- Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
- / ISBN・EAN: 9784588300196
作品紹介・あらすじ
石の尺八を彫って天皇から「日本一」の讃辞を賜った幕末の名工・丹波佐吉の波乱にみちた生涯を各地に残された遺作と職人たちからの聞書をもとに克明に跡づけ、幾多の石仏・石神を遺して野に埋もれていった旅廻りの石工たちの知られざる生活を当時の社会状況と照合しつつ浮き彫りにする。〔歴史・伝記〕
感想・レビュー・書評
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現在のあきる野市にある伊奈という場所に石工が集まっていて、座頭や瞽女に「忌み筋」とされていたためやがてみな廃業していなくなった、という話を知れたのが収穫。また石工が渡りで腕を磨くという、他でも読んだ話がよく書かれていた。著者の金森敦子さんが多くの石工に聞き取りされているのに敬意をもった。
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去年、丹波を旅した時に、立派な狛犬を見かけました。
それを手がけた石工について記した本があると知り、取り寄せて読んでみました。
表紙は、まさに私が見た、彼の代表作である柏原八幡宮の狛犬です。
石を扱う職人が石工。
建物の土台を担当するような目立たない仕事ですが、石仏や灯籠、狛犬などを手がけるときには、技工や装飾性などでその石工の腕が競われます。
この丹波佐吉(1816-1866?)の生涯は、とても数奇なドラマチックなもので、まるで映画のシナリオを読んでいるようでした。
但馬地方の竹田で生まれた彼は、五歳くらいで両親を亡くして孤児になり、まずは地元の製糸業の若旦那に引き取られます。
それから、仕事でやってきていた丹波の石工の伊助(金兵衛)が、自分の養子分として故郷に連れ帰ったそうです。
ゆくゆくは若松屋の後継ぎになったかもしれない五歳の佐吉を引き取った伊助は、佐吉の才能を見出し、石工としての教育を施したとのこと。
そのままいけば伊助の後継ぎになったであろう佐吉ですが、二十歳を超えた頃、伊助に後を継ぐべき息子が生まれたことでこっそりと家を出ます。
自分を引き取り、育ててくれた恩師の元を去らなくてはならないのは、そのまま家にとどまると、次期跡継ぎとなる子どもの下で働くことになるからだとのこと。
ここで、石工の仕事は肉体的に辛く、細かい石の粉を肺に吸い込むため、短命だと知りました。
いくら石屋でも、そうした職業を長男に継がせようとはせず、慣習的に次男が継ぐのだそうです。
ちなみに伊助を初代とする難波金兵衛氏のお宅は五代目になり、今でも石屋を開いているそうです。
佐吉は恩師の家を出たのち、町から町へと渡り歩く流しの石工となりました。
技術がありさえすれば行きていける、気楽な生活のように思えますが、当時の貧しい世の中や、流れ者への村人の抵抗などで、なかなか大変な暮らしだったことが語られます。
佐吉は10年間、そうしたワタリの生活をし、その間に「尺八を石で作る」という伝説的な偉業を遂げています。
その尺八は石ながらきちんと音が鳴り、孝明天皇に献じられて「日本一なり」との賞辞を得たとのこと。
そこから佐吉は日本一の石工として、有名になっていきます。
この伝説的な石の尺八、ぜひ見てみたいものですが、今となっては宮内庁も探せないとのこと。
民間からの宮内庁への献上品は、特別なものを覗いて百年ほどで処分することもあり、逆に天皇家に献上されなければ、石の尺八は今に残っていたかもしれないというのが残念なところです。
その後、恩師伊助の死を聞いた佐吉は、丹波の難波家に戻ります。
出奔してから20年が経過しており、そこで、成長し、立派な職人となった義継と対峙します。
伊助の死によって新しい後継者となった義継と、なりそこねた佐吉。
二人の名職人が相容れられるわけもなく、息詰まるような共同生活が始まります。
佐吉にとっても、伊助に育てられた難波家は自分の家同然。複雑な状況です。
その時期に、佐吉は柏原八幡神社の狛犬を作成しました。
佐吉の最高傑作と言える、すばらしい作品です。
このことで彼は名を上げ、故郷に錦を飾ることが出来ました。
成功者として晴れてこれから、という時に、彼は自分が梅毒にかかっていることに気づきます。
日本一としての伝説を守るために、再び彼は出奔し、素性を隠しながら治療に努めます。
しかし当時不治の病と言われた病に徐々に身体を蝕まれ、ボロボロになって再び難波家へと転がり込む佐吉。
どう向き合えばよいのかと躊躇う義継の困惑が手に取るようにわかります。
そして佐吉は、三たび黙って家を出ます。
もう丹波に戻る体力はなく、仕事の引き継ぎを頼む彼からの文が大和から義継の元へと届き、逡巡の末に義継は引き受けたようです。
その後の佐吉の消息は全くわからないとのこと。
野垂れ死にをしたのか、別名にて死を迎えたのか、何も記録は残っていません。
生前、彼は何回も名字を変えて名乗っていますが、その理由もわからないままです。
残念なのは、石工はその作品全てに名前を記すわけではないため、彼の作品全てを把握するのは到底不可能だということ。
ただ、但馬に彼を祀るお宮があるという話もあるそうです。
天才的な技術を持つ職人ではあったものの、破滅的な性格で自分の人生をかき回した佐吉。
気性が激しくむらがあるため、作品の出来もその時々での波があるようです。
佐吉の作品を実際に見たため、どうしても彼の方に肩入れして読んでしまいますが、伊助の後を継いだ義継もかなりの腕前で、長谷寺の狛犬を造ったあまりの出来の良さに、同業者の恨みを買って毒を盛られ、しばらく四肢の自由を失っていたほどだとのこと。
それだけの力を持つ職人だとわかりますし、石工同士のプライドのぶつかり合いは相当熾烈なものがあったことが予想できます。
その義継が手がけたという当勝神社の狐が紹介されていました。
たまたまこちらも、実際に見ていたものなので、心を動かされました。
これは佐吉の狐を手本に手がけたものだとのこと。
さんざん振り回された兄弟子への屈折した思いを超えて、佐吉の技術を自分のものとした、職人魂が見られるようです。
技術が先立つあまりに心が伴わず、出来上がった石仏は完璧でありながらも、人に感動を与えないと知って思い悩んだ佐吉。
まさに芸術家としての苦悩が見えます。
石工は、無名な職人であるべきか、有名な作家であるべきか。
その線引きの難しさも語られます。
ワタリとしてさすらった彼の行動範囲は広く、しかも3回も出奔している、調査者泣かせの自由人。
著者はかなり聞き込み調査を行って、綿密な情報収集に努めていますが、それでもはっきりとは断定できない仮定情報が数多くあることでしょう。
それでも、まるで佐吉のことを知っているかのようにグイグイと語られていく文章。
ある程度は断定的な文調で書いていかないと、こういった話はまとまらないものなのかもしれません。
これまで、石工はきちんと店を構え、その土地に根ざした堅実な職人たちだと思っていましたが、彼のように渡り歩きながら名も無き仕事を請け負って生活していた職人がかつては多かったことを知りました。
そういった人々がすっかり姿を消したのは、昭和30年頃だとのこと。
戦後もまだワタリは残っていたわけですね。
百五十年以上も前に生まれた人物であるため、今では語る人も少なくなり、石の作品に残る名前が頼りになっていくばかり。
そうした、消え行く伝説の石工を追い求め、その生涯をここまで調べあげた著者の情熱に頭が下がりました。
そうして、これほどの苛烈な一生を送った人の作品とは知らないながらも、ただ作品の精巧さと迫力に圧倒されるままに、彼が作った「蒼い狛犬」に触れた、自分の幸せを感じました。