脱構築とプラグマティズム: 来たるべき民主主義 (叢書・ウニベルシタス 741)

制作 : シャンタル ムフ 
  • 法政大学出版局
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感想 : 3
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  • Amazon.co.jp ・本 (179ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588007415

作品紹介・あらすじ

民主主義にとって政治的決定の根拠は何か,という現代の核心をなす問題をめぐって,脱構築(デリダ)対プラグマティズム(ローティ)を軸に展開される白熱の討議。

感想・レビュー・書評

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  • プラトン主義から離脱して、すべてのものに根源を求めることをやめる。といういうのが、私の最近の哲学的なありようなのだが、そうやって考えているうちに、ぶつかったのが、「デリダの脱構築とプラグマティズムって、結構、似ているんじゃないか?」というアイディア。そして、「相対主義というか、絶対的な価値観をみとめないなかで、どのように決定が可能なのか?民主主義はいかにして可能なのか?」という問いである。

    という問題意識にジャストフィットの論文集である。

    これは、「脱構築とプラグマティズム」に関するシンポジウムの記録なのだが、編者が序文で、いきなり、民主主義は合理主義をベースに基礎付けする事はできない、と、ハーバーマス的な民主主義観をあっさり切り捨てる。

    で、「基礎付けなしの」民主主義をどう考えるか、ということで、議論がスタートする。というところが、なかなか心地よい(?)

    で、まずは、ローティがでてきて、「デリダの脱構築は、現実には役に立たないんじゃないの?そういうのは私的な領域でやってれば良いじゃん」的なある意味素朴な感想を述べる。

    それに対して、新進の若手(かどうかしらないが、論文の感じは、気合いが入っていて、そういう感じ)が、基本的にはデリダを踏まえつつ、ローティの議論は、乱暴じゃないのー、「私的と公的って、そんなにかんたんに分かれるとは思えない」「その区分はローティの主旨に反する一種の基礎付け主義じゃ」と、大変、ごもっともな観点から、ローティの議論を切り崩しにかかる。

    それに対して、ローティが、「脱構築がつまらん哲学といっているんじゃなくて、哲学そのものがもともとたいしたものじゃないんだ」的な開き直りで応じる。

    最後に、デリダが登場して、なんだか全体の議論をうまくまとめつつ、一段の高み(?)に読者を誘う。

    といった本である。印象的なのは、若手の議論の緻密さに対する、大御所のローティとデリダの議論の進め方の確信犯的な大雑把っぱさ、率直さであろうか。なんだか、鷹揚で、貫禄を感じるなー。

    特に、デリダの率直さは、驚くべきで、この20ページくらいのコンパクトな論文は、私がこれまで読んだデリダのテクストとしては、格段に分かりが良かった。ここまで、分かっていいのか、というか、とにかくストレートである。

    この講演が、英語圏で行われていることも関係しているのだろうけど、ほぼ同時期に、同じく英語圏で行われた「法の力」のテーマにとても近くて、デリダの政治的なスタンスがとてもよくわかるものになっていて、デリダによるデリダ入門という感じすらある。

    と、ローティとデリダのパート、および編者のまとめについては、★5つであるが、あと2人の論文が、緻密で勉強になる反面、やや疲れるので、★は4つにしておく。

  • ローティのデリダ解釈をめぐる論争です。収められている論文・論旨は以下の通りです。

    「脱構築とプラグマティズムについての考察」(リチャード・ローティ)
    ・ハイデガー、デリダは西洋形而上学に対する根本的な二元分割に疑問を抱いているという点で、プラグマティストに近い。
    ・しかし、「ニーチェーハイデガーーデリダの形而上学への攻撃は、哲学に深くかかわっている人には私的な満足を与えるが、間接的に長い目でみる場合は別として、政治的には何の影響も与えない」
    ・「レヴィナスへの無限者へのパトスは、…それを倫理や政治と結びつけることができない。倫理や政治――文化としての政治に対立するものとしての現実政治――は、対立する利害を調停することであって、――哲学的分析は不必要で哲学的前提も要らない――陳腐な身近な言葉で論議されるべき」

    「脱構築とプラグマティズム――デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」(サイモン・クリッチリー)
    〈ローティ解釈〉
    ・ローティは、「デリダの仕事が公的領域に広がると、無益とか有害であるどころか危険かもしれない倫理的、政治的影響があると」信じている。
    ・ローティのユートピアはリベラルなアイロニストという社会の構想
     →・議論によってではなく、形而上学をアイロニーとして捉えなおし、アイロニーをリベラリズムと矛盾しないように捉え直すことによって可能になる
      ・自由社会の普遍化によって可能になる
     →自由民主主義に必要なのは文学であって、哲学ではない。
    〈批判〉
    ・「こういう見解は政治的自己満足に陥る危険があって、現存の自由民主性の内部の不平等や不寛容や搾取や公民権剥奪についての事実確認的な弁護であるかのように読まれかねない」
    ・リベラルでありながらアイロニストでもあることはできない。リベラリズムはひとつの倫理だから。
    ・ローティはデリダを「デリダⅠ」「デリダⅡ」と初期と後期にわけて、公的から私的になったとしたが、この区分が疑わしいものであるだけでなく、デリダは公的→私的というものではなく、理論的思索の叙述という形式から遂行的叙述へという変化をしており、更に近年では責任という公的な問題のほうが圧倒的に支配的であり、スタイルは理論的でも遂行的でもなく準・現象学的になっている。
    ・「もちろん私の結論は、公的なものと私的なものとを和解させるという、ローティは不要だとみている古典的哲学のプロジェクトを、デリダが達成しようとしているということである。もし脱構築が正義にかなっていれば、こうした正義への責任は、私的な自己創造においても公的な責任においても完全に妥当することになる。」

    「サイモン・クリッチリーへの応答」(リチャード・ローティ)
    ・「正義」というようなふつう使われる言葉を、不可能性の名前だとする定義に重要さはない
    ・命題はコンテクストを求めるが、命題のいいところは状況に応じてメッセージをいくらでも変えられるところ
    ・脱構築は倫理的な意味はもちうるが、本質的にマージナルなものであるため、政治的意味はもちえない。
    →ローティとクリッチリーの違いは、哲学的というより政治的なものである。

    「脱構築・プラグマティズム・ヘゲモニー」(エルネスト・ラクラウ)

    「エルネスト・ラクラウへの応答」(リチャード・ローティ)

    「脱構築とプラグマティズムについての考察」(ジャック・デリダ)
    ・「決定不可能性または無限責任というテーマが、ローティがいったようにロマンティックであるとは思いません」「責任の無限性を捨てれば、責任は存在しないと私は言いたい」
    ・ローティは選択の問題を放棄している(プラグマティズムと民主主義の間に必然性はなく、そこにも選択の不可能性と事後的な決定という問題があるというラクラウの論を受けてか)

  • プラグマティズムとは何か?を考える際、ローティは避けて通れない。本書ではローティの考えが応答を経て、立体感を伴い表現されている。

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著者プロフィール

(Jacques Derrida)
1930-2004年。アルジェリア生まれのユダヤ系哲学者。パリの高等師範学校で哲学を専攻。同校の哲学教授を経て、社会科学高等研究院教授を務める。西洋形而上学におけるロゴス中心主義の脱構築を提唱し、構造主義以降の人文社会科学の広範な領域──文学・芸術理論、言語論、政治・法哲学、歴史学、建築論ほか──に多大な影響をもたらした。邦訳書に『哲学の余白』『散種』『有限責任会社』『絵画における真理』『法の力』『ユリシーズ グラモフォン』『シニェポンジュ』『アーカイヴの病』(以上、法政大学出版局)、『グラマトロジーについて』(現代思潮新社)、『哲学への権利』『フッサール哲学における発生の問題』(みすず書房)、『アポリア』(人文書院)、『哲学のナショナリズム』(岩波書店)、『声と現象』『死を与える』(筑摩書房)、『精神分析の抵抗』(青土社)、『マルクスの亡霊たち』(藤原書店)、『条件なき大学』(月曜社)、『ジャック・デリダ講義録』シリーズ(白水社)ほか多数。

「2022年 『エクリチュールと差異〈改訳版〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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