写真論―その社会的効用 (叢書・ウニベルシタス)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (413ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588002908

作品紹介・あらすじ

《写真を実践すること》の多様性・曖昧さ・流動性に着目しこれらの現象を多面から調査・分析。様々な階層・集団間の行動・文化の体系を明らかにした写真の社会学。

感想・レビュー・書評

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  • 【目次】

    序論
      写真実践の研究と、撮影された写真の意義の研究は、人間の諸行為の客観的規則性と、それらの諸行為の体験とを全的内包においてとらえることを目指す同窓敵方法を作動させる恰好の場である。


    第一部
     第一章 統一への親交と培われた差異
      写真の「必要性」の普遍性から写真実践を説明しようとすることには十分な理由がある。
      Ⅰ. 統合の指標であり手段たる写真
        写真実践は、祝典の儀式として統合の機能を持つと同時に、家族の統合の関数でもある。
      Ⅱ. 実践の機会と、機会に順応した実践
        写真実践は、家族との関わりによって規定されているので、普段は家族生活の特別の瞬間に結びついている。そして、このことはその機能とは矛盾しないのだが、それを規定する諸々の場から自由になり自律的活動となることができない。
      Ⅲ. 狂信家それとも異端?
        家族との関わりから自由になった写真実践は、家族の中に統合されている度合いの最も少ない人達において見られ、しばしば常軌逸脱の表現形態をとって表れる。こうした写真実践は、実践の質や強度を悪社会階級について決定している規範の拒否によって定義されることが最も多い。  
      Ⅳ. 階級の区別と区別された(上流)階級
        他の文化活動と異なり、写真はその暴露性ゆえに値打ちが下がっている。その結果、この活動に対する各社会階級の態度は、差異のための差異の探求としてのスノビズムの理論に従うことになる。

     第二章 写真の社会的定義
      Ⅰ. 芸術を模範する一種の芸術
        現実を写した写真を現実的なものと思わせるのは素朴派レアリスムだけである。そうした写真が客観的と見えるとすれば、それはその写真の社会的使用法を定義する諸規則が、客観性を社会的に定義することに適しているからである。
      Ⅱ. 「粗野な趣味」
        写真作品において、あるいは写真について、表明される大衆的美学はカント美学の裏返しである。この美学は常に、写真の制作とその使用法、そして写真そのものを、社会的機能に従わしめる。
      Ⅲ. 正当性の序列
        写真が喚起する態度の多様性は写真というものが、通俗的な活動ち高貴な活動の間に位置しているという事実によって説明される。


    第二部
     写真の利用者大衆は、その行為において写真の写真的真実というものをそれと理解することなく実現しているのだが、その一方、ここで研究されるグループは、写真の社会的定義への素朴な執着とはいずれも縁を切っている。そうした社会的定義は、それを虫しようとする説きあるいはそれを利用しようとするときほどよく思い出されることはない。

     第一章
      写真の利用者大衆は、その行為において写真の社会的事実というものをそれと理解するおとなく実現しているのだが、その一方、ここで研究されるグループは、写真の社会的定義への素朴な執着とはいずれも縁を切っている。そうした社会的定義は、それを無視しようとする時あるいはそれを利用しようとする時ほどよく思い出されることはない。
      Ⅰ. 限界へのいらだち
        伝統的芸術のモデル(ならびに、その利用を独占しようとしているグループ)によって支配されている社会においては、フォト・倶楽部の活動は絵画を準拠として考えられている。とはいえ、写真活動を鼓舞しているのは、絵画を真似ようとする試みよりもむしろ絵画の果たす社会的機能イメージに比肩するものいんあろうとする努力である。
      Ⅱ. 技巧の忍耐
        より大衆的な会員を募っている倶楽部では、技術的な正当性のために絵画への準拠はかすんでしまう。写真がそうした倶楽部ではそれゆえにより自己目的的であるということではない。とはいえ、カメラとその操作とをかくも素直に受け入れることは、「機会芸術」に売り込みを図っていた、文化に関する古い態度を復活させるのではないかと自問することも可能である。

     第二章
      現実の出来事を証言し、それを報道機関を通じて伝えるために写真を利用することは、写真活動の社会的定義にかなっているように思われる。
      Ⅰ. 定期刊行物とスナップ写真
        フランス・ソワール紙の写真家たちは出来事が起こりつつあるところを撮ること、「客観的な」写真を創作することを心がけている。「パリ・マッチ」誌の写真家達にとっては、写真は「総合的」かつ「象徴的」なものでなければならない。したがって彼らは、現場で撮られた写真の代わりに、後になって再構成された場面で満足する。そうした場面をわざわざ作り出すことさえしばしばある。そこに象徴を出現させるのがより容易だからである。
      Ⅱ. 暗黙と省略
        「フランス・ソワール」紙と「パリ・マッチ」誌の第一の違いは、その刊行周期である。新聞や雑誌の刊行期と報道される出来事とを隔てている時間的距離は相対的な値で測らねばならない。「パリ・マッチ」誌で使われている象徴体系は、何よりも省略法である。
      Ⅲ. 客観性の誇示
        新聞雑誌に特有の条件を課せれているために、構成された写真が自ら演出された写真であることを明らかにするとは決してない。ぼかしは日刊紙の写真の主要な特徴だが、それはぼかしがその写真の正真性の保障となるからである。

     第三章 だまし絵と見せかけ
      写真術と広告写真という、二重の研究対象をまえにして、いかにしてそれらの統一された意味作用を見出せばよいのだろうか。
      Ⅰ. 妥協のジャンル
        工業写真のジャンルと芸術斜視のジャンルの間で、広告写真は自らの独自性を見出すのに幾分の苦労を感じている。実践的には様々の分野にわたるヴァリエーションが可能だが、ひとつの作品の中に写真のレアリスムと広告の暗示性とを同居させるという至上命令に従わねばならない。
      Ⅱ. 二重の働き
        広告は、そこにしのばせたある意図w現実的なものと認めてもらうために、写真の享受するレアリスムへの信用性を利用する。こうした二重の働きは。すべての広告に明らかに見られるものだが、言葉による標語は、常に表象的なものでなければならない図に比べて、より自由なレトリックを許すものである。
      Ⅲ. コード化されたメッセージ
        広告写真は、潜在意識への浸透によりは、広告を見る人たちに入手可能でしかも社会的に「ふさわしい」あるイメージを提要することに、その効果の基礎を置き、高度に寓意的な機能を果たしている

     第四章 機械仕掛けの芸術、野蛮な芸術
      Ⅰ. 例外的な状況と決まり文句
        美学的理論と討議の豊富さは、同じ問題が繰りかえしてだされること、解答が画一的であることを通じて、写真的定義に対して反対する意識の根強さを暴露している。
      Ⅱ. 不確かな創作と確固たる美学
        写真を撮る機会は断続的かつ選択的だという認識が創作の曖昧さをゆるしているために、芸術的意図は常に疑問視され、自動機械によるおしつけへの服従と自然によって的された作品への従順さとしてあらわれてくる。こうした意図は、厳格かつ気ままな規則と禁止事項との体系を宣言することによって明らかになるのである。
      Ⅲ. 美の記憶と社会的帰属
        写真というものは対象の価値を等級づける定義を美学の伝統に求めることに対して躊躇するものだkが、この範疇に束縛されて、写真の美学者たちは、これらの伝統の権化たるグループとのつながりによって、まず自らを特徴づけようとする。

     第五章 技巧のある人と身分のある人
      写真家たちは、かれらの職業の統合力の弱さを強調する。写真家という職業につくまえにどんな期待を抱いていたか、またついてしまったあとにそれがどれだけ残っているかを分析することにより、この職業の統合力の弱さの理由をたずねることができる。
      Ⅰ. 職上の期待と職業写真家たちの期待
        自らの活動に関する写真家達の態度が多様であるために、この職業における客観的諸条件の多様さが結局のところ覆い隠されてしまうことになる。この職業はそれ自身が、社会的出自に結びついた様々な差異の持続に執着している。
      Ⅱ. すぐれたやり方──写真家と成功
        写真における成功が、高い価値を与えられた諸々の対象の撮影や特権的階級との接触などに結びついているために、職業上の種々の状況に対する各社会的出自の行動様式を把握することは、「流儀」や「階級」つまり再考の意味での社会的遺産に入れたときはじめて可能になる。


    結論
     写真の社会的用途をその多様性において分析してみてはじめて、そうした種々の用途の可能な心理的条件という問題をはっきりと提出することができる。
      Ⅰ. 過剰充当された象徴
       写真が受けいれられたやり方を見ると、写真というものが中立の対象物となることなく非常に様々な意味作用を受容し得ることがわある。法そのものが写真に関する不安と二律背反を証拠立てている。
     Ⅱ. 潜在的幻想と顕在的画像
       写真は無意識の幻想の活動に支えを与えることができるように見える。しかし病理学上の象徴と写真の象徴とは同じ水準にはない。写真の画像は無意識に道を開くといういうよりは、前-意識の合理化の口実である。
     Ⅲ. 悪魔祓いと昇華
       写真の対象物の高度な構造化とその意識的な準-飽和状態は、その対象物を精神病の停滞へと導くよりは、むしろ夢と唯美主義の純化された領域へとつれてゆく。対象物はこのようにして、社会的機能をひき受け。主観的生活の制御と訓練のための仲介的象徴体系を提供することができるのである。


    使用された研究資料の年度別一覧
    付録
    原注
    訳者あとがき
    索引

    *****

  • 【目次】

    序論
      写真実践の研究と、撮影された写真の意義の研究は、人間の諸行為の客観的規則性と、それらの諸行為の体験とを全的内包においてとらえることを目指す同窓敵方法を作動させる恰好の場である。


    第一部
     第一章 統一への親交と培われた差異
      写真の「必要性」の普遍性から写真実践を説明しようとすることには十分な理由がある。
      ?. 統合の指標であり手段たる写真
        写真実践は、祝典の儀式として統合の機能を持つと同時に、家族の統合の関数でもある。
      ?. 実践の機会と、機会に順応した実践
        写真実践は、家族との関わりによって規定されているので、普段は家族生活の特別の瞬間に結びついている。そして、このことはその機能とは矛盾しないのだが、それを規定する諸々の場から自由になり自律的活動となることができない。
      ?. 狂信家それとも異端?
        家族との関わりから自由になった写真実践は、家族の中に統合されている度合いの最も少ない人達において見られ、しばしば常軌逸脱の表現形態をとって表れる。こうした写真実践は、実践の質や強度を悪社会階級について決定している規範の拒否によって定義されることが最も多い。  
      ?. 階級の区別と区別された(上流)階級
        他の文化活動と異なり、写真はその暴露性ゆえに値打ちが下がっている。その結果、この活動に対する各社会階級の態度は、差異のための差異の探求としてのスノビズムの理論に従うことになる。

     第二章 写真の社会的定義
      ?. 芸術を模範する一種の芸術
        現実を写した写真を現実的なものと思わせるのは素朴派レアリスムだけである。そうした写真が客観的と見えるとすれば、それはその写真の社会的使用法を定義する諸規則が、客観性を社会的に定義することに適しているからである。
      ?. 「粗野な趣味」
        写真作品において、あるいは写真について、表明される大衆的美学はカント美学の裏返しである。この美学は常に、写真の制作とその使用法、そして写真そのものを、社会的機能に従わしめる。
      ?. 正当性の序列
        写真が喚起する態度の多様性は写真というものが、通俗的な活動ち高貴な活動の間に位置しているという事実によって説明される。


    第二部
     写真の利用者大衆は、その行為において写真の写真的真実というものをそれと理解することなく実現しているのだが、その一方、ここで研究されるグループは、写真の社会的定義への素朴な執着とはいずれも縁を切っている。そうした社会的定義は、それを虫しようとする説きあるいはそれを利用しようとするときほどよく思い出されることはない。

     第一章
      写真の利用者大衆は、その行為において写真の社会的事実というものをそれと理解するおとなく実現しているのだが、その一方、ここで研究されるグループは、写真の社会的定義への素朴な執着とはいずれも縁を切っている。そうした社会的定義は、それを無視しようとする時あるいはそれを利用しようとする時ほどよく思い出されることはない。
      ?. 限界へのいらだち
        伝統的芸術のモデル(ならびに、その利用を独占しようとしているグループ)によって支配されている社会においては、フォト・倶楽部の活動は絵画を準拠として考えられている。とはいえ、写真活動を鼓舞しているのは、絵画を真似ようとする試みよりもむしろ絵画の果たす社会的機能イメージに比肩するものいんあろうとする努力である。
      ?. 技巧の忍耐
        より大衆的な会員を募っている倶楽部では、技術的な正当性のために絵画への準拠はかすんでしまう。写真がそうした倶楽部ではそれゆえにより自己目的的であるということではない。とはいえ、カメラとその操作とをかくも素直に受け入れることは、「機会芸術」に売り込みを図っていた、文化に関する古い態度を復活させるのではないかと自問することも可能である。

     第二章
      現実の出来事を証言し、それを報道機関を通じて伝えるために写真を利用することは、写真活動の社会的定義にかなっているように思われる。
      ?. 定期刊行物とスナップ写真
        フランス・ソワール紙の写真家たちは出来事が起こりつつあるところを撮ること、「客観的な」写真を創作することを心がけている。「パリ・マッチ」誌の写真家達にとっては、写真は「総合的」かつ「象徴的」なものでなければならない。したがって彼らは、現場で撮られた写真の代わりに、後になって再構成された場面で満足する。そうした場面をわざわざ作り出すことさえしばしばある。そこに象徴を出現させるのがより容易だからである。
      ?. 暗黙と省略
        「フランス・ソワール」紙と「パリ・マッチ」誌の第一の違いは、その刊行周期である。新聞や雑誌の刊行期と報道される出来事とを隔てている時間的距離は相対的な値で測らねばならない。「パリ・マッチ」誌で使われている象徴体系は、何よりも省略法である。
      ?. 客観性の誇示
        新聞雑誌に特有の条件を課せれているために、構成された写真が自ら演出された写真であることを明らかにするとは決してない。ぼかしは日刊紙の写真の主要な特徴だが、それはぼかしがその写真の正真性の保障となるからである。

     第三章 だまし絵と見せかけ
      写真術と広告写真という、二重の研究対象をまえにして、いかにしてそれらの統一された意味作用を見出せばよいのだろうか。
      ?. 妥協のジャンル
        工業写真のジャンルと芸術斜視のジャンルの間で、広告写真は自らの独自性を見出すのに幾分の苦労を感じている。実践的には様々の分野にわたるヴァリエーションが可能だが、ひとつの作品の中に写真のレアリスムと広告の暗示性とを同居させるという至上命令に従わねばならない。
      ?. 二重の働き
        広告は、そこにしのばせたある意図w現実的なものと認めてもらうために、写真の享受するレアリスムへの信用性を利用する。こうした二重の働きは。すべての広告に明らかに見られるものだが、言葉による標語は、常に表象的なものでなければならない図に比べて、より自由なレトリックを許すものである。
      ?. コード化されたメッセージ
        広告写真は、潜在意識への浸透によりは、広告を見る人たちに入手可能でしかも社会的に「ふさわしい」あるイメージを提要することに、その効果の基礎を置き、高度に寓意的な機能を果たしている

     第四章 機械仕掛けの芸術、野蛮な芸術
      ?. 例外的な状況と決まり文句
        美学的理論と討議の豊富さは、同じ問題が繰りかえしてだされること、解答が画一的であることを通じて、写真的定義に対して反対する意識の根強さを暴露している。
      ?. 不確かな創作と確固たる美学
        写真を撮る機会は断続的かつ選択的だという認識が創作の曖昧さをゆるしているために、芸術的意図は常に疑問視され、自動機械によるおしつけへの服従と自然によって的された作品への従順さとしてあらわれてくる。こうした意図は、厳格かつ気ままな規則と禁止事項との体系を宣言することによって明らかになるのである。
      ?. 美の記憶と社会的帰属
        写真というものは対象の価値を等級づける定義を美学の伝統に求めることに対して躊躇するものだkが、この範疇に束縛されて、写真の美学者たちは、これらの伝統の権化たるグループとのつながりによって、まず自らを特徴づけようとする。

     第五章 技巧のある人と身分のある人
      写真家たちは、かれらの職業の統合力の弱さを強調する。写真家という職業につくまえにどんな期待を抱いていたか、またついてしまったあとにそれがどれだけ残っているかを分析することにより、この職業の統合力の弱さの理由をたずねることができる。
      ?. 職上の期待と職業写真家たちの期待
        自らの活動に関する写真家達の態度が多様であるために、この職業における客観的諸条件の多様さが結局のところ覆い隠されてしまうことになる。この職業はそれ自身が、社会的出自に結びついた様々な差異の持続に執着している。
      ?. すぐれたやり方──写真家と成功
        写真における成功が、高い価値を与えられた諸々の対象の撮影や特権的階級との接触などに結びついているために、職業上の種々の状況に対する各社会的出自の行動様式を把握することは、「流儀」や「階級」つまり再考の意味での社会的遺産に入れたときはじめて可能になる。


    結論
     写真の社会的用途をその多様性において分析してみてはじめて、そうした種々の用途の可能な心理的条件という問題をはっきりと提出することができる。
      ?. 過剰充当された象徴
       写真が受けいれられたやり方を見ると、写真というものが中立の対象物となることなく非常に様々な意味作用を受容し得ることがわある。法そのものが写真に関する不安と二律背反を証拠立てている。
     ?. 潜在的幻想と顕在的画像
       写真は無意識の幻想の活動に支えを与えることができるように見える。しかし病理学上の象徴と写真の象徴とは同じ水準にはない。写真の画像は無意識に道を開くといういうよりは、前-意識の合理化の口実である。
     ?. 悪魔祓いと昇華
       写真の対象物の高度な構造化とその意識的な準-飽和状態は、その対象物を精神病の停滞へと導くよりは、むしろ夢と唯美主義の純化された領域へとつれてゆく。対象物はこのようにして、社会的機能をひき受け。主観的生活の制御と訓練のための仲介的象徴体系を提供することができるのである。


    使用された研究資料の年度別一覧
    付録
    原注
    訳者あとがき
    索引

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  • とりあえず、難解なことで有名なブルデューの論文の中でも、相当に訳の分からないことを言っている本書。「遺産相続者たち」が、いかにして私たちの身の回りで再生産され続けているか、というのを説明している。写真という個人的行動が、いかに集団意識の中に統合されているかというのを説明してることはわかるのだが、やっぱり結局よくわからないで終わる

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著者プロフィール

(1930―2002)社会学者。アルジェ大学、社会科学高等研究院を経てコレージュ・ド・フランス教授。著書に『ディスタンクシオン』(藤原書店)など。

「2015年 『人民とはなにか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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