八百万の神といったことが、分かりかけてきた。


    聖なる空間と世界の浄化

    聖なるものの対象としての、俗なる体験
    起源の、時の再発見=永遠の時間=カオス
    現れる
    存在する BE
    力が宿る Power
    降臨する Ideal
    神の存在するところ、完全な世界に生きたい⇒楽園への郷愁


    (存在、人の時間
    ものの存在以前に時間は存在しない
    人は神の模倣に則ることでのみ真の人間になる
    (=神話の教え)

    (農耕
    収穫によってのみ正当化された俗なる行為
    利益と収穫物を引出すため
    聖秩序の起訴的変化
    性、産出力、女性と大地、生活と密接、動的、手の届く
    時間(tempus)―(時空)寺院(templum

    神の行為
    (生き続ける
    へそ、中心に創建、巨大、四方へ
    神話の出来事の記憶=創造力がもつ(個人の記憶は役割をもたず)
    ⇒従わないと、原初の出来事を忘却した罪を負う。
    存在示現と聖体示現
    (自然崇拝vs超自然(神聖
    世界は実在と、現にそこにある=コスモス、リズム、生命
    時間(tempus)―(時空)寺院(templum

    寺院
    現実的な存在(宗教人も)
    聖なる空間の原初体験に帰着
    世界は聖なる世界として啓示された

    祭り
    聖なる時間は減点に戻り、共有(感覚的に)が可能である
    (時間軸⇒過去に向かって時間が⇒戻る進む)
    聖なる、逆転可能=聖(性)なる出来事
    再現された神話(祝祭)
    ⇒浄化=遺伝、子孫???
    宗教的な時間軸(終わりを持つ
    ⇒祭りのとき
    別な時間軸
    ※キリスト教、AD以前の時間は存在しない。
    輪廻、永劫回帰、円環周期
    ユダヤ教…時間は初めと終わりも円環でない、死に至る。

    原初宗教において最高存在≒閑なる神=最期の頼みにカレを呼ぶ

    宇宙構造⇒
    ⇒天神の記憶保持(宗教的)=象徴-意識して全体を理解されなくなる⇒世界は透いて見えるもの
    ⇒天の神聖、消失

    水の象徴⇒死と再生⇒Terra Mater 母なる大地(大地の神聖性

    宇宙の木(ゲルマン
    生命の木(メソポタミア
    不死の木(アジア、旧約聖書
    知恵の木(旧約聖書
    青春の木(メソポタミア、インド

    神は所有する
    少数の特権者=受難、半神
    怪獣に護られた実を摘む⇒加入試験

    自然≒感情
    <盆山>という宇宙
    海-水
    山-蓬莱
    道教⇒仙人
    狭き門⇒洞窟
    vs
    月の持つ、宗教的価値

    一つの実存から他の実存へ移行
    人間は生以前から生へ⇒そして死
    人間は生まれただけでは、まだ、完全ではない
    2度目に精神的出生せなばならない
    ⇒通過儀礼

    加入式の現象学
    三種の宝持を含む 聖、死、性
    秘密結社
    男⇒すべてが所属するわけではない
    女⇒初潮、隔離…分娩
    象徴の理解
    宇宙的なものを、生きることができる

    宗教学者
    神学、心理学、哲学

    • だいさん
      http://www.evernote.com/shard/s37/sh/3759590e-055a-44ab-858d-9d42c1a4e...
      http://www.evernote.com/shard/s37/sh/3759590e-055a-44ab-858d-9d42c1a4ef0a/3159f304d358eff3a9cf569f15ee6f39
      2014/07/21
  • 「聖なるものは実在そのものであり、同時に威力であり、造成力であり、生命と繁殖の源である。」
    という一節が、栗本慎一郎さんの「経済人類学」の貨幣論を扱った第9章の扉に引用してあって、なんか痺れてしまってどうしても読みたくなった。これが古本屋で見つかるから不思議なものである。

    この本に出て来る「宗教的人間」は現代の宗教にハマってる人とはチョット違うかも知れない。
    ギリシャの神々やキリスト以前のもっと原始的な宗教が身体に沁み入っている人たちを想定しているような気がする。
    概念化された宇宙ではなくて身体が直接繋がっているような…神話が描き出す宇宙。内田樹さんが女は出産、男は武道で宇宙に通じるというような宇宙に繋がっている人たち。橋本治さんが「人はなぜ美しいがわかるのか」で書かれていたアスファルトの上のキラキラを見つけられる人。

    生き活きとした秩序ある宇宙が目の前に広がることの素晴らしさ。さまざまな聖礼(サクラメント)につつまれる。僕らはほとんど忘れかけているのではあるが、まだこの身体のどこかにそれを記憶している。

  • コンパクトながら極めて重要な視座と豊富な事例が盛り込まれている古典的名著。エリアーデからいかなる理論的ヒントを抽出できるかも今後の課題。特にヨガ研究において。

  • あれこれ言っているのだが、要約すればすこぶる単純な印象である。そもそも、我々の原初を見出していけば、やはり、「神々の世界」へと辿り着くこととなる。それは近代の我々が見出すというよりは、我々の祖先が見出していたもの、としてである。早い話が、どんどん遡っていけば、原始的な人間になる。それ以上は遡れないが、原始的な人間は、自分たちよりも前は、「神々の世界」だと考えた。ということは、原初の人間は、神話に従って、あるいはそれを「模倣」する形でものをつくった。早い話が家である。家とは、神の身体ではないか?そして、だからこそ、中心がある。中心があるということは、その空間は均質ではないし、だからこそ聖なる空間である。もっと言えば、そもそも、人間自体が神の模倣によってつくられたものであるではないか?かくして、我々とは、元来が、<宗教的存在>であり、「聖的存在」なのである。

    だが、今や、家は中心を失い、ただの均質な空間と成り果てている。人間は神の模倣ではなくて、神とは後付で考えられた存在でしかない、とすら考えられる(この考え方への批判みたいなのをエリアーデにききたいのだけれども。エリアーデはだからこそ人間とは神聖なる存在だとでも言ってとんちんかんな会話にでもなるのだろうか?)。ただ、今現在も、「通過儀礼」なるものがあることからも見受けられるように、我々は<非宗教的存在>となりつつあったとしても、なりきれてはいない。早い話が、名残があるからである。だが、名残が有るということは我々がかつては宗教的存在であったことの傍証となる。そして、今はその名残がどこに眠っているのかと言えば、「無意識」である。

    といった具合に、ニーチェ・フロイト以降の近代思想・哲学観の非常にありふれた形がここにおいても示されている。まあ、無意識へと宗教性を追いやったのか?あるいは、無意識に見出しのか?という違いはあるだろうけれども。ともかく書かれていることは非常にたいしたことはないが、フロイト・ユングを学ぶ上では参考になることも多々記されている。宗教的象徴解釈などである。とはいっても、ほぼ「死」と「生」、更にはその間の繋ぎとも言える「移行」によって語られつくしてしまう形となる。ただ、個人的に気になったのは、「幾何」との関係性である。幾何=神の領域とも考えられていたはずであるが、不均質=神の領域だとすれば、幾何の対象性=完全性という考え方はまるまる否定されてしまうのではないか?まあ、幾何=哲学的神聖、不均質=宗教的神聖なのか?とはいえ、幾何とはつまり厳密な幾何は実在しないというところを考えれば、現実のほうが不均質で、均質が存在することのほうが神的空間に思われるのだけれども、そのあたりどうでしょう?

  • ミンハさん推奨

  • わりと一貫して書かれてるので読みやすい。
    永遠回帰の神話とくらべて章だてがしっかりしてない、ような気がする。

  • エリアーデは宗教現象の根本を聖なるものが人間に現れる事とし、そのヒエロファニーの体験によって、人間は自らを宗教的な世界の中に置くとする。
    本書の構成としては、第一章において聖なる空間の体験が、第二章において聖なる時間の体験、第三章において自然物・自然現象との聖なる体験、第四章において人間生活の諸相・諸段階における聖なるものに関わる経験すなわち宗教的儀礼が論じられる。
    聖なる空間の体験と聖なる時間の体験について論じられるのは、宗教現象がこの世において即ち空間と時間の中で体験されるものだという事だと言えよう。聖なる空間の体験によって世界が創建されると言われるのは、ヒエロファニーによって、聖なるものに出会った人間はそれを中心とする秩序ある世界の中にその身を置き、自らを位置付ける事が出来るという事である。

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著者プロフィール

1907年、ルーマニア、ブカレストに生まれる。1928年より3年間、インドに滞在し、ヨーガやタントラを学ぶ。帰国後は、ブカレスト大学で形而上学史などを教える一方で、小説『マイトレイ』を発表し、小説家としても高い評価を得る。第二次世界大戦中は、ロンドン、次いでリスボンでルーマニア公使館の文化担当官として勤務した。第二次世界大戦終結後はフランスに亡命。『宗教学概論』や『永遠回帰の神話』を発表することで、宗教学者として活躍した。1957年よりシカゴ大学に招聘され、翌年、宗教学教授に就任。1986年にシカゴで没。

「2015年 『エリアーデ=クリアーヌ往復書簡 1972-1986』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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