戦争論〈新装版〉 (りぶらりあ選書)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (294ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588022715

作品紹介・あらすじ

ユネスコ国際平和文学賞受賞 戦争の仕組みと形態・その理論を国家の発達との関連において歴史的に考察し、かつては政治の下婢であった戦争が今や政治の上に厳然と君臨している現実を説き明かす。人間精神の奥底にひそむ戦争礼賛の信仰を追求し、「戦争への転げ落ちる坂道」の危機とこれら脅威の根源的諸力からの解放の道を探り、真の人間的回復は何かを提示する。

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  • フランスの思想家、ロジェ・カイヨワによる戦争に関する考察。
    NHK 100分de名著で8月に取り上げられた課題本。
    副題の「ベローナ」とはローマ神話の戦争の女神である。軍神マルスの母とも妻とも妹ともされる。手には松明と武器を持つ姿で描かれる。原題は実は、”BELLONE ou la pente dela guerre(ベローナ、戦争への傾斜)”であり、タイトルを『戦争論』としたのは、邦訳の際の判断である。原題は、現代社会が坂を転がるように戦争へと向かうさまを指す。

    二部構成で、第一部は「戦争と国家の発達」とし、戦争の形態の移り変わりを論じる。第二部は「戦争の眩暈」と題され、近代以降の戦争と戦争に内在する陶酔に触れる。
    カイヨワ自身の序文によれば、第二部が先に執筆・発表され(1951年)、第一部を付して完成形にするはずが、思わぬ時間を要し、その間にさまざま詳細で優れた戦争論が出たため、簡潔な形でまとめることにしたという。原著出版は1963年。本文260ページ程度なので、大著ではなく、「観念を提示」したという著者の言の通りではあろう。

    第一部では、原始的戦争から帝国戦争、貴族戦争、国民戦争への移り変わりを追う。
    原始時代は規模の大小はあれ、偶発的な衝突が多く、急速に始まり、終わる。時代が進み、国家が形成されてくると、国外遠征をおこない、帝国の拡大が試みられる。貴族時代の戦争では、名誉が重んじられ、儀礼に則ったやり取りがあり、必ずしも相手を殺す必要はない。貴族制が倒れ、市民が国の代表となると国家間の戦いは国民間の戦いとなっていく。国民戦争の到来である。
    これらに加えて、古代中国の戦争法にも1章割かれているのがおもしろいところである。あるいはカイヨワは、「戦わずして勝つ」孫子の兵法に代表されるような思想の中に、全体戦争に相対する、戦争を回避するヒントを見ていたのかもしれない。

    第二部に記されている観念の方がおそらく主眼で、100分de名著でもこちらに重点をおいて紹介していたようだ。
    近代の戦争とは、全市民が平等となり、全市民が国家を代表する時代の戦争である。全体戦争とは、国民すべてが人員として戦争に引きずり込まれ、産業は兵站や軍需に最大限利用され、情報は制限され思想も統制される戦争である。産業の発展は、より高性能の兵器を生んだ。19世紀のある思想家は、銃の性能があまりにも上がってしまったことに驚き、
    平野戦にこのうえさらに何かの工夫を加えようとしても、ほとんど無意味であろう。
    とさえ言っている。だが、もちろん、それまでの兵器の概念を飛び越えるような兵器は、次々に生まれていくわけである。
    加えて、人間の心の根底には、どこか戦争に魅かれてしまうものがあることにカイヨワは注目する。無私、愛他、名誉。古来、戦争に魅かれ、戦争を礼讃してきた人は少なくない。そこにはどこか宗教的な魅惑も伴い、人は祭に魅かれるように、戦争の非日常性に引き込まれていく。

    全体戦争への傾きを止める決定的・具体的な策が示されるわけではない。けれども、戦争に内在するもの、国家形成がもたらしたものを考察する中から、どこに悪があるかを考え、これに対処するにはどうするか、個々人が考える重要性をカイヨワは説く。
    人間の問題として、いいかえれば人間の教育から始めることが必要である
    と。
    このような遅々とした歩みにより、あの急速に進んでゆく絶対戦争を追い越さなければならぬのかと思うと、わたくしは恐怖から抜け出すことができないのだ
    と危惧しながら。

    傾斜を、私たちは止めることができるのだろうか。
    考える一助となる1冊である。

  • 古代、部族闘争から始まり、中世はその家を守る抗争、産業革命以降は国家間紛争、そして今、テロとの抗争に。人間の文明は戦いにより、高度化し、世界規模に広がった。かつては自領、自国を守るための戦争は平時と戦時の区別があったが、常に戦時と称している今、国内には監視カメラが備え付けられ、監視される国民が国家の敵となった。サブタイトルのベローナに震撼する。

  • 戦争とは祭りである。
    と言い切ったところに魅力を感じて読み始めた一冊。

    人間が定期的に行う祭り。もし、戦争が祭りと同様に、定期的に行われるべきものだったとすれば、戦争をこの世の中から止める術など存在しない。

    個人に力点が置かれていた古代は、個人が強ければ強いほど崇められた。また騎士とは貴族特権なものであり、尊敬もされていた。

    しかし、時代が進むにつれて、貴族特権の地位から武士の位は落ち、専門の職権としても意味が強くなる。

    戦わない事こそ美徳。

    というのは、平安時代の貴族が和歌を上手く歌う事が高貴な証であった事に繋がる。

    戦国時代になって鉄砲が入ってきてからは兵器の時代だ。兵隊は個人としての尊厳を失い、ただの駒扱いとなった。現代ではアメリカに居ながらイラクを攻撃できるレベルの状況にまでなっているのだから。

    戦争と祭り、それは非日常の象徴である。消費だけをして、生産を全く行わない点が共通点となっている。

    なぜ?と言われると論理的に説明するのは難しいけれど、人にはたまに騒ぎたくなる時がある。

    それが集団として発生すると、とてつもないパワーとなって爆発するのである。

    100分で名著では、それを止めるためには教育しかないと言っていたが、理性が本能に敵うのだろうか?

    いや、人は、生き物は、ずっと戦争をしていくことになるだろう。

  • 393||C12||d

  • 「護送船団は最も船足のおそいものに合わせて進むのだが、国際社会は最も攻撃的な国に歩を合わせて進まねばならない。…最も専制的で最も社会化された国が、他の国ぐにを引っ張ってゆくことになる」

    戦争と祭りの共通点、民主主義が進展するにつれ徹底的で熾烈になってきた戦争。

  • 「100分de名著」に刺激されて読んでみる。
    著者によれば、そもそも国家の始まりは一つの人間集団が他の人間集団を支配するところから始まり戦争の種が内在している。貴族の仕事であり勇気と正々堂々が重んじられた戦争が、民主主義により平等に市民の権利と義務になり、科学技術をともなって大規模無差別化していったという指摘は恐怖そのもの。戦争によって賭けられているものが部分ではなく全体であり一国民の存亡がかかるため、慈悲も容赦もない。まさに現在、そのような戦争が起こっているではないか。

    学生の時に「パンツを履いたサル」で紹介された過剰蕩尽論で、祭りと戦争の共通性に衝撃を受けたけれど、著者はさらに進めて、祭りは合体して一つになろうとする蕩尽行為であるが、戦争は合体はなく破壊と殺戮であるところの違いを指摘。競争心が友愛の精神を圧倒してしまった国家。知ること理解することを拒否して断絶してしまったら、人間と現代の国家に組み込まれた本性によって戦争は間違いなく起こってしまうではないか。しかも、高度化した技術によって大規模破壊を目的とする戦争の犠牲者に軍人と一般市民の差別はない。一般人も殺されるというのではない。チャーチルが既に言った通り「一般人の士気は軍事目標である」。こんな戦争に、悲人道的だとか戦争犯罪だとか、なにかルールがあるようなことを強調して一方の国を非難するのはもはや茶番ではないか。
    現代の戦争には人間的な意味での原因はもうあり得ないとも指摘。制御の効かない巨大な惰性、おそるべき重みによって流されていくと考察している。解決策は人間の教育から始めることが必要であると説いているけれど、その教育もプロパガンダまみれ。

    戦争が人間と国家に組み込まれた宿命である以上、日本も例外ではない。どこどこの国はとんでもないと悪口を広めたり、大使館員を追放とか断絶をし始めた時点で、国民自らが戦争に一歩前進しているということを自覚しなければならないと思った。力や経済による制裁では戦争は止められないことも体感している。過剰蕩尽の馬鹿騒ぎでいいから、合体できるお祭りができればいいな。理解を拒絶する断絶はダメだ。

  • ほとんど頭に入ってこない。戦争論のひとつである、と考えておけばいい。

  • CRa

  • サブタイトルが示す通りなんでしょうね、、、「われわれの内にひそむ女神ベローナ」

    法政大学出版局のPR
    「ユネスコ国際平和文学賞受賞 戦争の仕組みと形態・その理論を国家の発達との関連において歴史的に考察し、かつては政治の下婢であった戦争が今や政治の上に厳然と君臨している現実を説き明かす。人間精神の奥底にひそむ戦争礼賛の信仰を追求し、「戦争への転げ落ちる坂道」の危機とこれら脅威の根源的諸力からの解放の道を探り、真の人間的回復は何かを提示する。」

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著者プロフィール

(Roger Caillois)
1913年、フランスのマルヌ県ランスに生まれる。エコール・ノルマルを卒業後アンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリスム運動に参加するが数年にして訣別。38年バタイユ、レリスらと「社会学研究会」を結成。39–44年文化使節としてアルゼンチンへ渡り『レットル・フランセーズ』を創刊。48年ユネスコにはいり、52年から《対角線の諸科学》つまり哲学的人文科学的学際にささげた国際雑誌『ディオゲネス』を刊行し編集長をつとめた。71年よりアカデミー・フランセーズ会員。78年に死去。思索の大胆さが古典的な形式に支えられたその多くの著作は、詩から鉱物学、美学から動物学、神学から民俗学と多岐にわたる。邦訳に、『戦争論』、『幻想のさなかに』(以上、法政大学出版局刊)『遊びと人間』、『蛸』、『文学の思い上り』、『石が書く』など多数。

「2018年 『アルペイオスの流れ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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